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お良しなさい日記♪

三浦半島からこんにちは!

いやはや、(~_~;) やっと少し落ち着きました~ 夫 と 実父の入院騒動からの生還?

2022年09月12日 19時48分29秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 2022年9月10日(土)の、三浦半島南東部 海岸線の様子です 

 

 2022年は7月初旬に夫と実父が相次いで入院してしまい、現在も加療中です。

私にとって今年は夏の記憶がまったく無い! いっぺんにいろんなことが押し寄せて、頭の中が忙しすぎて記憶喪失気味な季節を過ごしております。

 

 

 この2カ月の出来事をあまり詳しく書くと個人が特定されてしまう恐れがありますので、なるべく簡潔に日記として記録しておきたいと思います。

 ありがたいブログ友達のみなさまの強力な励ましもあり、同じ状況にある友人、ご近所さま、病院でお世話してくださった方々、ケアマネージャーさんをはじめとした福祉関係のたくさんの方々、、、本当に素早く 様ざまなご対応と手助けをいただいて、われら3人家族は恵まれた、と実感しています。

 ご近所の子どもたちまで、私にコーラをプレゼントに持ってきて様子を見に来てくれるという、天使が来たようなありがたさもありました 

 

 

 いちばん情けないのは私本人でございまして、最初に事が起こった7月4日から今日までに 何度 心と体が衰弱したことか。1度はマジでぶっ倒れて動けなくなってしまいました! そんなふうになっても、たくさんのみなさまに厚かましく助けていただきました。

 

① 夫 緊急入院・手術 

② 三日後、実父が緊急入院 ( 私一人しか介助者はいないので、入院先は夫と同じ病院にしてもらうように懇願した )

③ 実父の急病が落ち着いたので救急病院から退院したが、世話しなくてはいけない夫がいるので 実父には療養病院へ転院してもらう

( 実父と私は同居ではありません )

 

・・・この間、ありがたい目上の知人が金額的にも環境的にも利用しやすい有料老人ホームを紹介してくださる。見学に行ってみたけれど、やっぱり実父の経済的な不安があって 入所を見送る・・・

 

④ 実父の介護認定申請 → 認定調査 → 「要介護度」が決定して初めてケアマネージャーさんをお願いする。

しかし、コロナ禍でケアマネージャーさんも充分な面会が出来ないので実父の体の状態が正確につかめず、自宅での介護計画は病院からの電話情報を聞いたケアマネージャーさんの長年のご経験をもとに、ほぼ机上で組んで退院の準備を整えた

⑤ 実父が自宅に帰宅。しかし思ったよりも衰えていて、私が不安と介助で疲れてしまってヘロヘロになる。

⑥ 実父の帰宅の2日後、夫の病気が再発!!!!! 緊急入院でその日のうちに手術。

⑦ 実父の元を留守した間、ヘルパーさんにご迷惑をおかけしてしまって、それを知って お良し 精神的にダウン

( はっきり言って、入院になるとは思わずに支度を持っていかなかった夫が、昼ごはんも食べさせてくれずに「身支度品を家に取りに行って持ってきて」なんて要求するからだ。明日じゃダメなの? 病院で買ってよ! いくら病気の不安があるからって、私が忙しいことは知ってるくせに。私は女中じゃないぞ!と思っても、風雨の中を歩きと電車で往復して無理しちゃった私も悪いです )

 

 

 

 

 そして今、熱心に我らを助けつづけてくださっているケアマネさんのおかげで、実父はショートステイに入所しております。長くは居られませんので時々帰宅してきますが、私もなんとか休み休み自分自身をケアしながら この先やっていく予定です。

 

  堪えがきかないのは、私も歳なんですよ、きっと。だって、40代の時は毎日夜遅くまでの仕事をしながら母の看護をすることも平気でやっていたんですから。そういえば、父の分の食事も作って仕事に行って、病院へ通ったりしたこともあったのに、今は到底無理ですね(^o^;)

 

 

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 病院にいるときから今まで、いろいろなところと折衝するから仕方がないのですが、しょっちゅう「負の内容」の電話がかかってくるので 本当に疲弊しました。私一人で二人分の取り決めなどを同時にしていくんですもの。

 もうね、電話が鳴るたびに「今度は何なの 」って、トラウマですよー

これが一番 身に堪えたかなぁ・・・ 

 

 

 反対に、最も励まされた言葉は「今は過渡期だからいちばん辛いんですよ」という友人男性の言葉でした。

「そうか、そうかぁ それもそうだなぁ」と、思い直すのに 私にすごーく効きました!

