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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

キムタクの告白

2007-11-25 12:56:07 | 駄目
 まず、「自己愛」と「自信」はどう違うのだろうか?

 好きと信じるは違う。
 恋人同士、相手をいくら好きでも、いまいち相手を信じられない事が当然あるように、また、いくら自分を好きでも自分を信じていない人もいる。

 好きって気持ちと、信じるという気持ちはまるで違う。好きと信じるってのは、本来は別々でイコールの関係ではない。
 好きという気持ちはかなり感情的なもの。
 だけど、信じるという気持ちはだいぶ理性的なもの。
 相手を愛してさえいれば、自動的に相手を信じられるワケではもちろんない。愛しているから信じたいと願っているだけなのだと思う。

 好きと信じるはまったく別の気持ちだ。

 例えば、あなたが SMAP の木村拓哉の大ファンだと仮定する。
 キムタクの事が死ぬほど好きなのだ!

 三度の飯よりキムタクが好きなそんなあなた。
 ある日突然、道を歩いていたらキムタクがむこうからスタスタやってきて、あなたの手をにぎり

「アイラブユー」

 とささやくように愛の告白した。そうされたなら、あなたはそれをにわかに信じられるだろうか?

 いや、この例はあんま良くない。
 そりゃ、そう言われたら疑うもなにも、まずその告白を信じたいよな。

 なら、キムタクに突然、

「俺、本当は M78 星雲から来たウルトラの国の住人なんだよ!」

 とカミングアウトされたらどうだろうか?
 たとえ、それが真実であったとしてもあなたは思わずこう言ってしまうはずだ。

「えっ、ウソ!」

 とかたぶん、絶対にそんなような疑いの言葉を大好きなキムタクに向かってあなたが言うはずだと俺は確信する。

「わたしも本当はバルタン星人なの!」

 とかなんとかすぐに切り返せる女性や、本当にバルタン星人の女性などは絶対にいないと思われる。
 これ、すなわち、やはり、どんなに好きでも、全く妄信的に信じているのでは無いという事であろう。好きだから信じたいだけなのだ。
 好きになるだけならストーカーにだって出来る。
 下手するとスニーカーだって人を好きになる。
 だが、相手を信じる気持ちは、相手との信頼関係の積み重ねによってのみしか成りたたない。

 てか、なんて言うか、我ながらひどく強引な例え話だったなと思うが、だいたい、「好き」と「信じる」は別々の気持ちだなんてことは、例え話にして持ち出すまでもなく冷静に考えれば誰にでも分かるごく当たり前のことで、当たり前の事をなにムキになってキムタクまで持ち出して解説してるんだよとお思いの方もいらっしゃるでしょう。
 ちなみに俺の誕生日はキムタクと同じ11月13日であります。

 俺は何が言いたいのだろう?

 ようするに、自己愛と自信は違うモノだよってことです。

 自己愛は、自分大好きって気持ちです。
 かなり動物的な本能みたいなもんで、生まれながらにして身につけているものだと思います。

 それに比べて、自信は自分で自分の行動を信じることが出来る気持ち。
 これは、かなり理性的なものです。
 自信は社会生活の中でコツコツと身につけていくもので、最初から自信満々の子供なんかどこにもいません。
 自分の頭で考えてした行動が成功するという経験を何度も何度も積み重ねて、子供は自信をもって生きられるようになるのです。

 とりあえずそんなん。


定義

2007-11-25 10:19:24 | 駄目

<お詫び>

 この先の記事には、附属池田小事件の被害者ならびに遺族の方々にとって大変に不快な内容が含まれております。
 申し訳ありません。誠に勝手ではありますが、事件の関係者にはこの先を読んでいただきたくないと願います。死者を冒涜するのがこの記事の目的ではありません。ですが、記事の1部に、加害者を弁護するような内容が含まれており、大変に読み苦しいと思います。
 亡くなられた方々の冥福を心よりお祈りいたします。

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 宅間守の性格を語るために、「自信」「自己愛」「虚栄心」という3つのキーワードを用意した。
 だが、こういった抽象的な言葉は、それぞれの人でそれぞれに使われ方が微妙に変わる。なので、なるべく正確に内容を伝えたいと考えるなら言葉の持つ意味をきちんと決めねばならない。

