想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

椿はむかしむかしからあるね

2015-04-07 20:15:08 | Weblog
つばき、植えた日の写真です。
いえ、上のはジョリの子の昼寝です。
下が椿、わかってるよ、とツッコンんでくださいww



四海波(しかいなみ)という白とピンクの花びらと
エリナという変わった種類の椿を植えました。




エリナは中国産で小さな花をつけるそうです。
葉も普通の椿の葉の肉厚の緑色ではなく、小さめです。

つばきの木は旧事紀の地神本紀に登場します。
むかしむかしからあるんですなあ。

若い頃は椿なんて、と思ってました、実は。
椿愛に目覚めたのは近年のことです。
つややかな濃い緑の葉と、花。白も赤もどちらも
好きですね。
別の場所にヤブツバキを植えていますが花つきが悪くて
どうにかしてあげないとと本気出しています。
椿の北限は東北南部らしいので、雪深いこのあたりは
ちょっと厳しいのかもしれない…とか悩みながらですが。

でも椿をもっと増やしたくて、新たに若木を買いました。
友人が土壌改良剤を開発製造していまして、ここで試して
くれるというので植え込みに使いました。
ドキドキ、だそうです。
だって枯れたりしたらヤバイ、だそうです。
だいじょうぶに決まっとるよ、と言いながらジャバジャバ
使います。(すでに他所でテスト済みと知ってるからね)
造った当人は謙虚なんですわ。



デイジーも植えました、球根類は小鳥に狙われるので
土をなるべくかぶせています。
去年はチューリップの芽を全部食べられたので。
GW頃にいろいろと一斉に咲きだすので楽しみなんですが。



この子はもう一才になりましたよ。
昼寝場所までお母さんの江戸を真似て、こんな感じです。
子猫はなんでも親の真似をして覚えていくのですな、
見ていておもしろいですが、そこ、真似るんかい、と
覚えなくてもいいことも身につけます。
オヤツのねだりかたなど、そっくりな鳴き方をして
目配せしてきます。
そしてヒトはかわいいなあ、なついたなあ、と騙されて
しまうことになるのです。

猫好きには猫神さまが見えるらしいですが…
うちにはまだお見えになっていません、ただの猫たちが
ふんぞりかえっています。
たぶん、犬神の子分なんだろうと寛大な気持ちでご接待
しているわけです。
にぎやかしにちょうどいいですから。

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犬と暮らした日のこと

2015-04-07 00:44:03 | Weblog
自分で思っている以上に、たいていの人はわがままである。
そんで、善い人なんかじゃないのだ。
そのたいていの人のうちの一人である。ま、自分を通してしか
人間を知るなぞということはできんわけだから当然であるが。

そんで、おまえはけっこう自分勝手だぞと教わった相手は
犬でありますよ。
これは何度もここで書いたことだけど。

犬と暮らす、暮らすというのは飼うことをいうのではないのです。
暮らすというのは、なにもかもいっしょであるということです。
人間が暮らすのと、犬が暮らすのを分けていないというです。
飼っているだけだと、犬から教われることはしれています。
よく喰うとか案外に猫っぽいとか腹を出して寝るのは常なんだな、
とか、そんなことくらいです。
これならほぼ観察の領域で、知り合いや親戚の家の犬を見るだけ
でわかることですね。

いっしょに暮らすと、生活は犬中心になります。
それが困るんじゃないかと想像して飼わないという人いますね。
それは賢明なことです。考えもせずにかわいいだけで飼って
都合が悪いとポイ捨てする人が多いのですから、想像してみる
ということはとても大事なことです。

で、実際に暮らすようになると、想像は想像にすぎないことが
わかってきます。想定外がほとんどなのです。
いや、想定内で片付いているという場合は、それは人の都合を
優先した生活をしているからなのですが…。
想像以上に楽で、想像以上に大変、その両方のことが起きます。

かわいがっているつもりが実は犬には迷惑、なんてことは
初心者がよくやることです。ずーっとそれを犬の一生分続ける
人だっています。犬とうまくいってないのに気にしないからです。
自己中な行動は人同士なら関係がぎくしゃくします。
犬だって同じなのです。犬は人の勝手に従ってはいません。
ただ、そこで生きることを優先し、状況に折り合いをつけます。
つけられないほど酷い状況に置かれると、犬も人と同じです。
弱ったり、抵抗したり、傷ついたり、病んだりします。

ベイビーが1歳から2歳にもうすぐなろうとする頃、わたしは
自分がわがままを押し付けていたのだということに、突然気づき
ました。その時から、ベイビーとわたしは対等になりました。
うちのベイビー(爺さんになってもベイビーと呼んでました、
愛しいという意味なのねん)は、目線が同じになって思いが伝わる
ようになると、とても静かなおだやかな性格だとわかりました。
いろんな面で、ずいぶんとヒトよりも秀でていることもです。
それで、いろいろと教われることがありましたね。
ま、鏡のような存在です。

毎日を規則正しく暮らしました。
同じ時間に起き、散歩をし、ごはんを食べる。ベイビーは昼寝
わたしは仕事。ベイビーは遊び、わたしも遊び。散歩、ごはん、
遊び、お話。仕事。寝る、寝る、寝る。こんな具合です。
出かけるときは車に乗って、いっしょに行きいっしょに仕事、
みたいなもんでした。行く先々で人気者でした。
犬がほめられてるのに自分のことみたいに気をよくしていた
ことが今になって可笑しく懐かしく思います。
なごやかで、おだやかに過ごせるように、ベイビーが空気を
変えてくれるのでした。

