井持浦教会は五島の他の教会と同じく江戸時代末期に大村藩から
五島に移り住んだ潜伏キリシタンにより信仰の歴史が始まりました。
井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、
五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、唯一迫害を逃れた地区です。
地元の伝承によると、
大村藩が側近のキリシタン鶴田沢右衛門を五島に流刑にしたところ、
五島の藩主は領地であった玉之浦の立谷(大宝寺所有)を与え、
ここに住むことをゆるしました。
また玉之浦地区は島の中心地から非常に遠隔の地理的条件もあり、
キリシタンの探索や迫害を逃れた理由ではないかのことです。
当時、玉之浦湾の漁獲物を塩漬けにするための塩の生産が
藩の財政を潤す重要な産業となっていましたが、
これに従事していたのが潜伏キリシタンであったことなども
迫害を逃れた要因ではないかと伝えられています。
明治30(1897)年、全五島の宣教と
司牧を委ねられたフランス人宣教師ペルー師の指導により、
リブ・ヴォールト天井を有するレンガ造りの立派な教会が建設されました。
島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリと位置付けられた教会です。
当時、日曜日のミサには井持浦の集落ばかりでなく、
浅切、黒小浦、蕨浦といった島山島の集落や玉之浦湾に面した荒川、布浦、銭亀崎、
山浦、一里鼻、笠神、イスズミ、赤崎といった小集落からろ舟を漕いで参加していました。
遠い所は船で片道2時間あまりかかり、一日がかりのミサ参加でした。
また古老の回想録によると、井持浦教会でミサが行われるようになった当初、
ミサは毎週日曜日ではなく司祭が巡回してくる時だけで、
月に1~2度しか行われていませんでした。
そのため信徒達は復活祭、聖母被昇天祭、
クリスマスなどの大祝日のミサに参加するには
三井楽教会や貝津教会まで出掛けねばなりませんでした。
一艘のろ舟に10~15名が乗り込み真夜中に船を出し、
海がなぎのときは三井楽の高崎や貝津に上陸できましたが、
時化のときには丹奈に上陸し徒歩で山を越え、頓泊の砂浜を素足で歩き、
更に貝津を経て三井楽教会まで歩くという長い道のりだったそうです。
教会建築から2年後の明治32(1899)年、
ペルー師はこの地に聖母出現の地フランスのルルドを模した洞窟を創設することを
信徒に呼びかけました。
ローマのバチカンにフランスのルルドの模型ができたことにヒントを得たものです。
ペルー師の指導のもと、東シナ海の怒涛に洗われた嵯峨島の岩石多数をはじめ、
五島の各地から形の良い石や珍しい岩石が集められ、
教会脇のまかない部屋を取り壊した場所にルルドが築かれました。
ペルー師は祈りの場にふさわしい洞窟を造る為に、自ら岩石の配置を考え、
浜から運び上げられる石を、『その石はこちら、この石は向こうに』 などと
陣頭指揮をとったことが伝えられています。
完成後ペルー師が母国フランスから取り寄せた本場ルルドの奇跡の泉水を注ぎ入れ、
同じくフランスから取り寄せた聖母像が洞窟に収められ、
この日から日本初のルルドの歴史がここ井持浦で始まりました。
翌、明治33(1900)年にはクザン司教により、
井持浦教会ルルドの盛大な祝別式が行われました。
教会建築から29年が経過した大正13(1924)年になると教会内部の拡張のため、
建設当初教会の両外側に吹き放ちになっていたアーケードを
堂内に取り込む改修が行なわれました。
月日の経過と共に、初のロマネスク風教会として名を馳せた初代の井持浦教会も、
建築から92年後の昭和62(1987)年、台風の甚大な被害を受けたため
取り壊されることになりました。
翌年新しく建立されたのが現在の井持浦教会です。
所在地 / 長崎県五島市玉之浦町玉之浦1243
教会の保護者 / ルルドの聖母