 そこで、俺の思う宅間守の性格を、正確に伝える為、今回つかう3つのキーワードの意味をきちんと決めてから使用したいと考える。

 だが、これはあくまで、宅間守の性格を語る為だけの定義付けであって、ここで絶対に忘れていけないのは、俺は超テキトーであるという事だ。
 だから、ここで決めた言葉の定義を俺が死ぬまで守るかどうかは俺には分からない。たぶん、まぁその場の雰囲気で適当に使い分けると思う。

 そんななんで、これから宅間守の性格を語る為だけに言葉の定義付けをする。
 宅間守 専用の定義だ。これを、宅専と名付けよう。

 ようするに、これから3つの言葉について定義付けをするけれど、宅間守の話をするとき以外は一般良識の範囲内で3つの言葉を使うから誤解しないでねってこと。

 では、定義付けをはじめよう。

『自信』

 文字どおりに「自信」は、自分を信じる心と定義したい。

 自信とは、自らそのものや、出来る範囲(分)を知り、それを信じる心である。

『自己愛』

 文字どおりに「自己愛」とは、自己を愛する心と定義したい。

 自己愛とは、自分ラブラブーって心である。

『虚栄心』

 文字どおりに「虚栄心」とは、虚栄する心と定義したい、

 んだけど。えー、これじゃ駄目だな。

 普通にいう虚栄心の意味は、内容がともなっていないのに人から良く見られたいと望む心なんだけど、それだけでは少し言葉が足りない。

 もう少し言うなら、自分を他人から、こんなふうに見てもらいたい、こんなふうに扱われたいと望む心までをも虚栄心に含みたいのだ。
 また、あの人はプライドが高いとか、気位が高いとか、あんまり良くない意味で他人を評価する時に使われるプライドや気位のあの言葉の感じも、この虚栄心の定義に含みたい。

 他人にこうしてもらいたいとか、こう見られたいとかいう心。
 他人になめられり、馬鹿にされたくないという心。
 もっと拡大すると、他人を思いのままにコントロールしたいなんて欲望までをも虚栄心の定義に含めたい。いや、含める。

 虚栄心の辞書的な意味はもちろん違う。
 ただ、ふさわしい言葉が思いつかなかったからね。

 そんなで、定義付けをしたので、本文をしぶしぶ書いていこうかなと思います。


みんな好き

2007-11-24 19:04:33 | 駄目
 愛にもいろいろある。

 仏教ならば、愛とはすなわち煩悩で、他人を求める欲望である。
 だから愛情が強い女性は低く見られた。

 キリストや神の愛は、本当なら「慈悲」と訳されるべきものである。

 男を愛するのは神である。
 女を愛するのは神と男である。
 子を愛するのは神と男と女である。

 キリスト教の語る「愛」は全て上からの一方通行で、下からの「愛」は許されていない。それは忠誠とか呼ばれるものである。
 そもそも、女子供は低い位置に置かれている。

 仏教は愛を煩悩とし、キリスト教は愛を上から与える慈悲と考えた。

 だが、ここに女から「みんな好きー」という全肯定の言葉があらわれた。
 そんなことなんか、男は考えた事もなかっただろう。
 
 だってまさか、みんな好きなんてありえない。
 だって、だってさ。

 男は口ごもる。

 あなたもわたしもおなじくらい好き。
 だって同じじゃない?
 わたしもあなたも生きてるんだもん!


自己愛

2007-11-24 18:41:11 | 駄目

<お詫び>

 この先の記事には、附属池田小事件の被害者ならびに遺族の方々にとって大変に不快な内容が含まれております。
 申し訳ありません。誠に勝手ではありますが、事件の関係者にはこの先を読んでいただきたくないと願います。死者を冒涜するのがこの記事の目的ではありません。ですが、記事の1部に、加害者を弁護するような内容が含まれており、大変に読み苦しいと思います。
 亡くなられた方々の冥福を心よりお祈りいたします。

