昨年の原発事故後に植えられたひまわりの道、今年
もまた花をつけた。
ひまわりははじけるような明るさというありふれた
イメージがついているけれど、ゴッホのひまわり、
ソフィアローレンとマストロヤンニの映画ひまわり、
どれも明るさとは縁遠い。そして福島のひまわりは
それに輪をかけて悲壮感さえ漂って少しも明るくは
ないのです、私にとっては。
土中のセシウムを吸着させるために植えたのでしょう
けれど、その効果はほぼ期待できないほど微小なもの
であることがわかっていますが、何もしないよりも
いい、そんな感じでしょうか。
放射能汚染土がそこにあるという目印のように見えて
しまうので、皮肉なものですがこれが現実です。
この別荘?の家主は何を思っているのかと通るたびに
思います。残念がっているだろうな、とか離れがたく
なんとかしたいんだろうな、とか。
悲しんでるなんて言うとちょっと軽く感じます、
相応しくない気もするのです。
悲しみには理由があって、理由ごとに深さもある。
原発事故は人々の故郷を奪ってしまった、人生の根
を殺ぎとってしまったのですから理不尽すぎて、
悲しみには猛烈な消えることのない怒りが混じって
いる、その分ただの悲しみではないのです。
周りを見渡せば以前と変わらない景色がそこにある、
けれど…と現実には変わってしまったのは否定できない
なかったことにはできない、それが事実です。
だいじょうぶ、帰っておいで、と悪魔の囁きがテレビ
から流されていますが、誰も信じたりはしません。
残っている人も戻ってきた人も、理由は行くところが
ないからであって、だいじょうぶだからなんて誰も
思ってなどいないのです。
それほど愚かなわけがなく、悲しすぎる惨い現実です。
日本という国は戦中戦後を通して、民衆を蔑ろに
する政治をしてきました。
そのことの象徴が原子力ムラという組織であり、
電力会社が何をしてきたのか、今何をしているのか
が人々の知るところとなりました。
電気がじゅうぶんに行き届き、ネオンの輝く町は高度
経済成長の証のようなもので、いつのまにか電気が
あるから豊かなのだとさえ思うようになっていました。
そう思い込まされてきたわけですが。
人々の心も物に憑かれ強欲になっていきました。
もはや勤勉な日本人というのは過去のイメージで。
原子力ムラに集る勝手放題をしてきた一握りの人々も
また日本人ですが、彼らは国を思っているでしょうか。
彼らの思う国とは何でしょうか。
彼らは自分たちが国を動かしているとさえ思っている
ようです。動かしているというのは正しくなく貪って
いるというのが実態でしょう。
国は少しも動いてなどいない、進んでなどいない、
むしろ後退の一途を辿り、腐敗し腐りかけている、
それが客観的に見た日本の現状ではないでしょうか。
古き伝えの旧事本紀を源宗先生に学び、世俗から
遠ざかる時間を作ろうと森に住んだはずの私ですが
ライフワークの釈義についてほとんどここには書か
なくなりました。
この一年、書いているのは原発と放射能の話ばかり
です。いぶかしく思われているかもしれません。
歴史を学ぶ、古(いにしえ)の伝えを学ぶのは興味
本位ではなく生きる智慧をそこに求めてきました。
そして今ほど生きることが難しく差し迫った問題と
して突きつけられたことはありません。
書斎にこもって古語とだけ付き合っていることが
できなかったのは、一つには私が未熟だからでもあり
ますが。
この一年と少しの間、現実の事象のすごさに振り
回されもしました。
いつもそうですが、この月日、この時間の積み重ね
を通して、私は古からの声をこれまでよりも一層
深く理解して聞くことができるようになる、そんな
気がしてきました。
考え続けているのですから、無駄な経験など一つ
もないのだと思うのです。
お盆が明けて再び、東京そして全国各地で反原発
の声が高まっていくことでしょう。
「抵抗」とは己自身を汚さぬことではないかと
思います。
まっすぐに正しく生きようとすることが何よりの
抵抗する姿であり、己を捨てパンのために捲かれて
しまう弱さや卑屈を自ら拒む力です。
その強さは憎しみや怨みから生まれるのではない、
自分を汚さぬようにという正直さこそが最後の砦
で、何より強固に己を守ってくれるのだと思います。
古の伝えにある教えに己とは何か、魂とは何か、
正しさとは何かが記されています。
人は食うために大きく偏ってしまい、ここまで
来てしまったけれど、今気づき始めたのではない
でしょうか。
嘘のない世界は夢物語ではなく逆に嘘で固めた世界
のほうが崩壊する、その理の流れに気づいてきたと
思います。
残骸を再び嘘で固めようにも、放射能を封じ込める
ことなど人間には不可能で、さらに嘘に嘘を重ね
もうどこへ向かえばいいのかさえわからなくなって
いる嘘つきどもの今日の行状です。
それを哀れむ余裕さえ私たちにはある、なぜならば
自分たちが間違っていないことを知っているからです。
正しいことを知っているからです。
紫陽花革命は思索した人々がただそこへ集うという
静かで穏やかな行動で、そこに暴力はいらないわけは
知っている強さではないでしょうか。
それを見て術を持っていない、集まるだけしか能が
ないんじゃダメだ、地道で気長に…結果はともかく
とか諸々、高みの見物している人々が語っていますが、
集う人々の意思は見かけより強く堅いものであると、
いつも実感します。
そしてそこで新たに勇気や励ましをもらっています。
悪政に抵抗し、国を取り戻す闘いを続けるために、
