墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

かきかき

2007-11-12 18:55:57 | 駄目
<お詫び>
 この先の記事の内容には、附属池田小事件の被害者や遺族の方々にとって大変に不快な内容が含まれております。
 申し訳ありませんが、誠に勝手ではあると思いますが、事件の関係者の方々にはこの先は読んでいただきたくないと思います。
 死者を冒涜するのがこの記事の目的ではありません。ですが、記事の1部に、加害者を弁護するような内容が含まれており、大変に読み苦しいと思います。
 被害者の皆様の冥福を心より祈ります。

<警告>
 この先、附属池田小事件の加害者である宅間守について俺の思った事を書く。それは、多数の人々にとって不愉快な内容であろうと思われる。
 警告する。この先は読むな。読んではいけない!
 俺は読むなと警告した。
 だから、勝手に警告を無視して読んだ人間からの苦情は一切受け付けない。

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 作文がつらい。
 お絵描きをしたい。
 かきかきしたいよー!

 かきかきで思い出したが、この最近の俺は社会学者の上野千鶴子先生の本を読み込んでいる。
 上野千鶴子先生は日本のフェミニズムの大御所で、女性問題の権威である。彼女の行く先々には常に女性問題が巻き起こる!

 ところで、いわゆる女性問題について興味をもったもともとの理由は、売買春からである。
 嵐の夜に、命がけで女を対岸に渡らせるかわりに、女の体を求めた船頭がいるという物語に対して、『その船頭の行為は、男として最低の行為である』という厳しい感想が、多くの男性から寄せられているのをネットで見た。
 俺は本気で驚いた。
 そんなのただの売買春じゃん。その船頭が許せないなら、風俗に行くような男なんかは全て許せないはずだ。

 そう言う俺は風俗に何度も行った。
 もう既に回数は手の指をおっては数えられない。
 自慢でも懺悔でもない。
 俺はそんな人間であるというただの報告だ。

 男でなく、女から最低と言う声があがるのなら分かる。
 だが、男のくせに売買春をした船頭を『男として最低』と言う心理は俺には分からなかった。
 俺は男のくせに男心が全く分からない。

 そこで、売買春について調べていくうちに、1つの考えに至った。
 多数の男にとり、もとから売っている女なんかどうでもいいのだ。体を売る方が悪い。だが、体を売っていない女に対して、男が売りを求めるのは『男として最低の行為』となるのである。
 だから、素人である未成年者の援助交際には真面目な多数の親父から多大なおしかりがあり、ついには警察から取り締まられる方向に向かった。

 おいおい。

 なんか女を、男の都合で都合良く2分化してはいないか?

 それが、疑問の始まりだ。

 だいたい、女房と、新潟拉致監禁少女の違いはどれだけあるのだ?
 下手すると、そんなには無いだろう?
 戸籍を同じくした夫婦と拉致監禁少女とでは全く違うと真面目な皆さんは怒り出すだろうが、自由に出歩くこともできず育児と家事に縛られる主婦と、拉致監禁少女とは何がどれだけ違うのだろうか? 誰か納得のいくように説明して欲しい。
 なぜ、拉致監禁は有罪で、結婚は無罪なのか?
 愛の差か? なら愛さえあれば妻に DV するのも愛のうちなのか?

 こりゃ本気でやばいと思った。

 どうも、なんか、男ってだけでアレもコレも許されると、俺を含めて全ての男は勘違いをしてはいないだろうか?
 いや、どうもしている気配。

 そんなで、最近は上野千鶴子先生の御文章を熟読している。
 
 将来の夢は『立川市の上野千鶴子』あるいは、『上野千鶴子の生まれ変わり』とまで皆様から言われ尊敬されるような生き様である。

 そんなで、つい最近目にした先生の名言を最後に記しておこう。

「もちろん、男がマザコンで骨の髄まで去勢されてダメになって、浮遊してて、経済と政治の実権を女が握って、みんな『おたく族』になってもらって、ただし幼女は殺さないような平和な『おたく族』で、その辺でマスでもかいててくれれば、それはとても平和な未来像ですよ」

 それが、男として許される生き方であるなら、俺は本気でそうしたいと思う。
 全てを何もかも捨てて本気でそうしたい。
 底辺の男でいることにはもう疲れた。
 せんせい、おとこもたすけて!

(2)

 簡単に言うと、何かを特別視する姿勢がもはや駄目であると思う。
 俺は、宅間守は自分と同じ馬鹿だと思っている。だから、同じ馬鹿として、どこらへんが馬鹿だかを指摘すれば良い。

 確かに、所帯をもち、子供がいて親にという立場である人間にとって、宅間守のような存在は忌々しい敵だ。
 正直言うなら、宅間守みたいな連中は、発見次第に死刑に出来るような制度は出来ないものかと望まれているのではなかろうか。
 だが、宅間のキャチフレーズは、世の中すべて敵。
 子供を持つあなた方の親の敵は、宅間のような人間。

 それは、対決の図式。

 敵対敵の関係。

 敵を敵と認めた時点で、敵と同レベルとなり下がる。
 宅間を敵とみなして、憎んだ時点で、宅間守と同じレベルの人間になってしまうような気がする。
 皆さんは俺みたいな馬鹿に、罪を憎んで人を憎まずとか、汝の敵を愛せとか、みんな仲良くとか言われたいのか? 言われたくないと思うけどな。