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お良しなさい日記♪

三浦半島からこんにちは!

gooブログからのサヨウナラ (/ω\)

2025年08月31日 16時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 今年8月のお祭りにて、老体に鞭打って 

 

当時50代だった町内の囃子方のオジサンに無理やり連れていかれて イヤイヤ始めたお祭りのお囃子でしたが、来年で50年を迎えます

このオジサンが当時お囃子歴54年と言っていたので、これを超えてみようと楽しくやってきました。

 

 でも、若い人・子どもたちがたくさんいるので、いろいろな意味で老害になっていくと思うから 2026年をLAST ONEとしてお囃子人生を終わりにしたいと思っています 

 

 

 このgooブログも、2006年の2月から続けてきました。運営自体が終了するというので、投稿も今日を限りに終えます。開設から7148日。

 

      この5つの絵文字が大好きでした、とても残念です!

 

 

お囃子もブログも、多くのみなさまのおかげで 楽しみながら無事にここまで来られました。

心から感謝申し上げます 

 

どうもありがとうございました

 

 

第2回の記事(2006年2月5日)  回転させるやり方も知らず、写真も横倒しのまま

 

引っ越し先  はてなブログ『お良しなさい日記』

 


父が亡くなって百日が経ちました

2025年07月11日 11時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 葬儀屋さんがくださった「法要日程表」によると、7月10日が来て 父の逝去から百日 経ったことになります。

 

家族や親類縁者の葬儀・法要の経験が少なめの私ですが、そういえば「百ヶ日」( じゃっかにち )という言葉を聞いたことはありました。

 

娘の気持ちとして、父が亡くなってから その百ヶ日の7月10日まで 毎日1本、なんとか欠かさず お線香をあげてきました。

 

母が好きだった「ボンタンアメ」のお線香の箱が、昨日で空っぽになりました  🍊ボンタンの匂いがするお線香ではなかったけれど、短めの良いお線香でした

 

 このタイミングで、父が大切にしていた「欄」の花が咲いてきました。

 

名前は何て言ってたかなぁ??? すぐに忘れちゃう私です(;^ω^)  と残念がっていましたら、ありがたいブログ友達の「四季折々」さんのページで「フウラン」( 風欄 )と紹介されてました! 偶然 同じ記事 ありがとうございます うれしい~

 

鳥の「サギ」のような花と表現する人もいます。

 

父が作った “ 吊りしのぶ ” の形を残したまま、我が家の「楢」の木に引っかけてあります(*'ω'*)

 


気持ちの区切りがつきました 〈 両親の思い出 と gooブログの終了〉

2025年06月26日 05時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 このgooブログが終了してしまうと知ってから、記事の整理( 加除訂正 )をつづけてきました。

 

同じ頃 父が亡くなって 父母のことを書くことがなくなりましたので、そのカテゴリーだけ書籍化してもらいました。

 

 長寿で体がきつくても、がんばって生活してきた両親を記録。

19年分の生活の様子や言葉を本にまとめて父母に捧げ、これをもって 感謝と寂しさと後悔・懺悔との決別 いたしました

 

「感謝」の気持ちは持ち続けます、あはは 

 

 

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 それぞれ父と母が 亡くなる1年ぐらい前に何気に言ってくれた言葉

「お良し、体に気をつけて生きていけな。強く生きろ、負けるな!」 ← ゴメン、わたし負けてます

( 90才で逝去 )

 

「お良し、元気でな!いつまでも」

( 母の7年後、98才で逝去 )

 

 

いつまでも悲しんだり謝ったりしていても、両親は喜ばないと思うのでネ~

 

この言葉をもらっただけで充分です(^-^)

 

 

 ただ、継父との関係や戦争経験で 屈折した思いがあって気の毒だったとしても、若い頃の父が暴力的で、 母や私を身体的に傷つけたことは 許さないぞ (笑)

 

 最低限の料金本で頼みましたが なかなか立派な出来栄えで、goo事務局さんと欧文印刷さんには 大感謝です 

 

※ 表題の「良」の文字がシール貼りなのは、注文時に私が誤字入力したため自分で書き直しているのデス()


私のまわりの熱血先生たち (;^ω^)

2025年06月21日 06時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 暑くてお疲れのところ、本日も ついつい長い記事になっていますので、飛ばしてくださっても結構デス

 

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 去年の秋から、私を導いてくださっている先生方が交代しました。

 

その①

 歯医者さん  それまで20年ぐらい担当してくださっていた女医さんから、 熱血男性医師にチェンジ

 30年前にあちこち治療した後は ほとんど定期健診に行くだけで、おかげさまで虫歯の発生がないのは 厳しかった女医さんのご指導のおかげなのですが、今度の熱血先生は さらに輪をかけた厳しさ

熱血医師 「お良しさんは食いしばりの痕がありますから、意識して歯と歯の隙間を開けておくためにも、家に帰ったら 目につくあちこちに「食いしばるな!」「口の力を抜く!」と書いたふせんを貼ってください。 それを見たら、歯と歯を離すことを意識するように

 

ピシピシィー キビシクも ありがたいアドバイスありがとうございます。

 

 正直、今も 👄口の中に食いしばりの証拠が消えていないので、半年たった先月の定期健診の時に熱血先生が何か言ってくる前に こっちから先手を打って 私 「先生、ごめんなさい! 指導されたとおり付箋を貼っておいたんですけど、まだ食いしばってるみたいなんですーと謝っちゃいました~

 

 そして健診の間隔が、女医さんの時の1年から 半年に、短く変更されました!