用心棒でもあったわけですが、実はみかけほど勇敢な犬かどうか
それは試したことがないのでわかりません。
ただ、人間はみかけで判断するので、図体がデカク黒々として
牙がちょろっとはみ出していたりする(アクビのあと)のを
見て怖れたりします。それでじゅうぶん役立ちました。
どや、デカイ犬やろ、みたいな態度はとらなくても人に避けらます。

強くて元気な時、わたしも元気だった。
歳をとってシナシナのぷーちゃんと呼ぶようになった頃、
わたしももう中年もいいとこなんだわ、と気づかされて。
そして、先にどんどん老いていくベイビーを見ていました。
ころころしていた赤ん坊、逞しい青年期、成熟し落ち着いた顔、
あごひげが白くなってきて、ゆっくり歩くようになってきた
その姿に、自分のこれまでとこれからを重ねるように見たのでした。

受け入れ難い老いを、じっと耐えている感じ。
耐えて、自力で立つ姿。
愚痴ったりしないし、弱音も吐かない。
じっとしているのに、そこのあたりが、ぽっかりとあたたかくて
やさしい塊があって、もう犬なんだか
「やさしい」という種なんだか、
その鏡にいつも照らされて暮らしました。

自分の狭量さ、底意地の汚さ、欲深さ、そんなものがあることを
鏡に見いだして、シッポでパンパンとハタキをかけてもらい、
だんだんとすっきりとしていき、「元気」になりました。



人の作った環境に左右されながらも、犬の本質は生きることに
まっすぐ、それだけです。
犬が地神(くにつかみ)のふところの中に生きていることを
晩年のベイビーを見ながら覚っていきました。自然に生き、
自然に還るという意味をです。
生きることに迷う人間にとっては、一筋縄ではいかないことが
犬には簡単で、それは選択肢を持たないからだといえます。
持てないからではなく。

選択肢が多いほどいいと勘違いすると、多くなればなるほど
原点から遠ざかっていることに目がいかなくなります。
周り道だと気づかない、枝分かれした先から戻り道がないことも
わからなくなります。すっと一筋ということの大事さを忘れも
します。

野生は野蛮ではない。
なのに野生を文明の対極に置くことで、人は身体を超越しようと
してきました。
身体の境界が機能しなくなれば、外界との交通がうまくいかず
おのずと人は自己中心的な感覚しか持ち得なくなります。

自分からの発想、自分からの目線、自分の価値観、そして
自己満足で自己完結し、自分にとっていいか悪いかだけ。
それしか結論にならない閉じた世界です。
逆に、外界とつながり一つに一筋にとろけあっていられれば、
個の理も全体の理も矛盾しない世界があるのですが。
何を怖れて閉じているのか、と考えたことがありましたが、
怖れではなく、強欲が原因なのですね。欲は欲を呼びますから。

目はものを見ず、
耳は声を音を聞かず、
口は心を語らず、
鼻は悪に利かず、
陰は見境なく、
充満した汚れに占拠されてしまった身体。
足る事を得ず、飢え、どこまでも貪ります。
善悪の境界もありません。

そういうモノに、動物はすばやく、めざとく反応し、避けます。
犬の鼻は目に見えないものにも敏感でした。
わたしはベイビーに愛される価値があるか、時として自信がなくなり、
だからいっしょに遊んでくれると、いつも嬉しかった。
あたりまえとは思わなかった。
ねえ、つきあってくれてんじゃないの、しょうがねえなあって、
と疑うときも、ままあったりして。

ずっと甘えていたのだと思います。
そして、こころから、やさしさを教えてくれたことがわかります。
ゆったりと、おだやかで、怒るときも静かで、おおらかでした。
神さまのお使いでしたね、わたしにとっての犬は。

神さまのお使いが、神さまのところへ帰ってしまって
しばらくは悲しいのかさみしいのか何もかも調子が狂ってしまい
もう元へ戻れないのか、元がなんなのか、混乱の極みでした。
犬の里親探しの告知があると、見学に行ったりしましたし
一日ボランティアで犬の世話をしたり、気晴らしとわかっていて
勝手もしました。
それで気持ちが晴れるわけではなかった、当然です。

ある日ひとり、ぷ~ちゃんの円墳と名づけたお墓の前でぶつくさと
話しかけていたのです。
ねえ、ねえ、ねえ、と。
まだまだ、涙は乾かないのでそのうち鼻水が出てきます。
ねえねえねえも言えなくなって黙っていました。

目を閉じてじっとしていると、ふわっと暖かい風に撫でられて
気持ちが落ち着いてきました。
つぶつぶの粒子になったベイビーが遊んでいる、シッポを振って
上目使いで見ている。
妄想です、でも気配はベイビーでした。

長いあいだ離れていたやさしいふんわりした気配がそばにいて
久しぶりに安心したのでした。

愛されると人は優しくなれます。
そして愛すると哀しみを知ります。
もっと愛すると強くなっていくことを、最後に教えてくれました。

犬はふしぎです。
人はあまり不思議ではない存在になってしまったけれど
犬はふしぎなまま、むかしと変わらずにいます。
そのことに人はなかなか気づかないけれど。

犬と暮らすということは、うまれたてのまだ汚れのなかった頃の
喜びを人に思い出させてくれることではないでしょうか。

あの楽しかった時間を思い出すと、今も幸せです。
(なんだか人に失望することの多い日々、彼を思い出し
自分のために書いたようなものです、読んで下さって
ありがとうございました)


















コメント (3)
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