智慧を絞っていきましょう。
もまた花をつけた。
ひまわりははじけるような明るさというありふれた
イメージがついているけれど、ゴッホのひまわり、
ソフィアローレンとマストロヤンニの映画ひまわり、
どれも明るさとは縁遠い。そして福島のひまわりは
それに輪をかけて悲壮感さえ漂って少しも明るくは
ないのです、私にとっては。
土中のセシウムを吸着させるために植えたのでしょう
けれど、その効果はほぼ期待できないほど微小なもの
であることがわかっていますが、何もしないよりも
いい、そんな感じでしょうか。
放射能汚染土がそこにあるという目印のように見えて
しまうので、皮肉なものですがこれが現実です。
この別荘?の家主は何を思っているのかと通るたびに
思います。残念がっているだろうな、とか離れがたく
なんとかしたいんだろうな、とか。
悲しんでるなんて言うとちょっと軽く感じます、
相応しくない気もするのです。
悲しみには理由があって、理由ごとに深さもある。
原発事故は人々の故郷を奪ってしまった、人生の根
を殺ぎとってしまったのですから理不尽すぎて、
悲しみには猛烈な消えることのない怒りが混じって
いる、その分ただの悲しみではないのです。
周りを見渡せば以前と変わらない景色がそこにある、
けれど…と現実には変わってしまったのは否定できない
なかったことにはできない、それが事実です。
だいじょうぶ、帰っておいで、と悪魔の囁きがテレビ
から流されていますが、誰も信じたりはしません。
残っている人も戻ってきた人も、理由は行くところが
ないからであって、だいじょうぶだからなんて誰も
思ってなどいないのです。
それほど愚かなわけがなく、悲しすぎる惨い現実です。
日本という国は戦中戦後を通して、民衆を蔑ろに
する政治をしてきました。
そのことの象徴が原子力ムラという組織であり、
電力会社が何をしてきたのか、今何をしているのか
が人々の知るところとなりました。
電気がじゅうぶんに行き届き、ネオンの輝く町は高度
経済成長の証のようなもので、いつのまにか電気が
あるから豊かなのだとさえ思うようになっていました。
そう思い込まされてきたわけですが。
人々の心も物に憑かれ強欲になっていきました。
もはや勤勉な日本人というのは過去のイメージで。
原子力ムラに集る勝手放題をしてきた一握りの人々も
また日本人ですが、彼らは国を思っているでしょうか。
彼らの思う国とは何でしょうか。
彼らは自分たちが国を動かしているとさえ思っている
ようです。動かしているというのは正しくなく貪って
いるというのが実態でしょう。
国は少しも動いてなどいない、進んでなどいない、
むしろ後退の一途を辿り、腐敗し腐りかけている、
それが客観的に見た日本の現状ではないでしょうか。
古き伝えの旧事本紀を源宗先生に学び、世俗から
遠ざかる時間を作ろうと森に住んだはずの私ですが
ライフワークの釈義についてほとんどここには書か
なくなりました。
この一年、書いているのは原発と放射能の話ばかり
です。いぶかしく思われているかもしれません。
歴史を学ぶ、古(いにしえ)の伝えを学ぶのは興味
本位ではなく生きる智慧をそこに求めてきました。
そして今ほど生きることが難しく差し迫った問題と
して突きつけられたことはありません。
書斎にこもって古語とだけ付き合っていることが
できなかったのは、一つには私が未熟だからでもあり
ますが。
この一年と少しの間、現実の事象のすごさに振り
回されもしました。
いつもそうですが、この月日、この時間の積み重ね
を通して、私は古からの声をこれまでよりも一層
深く理解して聞くことができるようになる、そんな
気がしてきました。
考え続けているのですから、無駄な経験など一つ
もないのだと思うのです。
お盆が明けて再び、東京そして全国各地で反原発
の声が高まっていくことでしょう。
「抵抗」とは己自身を汚さぬことではないかと
思います。
まっすぐに正しく生きようとすることが何よりの
抵抗する姿であり、己を捨てパンのために捲かれて
しまう弱さや卑屈を自ら拒む力です。
その強さは憎しみや怨みから生まれるのではない、
自分を汚さぬようにという正直さこそが最後の砦
で、何より強固に己を守ってくれるのだと思います。
古の伝えにある教えに己とは何か、魂とは何か、
正しさとは何かが記されています。
人は食うために大きく偏ってしまい、ここまで
来てしまったけれど、今気づき始めたのではない
でしょうか。
嘘のない世界は夢物語ではなく逆に嘘で固めた世界
のほうが崩壊する、その理の流れに気づいてきたと
思います。
残骸を再び嘘で固めようにも、放射能を封じ込める
ことなど人間には不可能で、さらに嘘に嘘を重ね
もうどこへ向かえばいいのかさえわからなくなって
いる嘘つきどもの今日の行状です。
それを哀れむ余裕さえ私たちにはある、なぜならば
自分たちが間違っていないことを知っているからです。
正しいことを知っているからです。
紫陽花革命は思索した人々がただそこへ集うという
静かで穏やかな行動で、そこに暴力はいらないわけは
知っている強さではないでしょうか。
それを見て術を持っていない、集まるだけしか能が
ないんじゃダメだ、地道で気長に…結果はともかく
とか諸々、高みの見物している人々が語っていますが、
集う人々の意思は見かけより強く堅いものであると、
いつも実感します。
そしてそこで新たに勇気や励ましをもらっています。
悪政に抵抗し、国を取り戻す闘いを続けるために、
智慧を絞っていきましょう。