 

 

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 その②

 音楽の先生  わたし、バンドを組んでガンガン ステージ演奏する予定は まったくないし、ただただ 中学生のころから憧れていてできなかった楽器に触れているだけで幸せ感じてるし、歌や伴奏に合わせて フレーズが弾ける・叩けるようになっていくだけで もう、うれしくて嬉しくて夢みたいなのに・・・

 

 

 まぁ でも、「これでいいや♡」と、漫然と習っているのも先生に失礼でしょうから、このたび 同級生のN美 大先生を我が家にお招きして 楽譜・音符の読み方のレクチャーをしていただきました

 

 N美 大先生は ピアノの名人なのです(^^♪♬  楽器は違いますが、このように私のテキストを真剣に探究・解明・解説・アドバイスしていただけました 

なるほどわかりやすい 音楽教室の先生と同じことを言ってましたが、N美 大先生のお言葉は 楽譜が読めない私にもわかりやすいです 感謝感謝~

 

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 おまけの話 

 

 N美 大先生と わが夫とは面識があります。気を利かせて外出していた夫は帰宅したらN美さんに会えたのを喜んじゃって、二人はいきなり意気投合しちゃって、私のことを置いてけぼりにして 韓国恋愛ドラマの「愛の不時着」の話題なんぞで ゲラゲラと盛り上がってました

 

 いや、私は決してやきもちを焼いているのではアリマセンよ。わたし、そんなに心が狭くないので~ アッハッハー

楽しそうに会話してる旦那とN美ちゃんを見てて なんだかほほえましくなっちゃって、 いい光景だなぁ~  と心底 嬉しくて、動画なんか撮っちゃったデス(笑)

 

お二人さん、どうぞ どうぞ リアル「愛の不時着」していただいて結構ですってな感じで

 

※ これを投稿している本日は N美 大先生のお誕生日です  ※


20代のころ、歌手の さだ まさしさんに教えてもらったこと

2025年05月24日 11時24分29秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 こんな、浜辺に咲くお花がいっぱいの場所はどこかといいますと・・・

 

 三浦半島の南東部の海岸線を一望する、三浦市南下浦町金田の小さな海岸です(*´ω`)

 

 その未熟さゆえに いろいろ悩みがちな20代のころ、買って読んだ『PHP』という小冊子に歌手のさだまさしさんの言葉が載っていました。

 

 「夜の暗い時に考え事をするとロクな考えが浮かばない。考え事をする時は、昼間の明るい時に 広ーい場所でするといい」

・・・というような内容で、わたしはいたく感銘を受けちゃいました!  単純だから(笑)

 

 そして当時 行ってみたのがこの場所なのです。

 

 写真の中央 奥に写っているのは、このブログにたびたび登場させる「金田漁港」です

 さだ師匠の言葉に勇気づけられて試しに来てみたのは、右に見える 堤防です(*^^)v

 

 アップで見ると、こんな感じ

 

 歩道から ヨッコイショッ!と上って、上に座って 海を眺めるんです(*´▽`*)

 

 正面に見える風景

※ 注 ※ これは堤防の下で撮った写真です。 堤防の上からは 海がもっと広々と見えます。

 

 「金田漁港」とは反対側の 左を見ますと・・・

 カシ や シイの木の新緑で、明るい黄緑色が目立ってきた山々

 

 横須賀市野比の「白髭神社」の杜・「咎山(とがさん)」が、ここからはカンペキな三角形に見えます(*'ω'*)♡

 

 晴れ晴れとした気分で食べたスイーツが とっても美味しかったです 

 

 もうね、わたし若くないので、堤防によじ登るのが一苦労になっちゃったんですよ

年をとると特に降りる時が怖いでしょ?  気晴らしに行ってケガしちゃうなんてことは本末転倒なので~、無理しないで砂浜で足とお弁当広げて休憩するんですよーん

 

ここへサイクリングで来るときに頭に浮かぶピッタリな曲  さだまさし「きみのふるさと」   

 

( こういうことしてくれる男性っていいなぁ 私もこうしてもらえるような女性になりたいって憧れたシチュエーションの曲   やっぱり単純だった私


父と道連れに・・・(;^ω^)

2025年04月09日 17時48分21秒 | 気持ち・考え 告白部屋

(;^ω^) 父が旅立った翌々日の朝、なんと コーヒーカップを割ってしまいました!

 

 母が亡くなった後、4年半 父と一緒に暮していた時から使ってきたものでした。

 

見えない誰かが 「 寂しいからって ぼーっとしていると思わぬケガをするから気をつけよ 」 とか、あるいは「もうオトーサンとのことは良い思い出にして、これからも新たな気持ちで生きていくように 」 

 

とかナントカ言ってきたのかな  ・・・なんちゃって 

 

えーっ!  でも、可愛いから気に入ってたんですよーん 涙 涙

 

 父が亡くなった晩の夜桜

 

 いつの間にか、花壇の片隅で 父が大切にしていた「名前なんだっけ?」が花開いていました!

あ! 思い出しました、「イカリソウ」です! ダメだこりゃ、やっぱり ぼーっとしてますね (;^ω^)

( これを撮影した 4月7日に発見 ) 今年は株が増えて、これから何本も咲いていきそうな気配です

 

 

  父と一緒にお空へ旅立っていった大事なもの  道連れ じゃなくて「お供」

 

・ 父が15歳の時に42歳で亡くなったという実母の唯一の写真( コピー )

・父と母の新婚の頃の写真( 昭和29・30年 コピー )

・父は目が悪いので、大きな文字で書いた感謝と「懺悔」の手紙

・父が暮らしていた家のご近所さんからの 折り鶴 たくさん!

