「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大分県中津市 「生田門と中津市学校」

2022-06-30 05:00:14 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

門には「中津市立南小学校」の校板が掲げられている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この生田門は、以前にも一度紹介したことがあるが、

その画像がどこを探しても無いので、

先日「魔法の樹」の帰りに再び訪れたものである。

 

「生田門と中津市学校」
 

南部小学校の校門であるこの「生田門」は、

明治時代の廃藩置県後「中津市学校」の校門としても利用されました。

もともとは、奥平中津藩家老生田家の門であり、

中津の藩政時代から現代まで、風雪に耐え抜いてきた貴重な建造物です。

南部小学校の辺りは、江戸時代には“三の丸”と呼ばれ、

藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んでいました。

 南部小学校の敷地は、「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家(1800石)の屋敷と、

隣の「中の屋敷」と呼ばれた奥平図書(おくだいらずしょ)(2600石)の

屋敷があった場所の一部を含んでいます。

  

明治4年(1871)、福沢諭吉の建議により、

「大手屋敷」に西日本有数の英学校である中津市学校が創立されました。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な『学問のすゝめ』は、

この市学校を創立するときに、

中津の青少年に学問の重要性を説くために福沢諭吉によって書かれたもので、

年刊行され大ベストセラーになりました。 

市学校の組織づくりには福沢諭吉、小幡篤次郎などがかかわり、

学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、

教員は主に慶應義塾の中津出身者が派遣されました。

明治6~9年には、生徒数が600名ほどにもなったと言われています。

広池千九郎の『中津歴史』に中津の西洋風の文化・

生活様式の出発点は常に市学校であったと言われます。

市学校が大きな転機を迎える契機となったのは西南戦争で、

西南戦争とその後の経済情勢は生徒数の減少をもたらしました。

また、学制の整備に伴う公立学校の充実なども加わり、

市学校は徐々に衰退し、ついに明治16年(1883)3月に閉校しました。

市学校閉校後、いろいろな学校として変遷を重ね、

明治43年(1910)4月1日、南部小学校が開校し、

以降生田門は同小学校の校門として長く利用され親しまれてきました。

 

もともと生田門は、現存する大手門の石垣西端から西へ約20mの位置に、

道路に沿って建てられていた。昭和47年、校舎改築の際、

道を挟んだ練心館の門として移築された。

昭和63年、老朽化のため解体された。

平成12年現在地に場所を変更し復元工事を行った。

平成13年3月完成。

生田門の現在の復元位置は、生田家「大手屋敷」の敷地から外れて、

奥平図書家「中の屋敷」の敷地内では、と考えられる。

また、塀については、古写真を参考にして復元したものである。

 


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