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 やっと、考えがまとまった。

 今まで宅間守を、「虚栄心」と「自信」だけで語ろうと考えていたが、それだけでは、どうも上手く説明がつかないと苦悩していた。

 宅間守は、虚栄心は高いが自信のない、虚勢をはっているだけの全く典型的な「チンピラ」である。
 だが、読者はそんな説明では納得しないだろう。
 だって、普通のチンピラは、幼児を殺したりしないからね。

 たいていのチンピラはヤクザのルールにのっとって活動する。

 宅間もチンピラも、精神レベルはほとんど一緒なんだけど、行動理論が違う。

 チンピラは上位組織の行動理論に従うが、宅間は宅間のみの行動理論に従って幼児を殺した。

 虚栄心と自信だけで宅間を語ろうとすると、宅間とチンピラはほぼ同じとなる。
 精神内容や、普段の行動の理不尽さでは、宅間とチンピラはだいたい同等であり、幼児さえ殺さなければ宅間守もただのチンピラで終わっただろう。
 だが、宅間をチンピラと一緒とすると、幼児を殺した事の説明ができない。
 無理に説明しようとすると、キンピラゴボウに、キンピラとゴボウがはいってないみたいなかんじになる。

 そこで、新しい概念を導入してみる事にした。

 それは自己愛である。

「自己愛」「虚栄心」「自信」。

 あぁ、抜けていたピースがそろったかんじだ。

 宅間守は、自己愛が異常に高く、虚栄心も高く、自信は異常に低かった。
 これで、宅間守の独自性について語るキーワードが全部そろった。

 あとは説明するだけなのだが、今日はもう眠いので明日説明しよう。


好き

2007-11-23 16:41:23 | 駄目

 上野千鶴子の対談集『性愛論』を読んだ。
 対談集はたいていすれ違いが多く、読んでいて辛い。
 勝手に、他人の発言から連想した自分の考えを、お互いに語っているだけで、本当に両者ともが他者に対応して会話をしている対談集なんか読んだことがない。

 この『性愛論』も、すれ違いが多く、読むにたえない。
 人は、こんなにも分かりあえないのかと悲しくなる。
 とくに、田中・森崎、両氏に対するすれ違いはかなりひどい。
 田中と上野の対談はただのすれ違いに終わった。

 なんだけど、森崎 和恵という人を俺は知らなかったが、この森崎は凄い。
 この対談集で凄いんだと認識した。

 その森崎の凄さを証明する発言を書き写してみた。

森崎 ー 
 私、それ何度も考えてきました。エロスっていうのはなにかなと思ったのね。それはね大人になってからつくられたものとどうしても思えないわけよ。ちっちゃな、四、五の頃から、外界に対してなにか、アイ・ラブ・ユーっていうものをいつも発見するの。それは異性でなくて、たとえばそこに降っている雪みたいな時があるわけ。
 雪がいっぱい降ったのを見てね、もう本当にステキだなと思ったの。いいなっていうだけではすまなくて、小学校入ってたかどうか……。なにかちゃんちゃんこ着せられていてさ、雪の上をつま先でそうっと歩いていって、あなた好きーって雪の上にうつぶしたのね。それを時々、思い出す。それはね、自分以外のものにOKというか、お力貸してというか、なにか分かりませんけど、外界に対して、熱っぽく肯定している。そういうのが育っているって事が大事だと思う。そういう前提なしに異性愛って育たない。

 なにげなく自分の過去を語るようでいて、これは、本当にすごい発言だ。

 他者を認めないかぎり、
 人間はみんな自分と同じ人間だと認めないかぎり、
 たとえいくら恋しようと愛そうとも、その恋や愛が肯定されることはない。
 いくら求めても、他者への肯定がない思い込みは、ただの思い上がりだ。

 男がやっと、自己への肯定感を身につける幼児期に、他者への肯定を身につけられる女はものすごく偉い。
 でも、この対談の相手はなんだか間抜けで、どうも、なんだか、それが良く分かっていない。
 たいていの男は、自分がただ偉いとだけ思い込むだけで、他者は眼中にない。本当に全く無いだろう。
 男なんて、なんとか頑張って、やっと自分を愛せるていど。
 下手すると、自分自身が好きな男すらも少ない。