( 折り鶴は、実は2年前にお亡くなりになったご主人様の火葬の際に、「棺には入れられないです」と係官に断られてしまったというお品。紙製なのに何故ダメだったんでしょうね??? この日はオッケーでしたので、「行き先は同じなんで、父にお届けしてもらいますよ」と私が預かって 納めた次第です

 

   奇しくも7年前の母の時と同じように、満開の桜の中で無事に見送ることができました・・・


「お良しなさい日記」開設から今日で・・・

2025年04月05日 21時26分55秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 7000日ですって➰

 

 わぁお 

 

約19年間つづいているってことですね。7000件も記事は書いていませんが

 

 夫が私にブログを薦めてくれて、開設作業もしてくれたのですが、直後に病を得てしまったのでした(夫が)。

 

まだ少し引きずっているのですが、トシなのでしょーがないところもあるかな

 

 私も明るく元気に生きていければいいな~🎶って思っています(*^^*)

 

これからもエイエイ!オー 適度に

 

 これからもどうぞよろしくお願い申し上げます

 

 


たった一枚のフォトグラフ

2025年03月23日 15時06分34秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 同名のタイトルの「ハイファイセット」が歌う名曲があります。

 

私も「たった一枚のフォトグラフ」を持っていますよ(*^-^*)

その感慨深い曲の内容とは意図がまったく違うのですが、私の幼い時の記憶を書き記しておきます。

 

 

 

 

 裏面に「フジカラープリント  ’68 GUNMA」の印字があるこの写真。

 

真ん中に写っているのが私で、6歳になる年です。

場所は 当時住んでいた神奈川県横須賀市西浦賀1丁目の、主に遠洋漁船が係留されていた岸壁です。

背景は「浦賀ドック」( 住友重機械工業 浦賀造船所 )。

左の奥に、白い帆船みたいな船がいますね!初代の日本丸かな?

 

 憶えている限りの会話を記録します(*^-^*)

 

 この若い男性の方から話しかけられたと記憶しています。

母は、ここはどういう所か?と尋ねられたのです。母が「どちらから来られたのですか?」と聞いて、青年は「九州からです」と答えたと記憶しているのですが、写真の裏には「GUNMA」( 群馬 )?と記載されていますね  九州っていうのは記憶違いなのかなぁ????? お年は23歳とおっしゃったと思います!

 

母 「そんな遠くから単車で来られたんですか 大変だったでしょ」 

 

青年 「はい、遠かったです」

 

そして私に向かって 「クレヨンを買ってもらったの?」と優しく話しかけてくださいました。

 

わたし 「うん」と答えたと思います。 頭の中では「〇〇の絵を描くの」とか言いたいと考えているのですが、幼くて緊張してて 言葉が出てこなかったと記憶しています(苦笑)。

 

母が、「この子は絵を描くのが好きなので」と言いました。そして青年が「絵を描くのが好きなんだね」って言ってくれたのでした。 

( バスで久里浜という街へ行って買い物をした帰りだったのだと思いますが、貧しかった割には 親子そろって割とちゃんとした服を着ていますね

 

 

 写真を撮りたいとおっしゃって、この写真を撮ってくれました( 自動シャッターで撮ったのかは忘れちゃった )。

 

 写真を現像したら送ります、と言ってくださって、母は住所を教えたんです。手にしていたのは すごく立派なカメラだったことを憶えています( これは本当です )

で、後からこの写真と手紙が届いて、母は返事を出したと話していました。手紙好きの母のことだから、何回かやり取りをしたんじゃないかと思います。

 

 こうしてSNSに載せるのは初めてです。たぶん、各地をツーリングしていたのだと思います。

 

 あの日から 57年、まだ80代に入ったばかりだと思います。ご健在ですよね? お元気でいらしてほしいです!

( この方もこの写真をお持ちなのかな? 見返して「この親子はどうしているかな・・・?」って思い出してくださったことがあるなら、母が喜ぶと思います(*´▽`*) )

 

母は90歳まで生きましたよ~、私は今年63歳になりますよ~! お会いした19年後に、私も北海道を自転車で旅しましたよ~ ありがとうございました~

 

 

 あの後 私たち家族は引っ越しをしましたし、昨年 実家の片付けをした際にも この方からのお手紙は見つかりませんでしたので、母は処分しちゃったのだと思います(;^ω^)

 

 ちょうど今日、クローゼットの最上段の片付けをしていたら出てきたので、ブログ記事に書いてみた次第です

 

 ハイファイセット 「たった一枚のフォトグラフ」  ユーチューブ音源に飛ぶ

 

 

 

 

 


生涯忘れられないこと・21歳の時 手術を受けた病院にて

2025年03月16日 15時20分21秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 これを書いている今は2025年。それは今から42年前の1983年10月のことでした。

 

 今から書き記すことは、実母には話したと思います。

今日の今日まで、ほかの人に話すことはありませんでした。なんとなく、春という明るい季節が来る前に文字にして残す気持ちになったので書きます。

 

 【 この記事を書いたずっと後、6月25日 追記 】

・ 病院で見聞きしたことを こうしてブログに書き留めた後、まもなくして実父が体調を崩して亡くなりました。施設の看取り室で一夜を過ごしているときに このタイミングで思い出して記した意味を感じました。

 

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 1983年10月の中頃、私は「鼠経ヘルニア( いわゆる脱腸)」の手術をするために 神奈川県横浜市にある 横浜市立市民病院に入院しました。

病名を聞いたときは「何だろう 」と不安になりましたが、生まれつきの症状であって 外科手術で治るもので 病気じゃないので、まぁまぁ前向きな気持ちでいました。術前検査など 忙しくいろいろ受けましたが、ほかの患者さんの手術が立て込んでいるらしくて 私の手術まで1週間以上待つことになりました。

 

 入院して間もないある晩、何かの用事でナースステーションへ歩いていく途中で、入院着を着た女性が公衆電話口で大声で泣いている姿を見ました。

 

女性  「〇〇ちゃん、明日お母さんは手術して おっぱいがなくなっちゃうのよ! ごめんね、おかあさんは おっぱいがなくなっちゃうの」

 

