墨汁日記

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幼稚な殺意

2007-11-30 19:25:55 | 駄目
 人殺しにおいて。
 タブーはしてはいけないという禁止である。
 したいのは殺意だ。

 宅間守は、社会的なしてはいけないというタブーを身につけられなかった。
 だから殺意を優先できた。

 宅間の精神性は、虚栄心と自己愛が異常に高く(たぶん生まれつきに)、自信がない(自信はあるていど教育で身につけられる)タイプの人間だった。

 自信が理性を操る。自信が理性をコントロールする。

 自信は自分を信じる心。

 自分で自分を操れないやと思い込んだ人間の理性はとち狂う。

 自分を信じる事ができない人間は、自分を制御できないと思う。

 健常者は、本能より理性を優先しがちだが、その理性が曖昧なままだと、行動も不安定になりやすい。

 理性が異常なまま大人になった人間の、理性に基づく行動ほど怖いものはない。
 いっそ、そんな理性なら、ない方がまし。

 宅間は、自己愛が強く、常に人から誉められたいと望んでいた。
 だがまた、誉めるべき点が全くないような人間でもあった。

 なんだけど、人がふつうしないような行為をすると、人は宅間の事を、あいつはただ者じゃないと認めてくれると知った。
 だから、幼少の宅間は猫を殺してみたり金魚のしっぽを切ったりしたいたのだろう。

 普通の人がしないような残酷な事さえすれば、自分をただ者じゃないとみんなが認めてくれると味をしめたのだ。それで、最高に残虐な事を行えば、誰もがビビるはずといつのまにか思い込んだ。

 宅間守は、他人に、宅間守はやっぱり凄い奴だったと思われたいという、ただそれだけの理由で児童を虐殺した。本人はいろいろ言っているけど、その本音は他人をビビらせて自分を凄いと思い込ませたかったから。
 
 テンパって自殺しようとして、死を目前として、このまんま忘却の彼方にだけは消えたくないと考えて、人をたくさん殺したなら、やはりただ者じゃなかったとみんな自分を思ってくれるはずと考え、宅間守は児童を殺したのだ。

 見て見て、俺って凄いんだよって示したいだけの理由。自分が凄いんだよと示したいだけのために宅間は多数の児童の生命を奪った。

 典型的な、理性の狂った人間の行動である。


タブーは社会的本能かもしれない。良く分からないけれども

2007-11-30 18:35:03 | 駄目
 帰宅ルートには、すぐ左折するルートと直進するルートがある。
 どちらも、距離的にはそんなに変わりはなく、その日の気分で左折したり直進したりする。

 駅で電車を降りて駐輪場からまっすぐ道なりに自転車をこぎだすと、都の運営する「福祉作業所」に勤める人たちと良くすれ違う。
 
 作業所の皆さんはどなたも楽しそうだ。
 たいてい仲の良い数人でかたまって駅に向かいワイワイはしゃぎながら歩いていく。見ていると、若い人が多く、孤立して寂しげな人はほとんどいない。
 高齢の人が非常に少ない事に疑問を感じるが、作業所は一生働けるような職場ではないからかもしれない。

 彼らの様子を見ていて思うのは、してはいけないことだけはきちんとわきまえているという事だ。
 きちんと、他人の迷惑にだけはならないように行動している。
 作業所の近所に高校があるが、そこの生徒よりよほど人に迷惑をかけない事に関してはしっかりしている。

 知能や理性をうまくあやつれないぶん、発達したその豊かな感受性で、何が社会的に迷惑な行為となるかを彼ら彼女らは本能的に感じ取っているように思える。
 豊かな感受性だけで、この社会の社会的抑圧をきちんと彼らは理解し、社会的に迷惑となる行動を行わない。人が嫌がる事をしないでいながら、自然に楽しく本人たちも生きている。

 この人たちは、作業所で楽しく働いて、ワイワイはしゃぎながら帰る事が、ただただ楽しいだけなんだろう。人に迷惑をかけてまで、自分が楽しくなりたいなどと考えた事もないだろうはず。

 もちろん、人を殺したいなどと1度も考えた事などないと思う。

 だが、人を殺してはいけないという社会的な抑圧はやはりあり、この社会が殺るか殺られるかの世界になれば、彼らとて社会からの影響を受けるだろうし、むしろ最も受けやすいような気もする。
 作業所の皆さんが幸せそうに帰宅するのは、まだこの世の中がマトモだからなのかもしれない。

 そして、マトモを生み出せるのは一部の政治家でも政府でもなく、いま生きている俺たちだけだ。