
咸宜園の入り口から見た「 秋風庵 」 の全景

玄関の上に掲げられた 「 秋風庵 」

井戸がある裏庭

裏庭に向かって設けられた縁側

秋風庵の内部

咸宜園の入り口

この付近は地名に広瀬淡窓の名前が付けられている
江戸時代後期、全国各地に藩校や私塾ができ、教育への関心が高まっていた文化2年(1805年)、
豊後・日田の儒学者・廣瀬淡窓 ( ひろせ・たんそう ) が、長福寺の学寮で開塾した。
その後、 「 成章舎 」 「 桂林園 ( 荘 ) 」 と場所や名前を変え、
文化14年(1817年)、現在地に 「 咸宜園 」 を開いた。
咸宜園の「咸宜」とは、中国最古の詩集『詩経』にある 「 殷、命を受く咸宜 ( ことごとくよろし ) 、
百 ( ひゃく ) 禄 ( ろく ) 是れ何 ( にな ) う 」 から来ている。
「咸く宜し」とは、すべてのことがよろしいという意味で、
淡窓は門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する教育理念を塾名に込めた。
淡窓は、身分や階級制度の厳しい時代にあって、
入門時に学歴・年齢・身分を問わない 「 三奪法 ( さんだつほう ) 」 により、
全ての門下生を平等に教育した。
また、咸宜園には月の初めに門下生の学力を客観的に評価する
「 月旦評 ( げったんひょう ) 」 と呼ばれる制度があり、
門下生の成績を公表することで学習意欲を起こさせ、勉学に励ませる効果があった。
そのほかにも、規則正しい生活を実践させる 「 規約 」 や
門下生に塾や寮を運営させる 「 職任 」 など、門下生の学力を引き上げ、
社会性を身につけさせる教育が行われました。
咸宜園は、淡窓没後も廣瀬旭荘や廣瀬青邨などの門下生に引き継がれ、
明治30年 ( 1897年 ) に閉塾するまで、
およそ5,000人もの門下生が学んだ最大規模の私塾となった。
時代が時代なら是非とも学んでみたい私塾である。