家にいる息子さんと泣きながらお話しているようでした。泣き叫んでいる、という状態でした。40代ぐらいの女性でした。

私がナースステーションから戻ってきたときは、その女性はロビーのソファーに座っていて、周りに看護師さん1人と幾人かの女性の入院患者さんが寄り添っていました。

 

女性  「今ね、子どもにおっぱいがなくなっちゃうことを伝えたの。家でね、服をぱっと脱いで、このおっぱいを見るのは最後だからね!って、夫と息子に見せてきたの」

 

もう、わんわん泣いています。優しい女性の看護師さんが「うんうん・・・、そうだったんだね。・・・ごめんね、ほかの患者さんが不穏になっちゃうから もうあんまり大きな声で泣かないで」と肩をさすりながら諭していました。

 

 病気じゃない私は、この深い悲しみを目の当たりにしたことで、自分の立場をわきまえなければいけないと痛感しました。

 

 

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 どんなに暇でも、元気な私は あんまり出歩かない方がいいなと考えた私でしたが、生理現象のお手洗いには行きます。

私の入院部屋の正面が男性の6人部屋でした。その入口を入ってすぐ左側にいた 今思えば50代半ば~60代半ばの男性と廊下で会うと 結構お話をしていました。

 

ある日、ホントにイケナイことですが(笑) 、ベッドわきに呼ばれて(笑)、コーヒーをごちそうになっちゃいました!

 オジサン  「このインスタントコーヒー、美味しいんだよ!美味しいでしょ?」

 私  「美味しいです

 

それは今は売ってないかも?の、味の素系列の「AGF グランデージ」というインスタントコーヒーでした。

( 同等ラインの 「ネスカフェ プレジデント」は販売されてますね

 

そして更にイケナイことに、オジサンは上半身を脱いで( びっくり・苦笑 ) 「以前 胃の手術をしたんだよ、今度は2回目だったんだよ」と言って、首の付け根辺りからおへそ辺りまで続く 長く赤い傷を見せてくれたのでした。

 

※ 以上 ここまで、ちゃんと仕切りカーテンが開けてある状態で ベッドわきで飲んでしゃべっているのでした、安心してください ※  あはは・・・(汗あせ)

 

 

 そしてオジサンが退院の日、奥様とお二人で私にお言葉をかけてくださいました。

「元気でね、お大事にね。若いあなたは まだ(人生)これからです。どうぞ良い人生を送ってね。楽しく入院生活を過ごさせていただいた、どうもありがとう」

 

 

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 この男性と同じ6人部屋に、当時27歳だと言っていたオニイサンが肝臓の手術で入院していました。

私よりも先に手術の日を迎えるオニイサンは、前日に便通がない場合に飲まされる「ひまし油」を飲むのが苦痛らしくて、私の部屋の入口に寄りかかりつつ不安そうに・・・

 

オニイサン  「ねえさん・・・」

( ちょっと変な呼び方しないでよ、アタシは やくざサンじゃないのよ!と その時 思った )

「ウンチ出ないとひまし油っていうスゲーまずい油を飲まされるんだよ。気持ち悪いんだ・・・、やだなぁ!」

 

 この方も手術は初めてじゃないようでした。こんな調子で、ときどき話し相手になって励ましてました 

けれど、私の手術の時は 「ウンチ出た??? や~い や~い 出ないとひまし油飲まないといけないんだよ。」なんてからかわれました!

( 私は「ひまし油恐怖」の話のおかげで、前夜に便通があり ひまし油・下剤服用は免れました  )

 

 

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 たまたま二人部屋に入院した私と同室だったのは、K・Oさんという92歳の女性でした。起き上がって食事をすることはできましたが、ベッドから下りて歩くことはできませんでした。頻繁にナースコールをしてしまうクセ(・・・といっては申し訳ないのですが)があるので、少々のことは病気ではない手術前でピンピンしている私が代わって見守っていました 食事の上げ下げ とか 話し相手、写真を見せたり・新聞の読み聞かせ、落ちた物や手が届かないところにあるティッシュを取るとか。あ、そういえば看護婦さんが置いていった清拭布でお体を拭いたり、靴下を履くお手伝いもしたっけ~(*^^*)

 

 いよいよ翌日に手術を控えた私は、看護師さんから 「明日の手術に備えてしっかり眠って体力を温存しておくように」ということで睡眠薬を飲まされて、ぐっすりとした眠りについていました。

その真夜中のこと。

「おじいさん! おじいさん! 早く迎えに来て! あぁ、おじいさん!!!」という大声が聞こえてきて、すぐに ドッサーン!というものすごい衝撃音が響いたのです。

 

 隣りにいるK・Oさんがベッドから落ちてしまったのです。これは大変だ!と思って 私は廊下に出て「看護婦さ~ん! Oさんがベッドから落っこっちゃったー!!!!!」と叫びました  睡眠薬の影響で ふらふらして歩けない

看護師さん達が数人がかりで Oさんをベッドに上げて、Oさんは点滴で、私は薬で再び眠らされました・・・。

 

 

 K・Oさんが退院されるとき息子さんご夫妻が来られて、その時はもう手術後で寝ている私に「お世話になったお礼の品」だと 本場中国の月餅とハンカチ、切り絵細工をくださいました。そして、「どうぞお元気でね。母親はもう こうしてトシ(高齢)だけど、あなたはまだ若い。あなたも元気で長生きしてください」というようなお言葉をかけていただきました。私も もちろん、K・Oさんと明るく元気な息子さんと奥様のご健康をねがう言葉を返しました。

 

 K・Oさんと息子さんご夫妻がお住まいだという場所を 京浜急行線の電車で通りかかる時、今でも この日々のことを思い出します。

 

 

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 私は手術後、看護師さんから「病気じゃないんだし、傷が癒着しちゃうから、どんどん起きて動いてね!」とハッパをかけられたので、屋上までの階段の上り下りを日課にしてました。

 

ある日、屋上で7歳だという男の子を連れて洗濯物を干しているお母さんに出会いました。

 

お母さん  「この子は扁桃腺が酷く腫れてしまって・・・。これから切ってしまう手術をするんです。心配なんですけど。でも、無くしてしまえば、あんなに苦しくなることはもう経験しなくてよくなればって思って・・・」

 

 私とお母さんはご一緒にベンチに座り、ちょっと離れたところでぴょんぴょんと跳ねて遊ぶ男の子を見ていました。

 

 男の子と私は、ちょっとだけお話したかな?

 

 

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 そして最後・・・・・・

K・Oさんが退院された後に同室になったのは、鼻から酸素を吸入している50才前後の女性でした。

いつもカーテンを閉め切りにして、ベッドでじっとお過ごしでした。

 

背広姿の小柄で細身のご主人様が毎晩、お仕事の帰りに面会に来られていました。私は手術後数日が経過していたので、ご主人様が来られるとご挨拶して ロビーへと中座することにしていました。

 

 でも ある晩のこと。

奥様 「ごめんなさいね、こんな病気になって・・・」

ご主人 「いや、いいんだよ、いいんだ、、そんな・・・」

 

そのあとは、奥様は小さな声で泣いていました。

 

 その時のことを私ははっきりと憶えています。ベッドの上で 身じろぎもできず、ただ天井の模様を見つめて、、、それから布団をかぶってじっと息を殺しているしかありませんでした。

 

「外には広い世界があるけど、今この部屋にお二人だけの小さな世界があるんだ・・」と、もう堪んなくなっちゃって、私も泣くのをこらえていました。

 

 神様ですか? ご先祖様ですか? どなたですか? 私に次々にこんな、こんないろいろな人を見せて、何の意味があるんですか? 何か私に言いたいことがあるのですか?  苦しい大泣き

 

 18日間の入院生活で、最後にこんな気持ちになってしまいました

 

そして 強く思いました。「病気じゃない私が、いつまでもここにいてはいけない。ここは今 私がいる場所ではない。早く退院させてくださいって、明日 先生に言おう」と。

 

 私はこれから長い時間を生きていくんだ(年齢的にという意味)。これからしっかりしないと、ここで出会った方々に申し訳ない。と決心した晩でした。

 

 カーテン1枚隔てたご夫婦の会話を聞いてしまった翌朝、この女性のベッドわきにある洗面台で顔を洗うことを躊躇してしまっていた私に、「どうぞ、使ってください(*´▽`*)」と、珍しくカーテンを開けた状態で 奥様は微笑んで言ってくださったのでした。

 

そして私が退院する日、「どうぞお大事にね、お元気で・・・」と。

もう酸素吸入はしていらっしゃいませんでした。

 

 

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 鼠経ヘルニア(脱腸)にしては長い18日間の入院生活は、主治医お二人が、若い女性だという理由で大事を取って 術後も長居をさせて経過観察してくださっていたためです。

 

 ありがたいお言葉をもらって、21歳にしてようやく「これからの人生、しっかりしなくちゃ!」という気持ちになって退院してから1カ月もたたないうちに、当時お付き合いしていた彼氏にフラれました 青天のへきれきで半年ぐらい凹んだ気持ちを引きずりましたが、そこから アルバイトをしたり、本就職したりの生活が始まって社会に出たことにより、子ども時代とは違った「前に見えてきた広い道を進んでいく」という感覚を得た気がします(うまく言えませんが)。

 

 入院から42年という年月が経ちました。

 

所詮、私はみなさんの本当の苦しみ・悲しみなんてわかっちゃいないと思います。

 

 主治医のS先生・執刀医のN先生、優しく厳しく面白い看護師さん達も含めて、あの時の みなさんはどうされているかなぁ?

 

 自慢できない 弱虫 コムシで生きてきちゃったけれど、わたし 今、元気で生きてますよー って伝えたい。

 


昨夜見た夢 その①

2024年12月28日 22時59分18秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 昨夜といいますか、ほぼ起床直前でしたので「今朝方」ですね。

 

 とてもたくさんの場面の夢を見ました(*´ω`)

 

 6年半前に亡くなった母が、久しぶりに夢に出てきました。

見慣れた冬のコートを着て帰宅して、ドアを開けて入ってきた手には花束💐を抱えていました。

 

 そして驚いたことに、私をぎゅーっと抱きしめてくれたのです!

 

 私も母を抱きしめながら「おかあさ~ん!」って言っちゃってました。

 

これまで母が夢に出てきてくれたのは3回ぐらいと、決して多くはないのですが、どれもガラス戸の向こうにいて私に気づいていないというシチュエーションの夢ばかりでした。

なので、今朝の夢でリアルに母の腕の力を感じたことに、嬉しい気持ちより先に本当にビックリしちゃいました。

 

 なぜ母が夢に出てきたのか?

 

それは、年末になって今年の出来事を振り返って、実家を取り壊してしまったことを寂しく考えていたせいだと思われます。

昨夜ふとんに入った時に、家の中の様子や父・母が暮らしていた姿を思い出し、「あぁ、あの家はもう無いんだなぁ・・・」と、急にえもいわれぬ喪失感に襲われたんです

 ここ2~3日、そんな気持ちが続いていました。

 

 

 きっと母は、そんな私を励まし労りに来てくれたんじゃないかと・・・

 

「おかあちゃんがいなくなったら、この家どうなっちゃうんだろう?」と心配していた母を裏切ったように処分してしまった私です。

 

 でも、昨夜寝付く前に、「おかあさんが亡くなった後、おとうさんと4年間暮らしたから、あの実家の良さがわかって愛着も湧いちゃったんだよなぁ。惜しかったけど、最後に大事に暮らしたから、おかあさん許してくれるかなぁ~( ´-`)」

 

って、しみじみ考えていたのでした。

 

 

【オマケの写真】

 数日前に、手作り段ボール仏壇(苦笑)を掃除して、

・私の両親、

・私の父方の祖母・伯母

・母方の祖父母・叔父夫婦

の写真をぜーんぶ並べたのでした

 

 健在なのは、いちばん右下にある 私が撮った写真に収まる「現在100歳の伯母とその実弟の私の父98歳」という、親族史上最高齢の二人です(*^^*) (*’ω’ノノ゙☆パチパチ

 

 

 それにしても・・・、母に抱きしめられるなんて、大人になってから現実でもなかったと思います。

 

今思えば、私が母のことを優しく抱きしめてあげるってことがあってもよかったにのになぁ( ´-ω-)って、反省しております。

 

 

 夢はまだその②につづく・・・


実家じまい、最後の一コマ お騒がせ!(;^ω^)

2024年07月08日 21時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 まだ父親が健在ですが 施設住まい。

一人っ子の私は実家を処分して、父の今後の介護生活資金として現金化することを決意しました。

 

 築53年の平屋を自分で取り壊す資金がないので「古家あり」の物件として 不動産会社さんにお願いしました。

立地環境にもいろいろ良くない点がありまして( 高度経済成長期の造成時のいい加減さ 私のせいじゃないやい)、売却価格はお安くなりましたが、欲をかいたら失敗すると思って高望みせずに進めていただきました。

 

 

 いろんなことがありました、お金もかかりました、人間関係を慎重に進めることに最も心を砕きました、ご親切なご近所さん達に本当にお世話になってしまいました。

 

なんとか ここまで漕ぎつけた!( 感謝と放心と、頭が激疲れ   なぜか体は元気でお腹が減る!)

 

流行りの・・・、違う、失礼しました(;^ω^)  社会問題化している「空き家」の長期間放置にならずにすんで 安堵しました・・・。

 

 で、いよいよ所有権が私から離れる直前、お花屋さんに こんな小さな花束を作っていただいて 感謝の気持ちを跡地に捧げてきました(*´▽`*)♡

母が「えんじ色」が好きだったので、似たような色のカーネーションを入れてもらいました。

 

 

 玄関があった場所に置こうと思ったのですが、ご近所さんが「真ん中に置きなさいな(*´▽`*)」とおっしゃるので、ど真ん中に厳かに横たえてみましたよ~☆彡 💐

 

・・・・・そうしましたら、翌日 ご近所さんから驚きの一報がもたらされたのです

 

それは・・・

 

この献花のいきさつをご存じない とあるご近所さんが、朝のゴミ捨ての道すがらにこれを見て   「お良しさんのお父さん、亡くなられたの 」

と、心配してくださったそうで  

 

 いやいや、ちょっと待ってくださいよ! 父が死んで どうして家の跡地なんかに お花をお供えしますかぁ?

 

 あ、いや 待てよ・・・。それは私が家族だから思うことかな そのご近所さんは、父を知る だれか他の人が供えたと思ったのかな?

 

 とにもかくにも、ご近所さんにあいさつ回りも終えたのに、さらに最後の最後までお騒がせな お良しなのデシタ 

 どんどはれ

 

 


跡形もなく・・・・・・・・

2024年07月02日 20時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 「跡形もなく」とは 正にこのことだと、生まれて初めて心の底から痛感しています。

 

 

 感謝の気持ちを持って「実家じまい」を進めてきました(^o^;)

 

 家の姿が現実に見えなくなったので土地が他人に渡る前、まだ私の所有のうちに投稿します

 

 同じ角度から、同じ場所を

 本邦初公開!

 

 

  こちらは昭和50年頃かなぁ? 昭和46年の建築から間もないころの写真です

 

雨戸も窓枠も、壁も何もかも木造で、定期的にペンキを塗って管理しておかないと傷んで大変でした。

 

 

 平成十年代に外壁と窓・雨戸を新しくしました。

( この写真は 今年2月の姿 )

 

 「解体後に地中から過去の粗悪ごみ」が出てくる現場もあるらしいと聞いたので、記録として今年4月に床下の写真も撮っておきました(*´▽`*)

 

 一昨年7月まで4年半、父親と暮らしていた時に このブログを書くのにパソコンに向かっていた部屋があった辺り。

 

 

 お勝手口の側溝には「サワガニ」が棲んでいて、6月ごろから毎晩出没して楽しませてくれました♡

 

 

 このブログでもたびたび観察記を書いていましたが・・・

 

 家がなくなったら日差しがカンカン当たって暑そうです(;´・ω・)

 4月ごろから土を盛り上げて穴から出てきた形跡があったのですが、側溝の底が平らにならされて泥水だらけになってます。

どこかで生きているかしら???

 

 

 手放すことに未練タラタラでしたが、こうなってみると「本当になくなっちゃったんだなぁ」と、呆然・喪失・虚無、そして諦めの感覚が湧いてきますネ~( ´-ω-)

 

 

生前の実母  「おかあちゃんがいなくなったら、この家 どうなっちゃうんだろう?」

 

 最後の4年間、お父さんと一緒に この家で、しみじみ穏やかに暮らしたんだから許してほしい、おかあさん ごめん!

  私もホント辛い

 

「所有権移転登記」の前日に、 小さな花束をそっと置いてこようと思っています。

 

 

 

 


両親とわたしの大切な家を手放す準備が終わりました ☆ 記録 ② < 天井裏を見てみた!>

2024年02月10日 18時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 生前の母がよく話していたことがありました。上棟式の時に見たことらしいのですが、、、

 

母いわく  「この家はしっかり出来ているんだよ。天井にすごい梁が入っているんだよ。」

 

 どこの家にも天井裏へと上っていける場所が設けられているはずです。片付け中と終わったあと、ちょっと覗いてみました(*´▽`*)♡♪♫♪♫♪

 

 「天袋( てんぶくろ )」の一か所の板が外せるようになっていました。

( 実は、実家は木造平屋建ての大邸宅でございます、うわっはっはー

 

上の写真の中央に見える材木の「焼き印」をズームアップ!

 

「天龍」と読めます

こういうのは「野地板( のじいた )」っていうのかな?

 

「テイガク」という専門会社の【屋根の構造 と 部材】という解説サイトへ飛ぶ

 

 屋根の一番高いところの木組み

 

てっぺんに渡してあるのは「棟( むね )」っていうのかな? 

左右に下がっていくのは「垂木( たるき )」か・・・。

 

ふたたび、【屋根構造 と 部材】という解説サイトへ飛ぶ

 

 

 

 傾斜している屋根のところ

( 懐中電灯で照らして見ています🔦)

 

 

 どうやら53年間ぶら下がったままの ビニールひも

 

 

 こういう丸太が、母が言っていた「梁」かな!

 

 

 これもそうかな?

 互い違いに左右から たくさん渡してあります

 

 

 ウンショッ!どっこいしょ! と、注意深く脚立を登って 天井裏に顔を出してみた~☆彡

( 片付け業者さんが、強力ライトを設置してくださったので よく見えています )

 

 壁です 

 白く見えるのは、20年ほど前に外壁を「サイデリング」に張り替えた際に張ったと思われる「防水シート」かなぁ???

 

 

 屋根の板

 電線が這わせてありますね、初めて目にしましたよーん(*´▽`*)♡

 

 

 時どき、飛び込み業者が「お宅の屋根、ずれてますヨ、雨漏りしちゃいますヨ、早く直した方がいいデスヨ」なぁーんて不安にさせることをしつこく言ってくるけれど、とりあえず平気 

 

長い間 私たち家族を守ってくれて、本当にありがとうございました~

 

 我が家のおかかえ大工さんペンキ屋さんも、私の板金屋さんをやっている従兄も、

「そういうことを言われた家の屋根に50回・100回上がって異常があったケースは一つもない!」と証言しておりますよ~ アッハッハー

 

 ただし、ふだんから雨漏りの兆候には 自分で注意深く観察しておきたいものです( 台風・水害・地震の後とか )

 

 


両親とわたしの大切な家を手放す準備が終わりました ☆ 記録 ①

2024年02月04日 21時02分41秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 この、光の差し込む感じ・・・

 

 すべてが思い出です・・・

 

 昭和46年( 1971 )5月1日に昔ながらの「上棟式」を執り行い、同年8月2日に引っ越してきた私の実家のことを記録します。

こちらの写真は昭和62(1987)年のお正月の風景、60歳と59歳の両親です(*^-^*)

 

 上棟式のことはよく覚えています。コンクリートの上に材木が渡してある基礎を、ヨイショ ヨイショと何度も跨いで はしゃいでいた私でした( 小学校3年生)。

 それまで狭い借家暮らしだったので母は、「最初は広くてどこに座っていいかわからなかった(;^ω^)」と、晩年までよく言っていました。

 

 同じ部屋にて。もうすぐ95歳になる時の父です。

 

 2018年3月に母が(くも膜下出血でこの家の自分の部屋で)急死したため、急に一人暮らしになってしまった父の見守りが始まった私でした。それ以来2022年の7月に父が「尿管結石」で救急搬送されるまで、ありがたいブログ友だちの皆様と交流しつつブログを書いていたのは、主にこの家ででした。

2021年頃に公開した、疲れて眠る父の写真です(*´▽`*) アッハッハー

 

 

 私には別に自宅があり、父の入院と2日違いで これまた急病を得た夫の介助も始まってしまったので、一人っ子の私は実父が福祉施設でお世話になることを決意したのでした。( 紆余曲折あった )

 

 本箱の中の「囲碁の本」を資源回収に出すのが 重くて大変だったぁ~(;´・ω・)

( 2022年、買い物に行っている隙に撮った写真 )

 

 正面の大きな本箱は、父が大事な退職金で喜んで購入したものでした。

左右の家具は、昭和29(1954)年の結婚当初に贈られたものだとか。

 

  

 

 見ればわかる風景。書くことはありません。

さみしいなぁ・・・・・。

 

いろいろつらい気持ちでいっぱいです。

 

 

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 足腰が痛い母を手伝って お洗濯を一手に引き受けていた父。↑この写真の時91歳。

2022年に倒れる2日前まで、自分のことは自分でちゃんとやってくれていました。膝が痛くてどうしようもなかったはずなのに、感謝です。立派だったと思います。 実は鬼娘なくせに殊勝なことを書いている私

 

いやいや、私が子どもの頃の父は常にイライラしていて、母や私に手を上げることが多かったのです。実は、私の手には「お仕置きの傷」が残っています。

「昔の人だから」とかっていう理由はトンデモナイことですわ〰️(^o^;) コンニャロ!

 

 

 

 

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 お風呂掃除も、はがれたタイルの補修も、手が器用なので何でもやってくれていました。

 

 お風呂場も殺風景になりました・・・。

 

 

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 バスに乗って毎日買い物に行っていた父。支度が整って、まだ午前9時頃なのに 行く前に腹ごしらえのおやつ!

( 脇に折り畳み傘を用意してあるので、雨の日でも出かけていたのです)94歳ごろ。

 

 

 いろいろ乗っかっていたダイニングテーブルも丸裸に。

この台所も、すっかり空っぽの部屋になりました・・・

 

 昭和46年から使っていましたが、こんな綺麗な模様だったのね~、気がつきませんでした。ステキ

 

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 父と暮らした4年間、私がブログを書いていた部屋( 四畳半の和室 )

 

 引っ越してきた9歳の時から嫁ぐまで私の部屋でした。そのあと母が使い、亡きあとまた私が4年間使いました。

この家で一番 思い出多き部屋かな・・・(*´▽`*)

 

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 昆虫だの、鳥だの、サワガニだの、お花・きれいな新緑だの、いろんな観察日記をブログに書き続けた庭。

 

 

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 家屋の内外の処分を終えて、長年の感謝を込めてお掃除していた最後の最後に、なんと

 

 写真の奥にごろごろ並んでいる庭石を不注意にも

 

 利き手の薬指に落っことして「剥離骨折」

 ガーン! 生まれて初めてのコッセツです

カレンダーをご覧ください、大安吉日に骨折したのですよ

 

 今どきのギブスはこんな手軽な感じでビックリ! 機能は優秀です。

 

 

 そんなこんなで忙しくしておりまして、「三浦海岸の河津桜 開花状況」の観察記ぐらいしか ブログを書くことができませんでした~

 

このケガは  亡くなった母「アタシがいなくなったら、この家はどうなるんだろう・・・」と不安がっていた亡き母が許してくれる代わりに、 何か見えない存在の力が私に軽く「お仕置きの五寸釘」でも打ち込んだのでしょうか 

 それとも「充分頑張ったからもういいよ、少し休みなさい」と言われたのか? ←自意識過剰(笑)

 

 この記録記事、まだまだ続けます 

 


去りゆく2022年に置いていく、私の今の気持ち ☆彡 新しい年に向かって、レッツ・リセット!

2023年01月03日 16時08分53秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 ※注※ この投稿は、2022年12月31日に書いたものの再編集です

 

 

過ぎ去った2022年に置いていくことにする 今の気持ちです

 

 今年の半分が過ぎたころ、実父と夫が相次いで病を得て 私の生活がガラッと変わりました。

 

 2018年に実母がくも膜下出血で突然亡くなってから、急に一人暮らしになっちゃった当時91歳の父と過ごすことが多くなりました。

 

 始めの2年ほどは 父娘の二人暮らしが「二度とないかけがえのない時間」だと思っていました。本当にそう思えたし、優しくしてくれる父と 寂しさを分かち合って お互いに支え合って暮らしていたと思います。

 

 夫と暮らす自宅と父の家を行き来する二重生活でした。人様からは「二つも家があって、別荘みたい。いいねぇ」と言われました。

 

 たしかに、片方の家で疲れると もう片方へ行って気分が休まる・・・という面もあったような気がします。

 

 

 でも、最近の2年ぐらいは正直 つらかったのです。

 

 夫は長らく精神を病んでいます。仕事の忙しさにやられたのです。物事の変化にとても敏感になってしまっています。私が二つの家を行ったり来たりしていることがストレスだったのです。もともと、わたしと結婚する前から自分一人で生活する力がある人でしたので、私がたまに帰宅すると 私の家事のやり方、はたは存在自体が邪魔でストレスになっていきました。

 

 私たち夫婦は、ひどいケンカや諍いをすることが多くなっていきました。

 

「もう家に帰ってこないでほしい」「分かれて別々にやっていこう」と、夫から言われました・・・。

 

私はその真意を推し量るのが困難でした。

 

 

 一方、父の方はだんだんと弱っていきました。

 

「歩けなくなると困るから」「毎日の食べ物が必要だから」という自立の気持ちが強い真面目さがある大正生まれなので、毎日バスと電車を乗り継いで街へ買い物に出かけていました。「年寄りくさいから嫌だ」と言って杖も使わずに 痛い膝をひきずって外出していました。

 

 一昨年ごろから外で転ぶようになりました。駅のホームで転んだり、バスを降りてから 家の近くで転んでご近所さんに抱えらえれて帰り着くこともあったようです。熱中症で駅員さんに救急車を呼んでもらったこともありました。

 

 父は立派だと思います。でも、そのたびに呼び出されたりするのは困りました。謝ってまわるのは私にとっては何でもないことです。でも、365日24時間、父についていることは無理です。

 

 父も自覚して杖を使ったり、リハビリデイサービスに行って筋肉を鍛えたりすることは前向きにやってくれましたが、私は一人っ子なので父の将来を背負っていくことが心配になってきました。

 

 夫との仲が良くないことが、私の力を奪っていくようでした。

 

 

 そんな中で、私が 今年もまた熱中症が怖い夏がやって来ることを危惧していた矢先、父が「左尿管結石性腎盂腎炎」で救急搬送されたのです。

その2日前には、夫が「網膜剥離」で緊急手術入院しました。3カ月の間に3回の手術をしました。

 

 夫は、すっかり気弱になりました。本当は寂しかったのだと思います。

 

 今は 母が生きている頃のように、つまり以前のように普通に一緒に暮らせています。

 

 お互いの努力が大切ですね。

 

 なんだか、女って 勝手な男の間にはさまって ずっと損をしている気がしていました。

 これ以上父と一緒にいたら、不安と心配で虐待してしまうかも、という限界を感じていました。

 

 

 これからまだ父のこと、実家の整理など やることがたくさんやって来ると思います。

 

 私自身の時間を大切に保って、来年からも生きていくつもりです!

 

 私たち3人、みんな頑張ったので、誰も悪くないのです。

だから! 正直、ホントにキツかった これまでの4年間のことは、忘れることにします

 

 ブロ友のみなさまの投稿を読んでいるだけで、わたしは本当に励まされました!

 

 長々とお読みいただいて、付き合ってくださり、どうもありがとうございました!また来年!!