 

 

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 詳しくは書けませんが、私と同世代の友人二人が似たような状況になっていまして、とっても心配してくれています。 私は泣き言をいってばかりなのに、友人は私を励ましてくれる。すごい! お良しは人間失格デスわ~

 

 

 夫は2ヵ月ぐらいしたら、もう1回手術しなくてはならないのです( 体に入れた物を抜くため )。

つまりは今年いっぱいは無理ができません。我が家には自家用車がないので、買い物や実父の家との行き来が不自由です。

愛車 「サンシャイン号」は荷物が積めないマウンテンバイクだし、夫が笑って言うには役立たずの自転車

( ウルサイ 何言ってんの サンシャイン号に乗ってるおかげで足腰が丈夫でいられるんだい 今、私がひ弱だったら、あーたどーすんの )

 

 夫が乗っていた電動アシスト自転車に乗れるように、これから 練習しようと思っています 

 

 実父が一時帰宅する数日後まで、ひとまず自宅で夫のおさんどん作りで過ごしています。

( 昨日と今日、久しぶりに仕事に行けました。気分転換になりました ありがたや ありがたや )

( さらに、先輩のお一人はご自身のお父様のことを思い出されているのか、私の話を聞いて泣いてくださっていた。もうお一人からは、ご自身でお昼に召し上がろうと持ってきていたカステラをお見舞いとしていただいてしまった!

 

皆さん、乗り越えてきているのですね・・・)

 

 

 

 このあと、父はどのような状態でショートステイから戻ってくるのかなぁ! 最初の入院前から5キロぐらい体重が減って激やせして、歩けなくなっています。

眠っていることが多く、頭も言葉もボーっとしていましたが、食欲はとても有るので その甲斐あって徐々にしっかりしてきています。

 

 

 「お良しが大変だと思ってよ・・」と、優しい言葉をくれた父。

「痛い」とか弱音を吐くことが初めてで、でも自分でなんとかやろうという意思があって、応援したいけれど 充分なことができない私です。

お父さん、ごめんね、かわいそうだなぁ、なんで重なっちゃったんだろ そう思ってばかりです。 

 

 介護のプロのみなさんに、上手なお食事を食べさせてもらって、上手にお風呂に入れてもらって、私と一緒に家にいるよりも幸せにすごしてもらいたいです。

 どうか、よろしくお願いいたします。

 

 父は明日9月13日に96歳の誕生日を迎えます。

1926年、エリザベス女王さまと同い年です( *´艸`)


空は晴れたが心は晴れず・・・、悩みを聞いて 聞いて~

2022年07月31日 10時32分26秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 本日2022年7月最後の日の三浦半島地方、さわやかな風がそよそよと吹いて 良いお天気です。

 

 暑くなりそうですが、内陸部のような36~38℃という気温までは達しません。

でも、雨がまったく降らないので( 関東地方の北部や中央部は夕方になると雷雲が発生するでしょう? 三浦半島はそれがほぼない!)、一日中暑さが続きまして疲れます

 

 昨日は父が入院でいなくなった家の庭の水やりに自転車で行って、その後 買い物をしてお昼ごはんに間に合うように夫のところに戻るということをやったら、熱中症まではいかないけれど とっても疲れてしまって、夜にお風呂に入るのもめんどくさくなってそのまま寝ちゃうという体調に陥りました。

 

 もう若くないんだなぁ! と、身に染みて思いましたよー シクシク 

 

 

 今日は「上昇気流」がすごいらしく、朝っぱらからトンビたちがグルグル円を描いて青空高く上がっていってます!

 

ツバメなども活発に、鋭い飛翔軌跡を描いて 縦横無尽に飛び回っています。

子育て2順目も終盤に差し掛かり、でっかく育ったヒナ鳥たちへの大物のエサをたくさん獲ってくる必要があるのでしょう

 

 

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「尿道結石性腎盂腎炎」を急に発症して緊急入院した実父95歳のその後ですが、私の都合もあって数日長く21日間 ‘‘いわゆる急性期病院‘‘ で治療して快復出来ました。

( 腎臓・尿道・膀胱の腫れはおさまった。結石は尿と一緒に体外に自然排出されたらしい )

 

 久しぶりに顔を見て、意外にやつれたりしていなくて、受け答えがしっかりしていたので ちょっと良い意味で驚きました。

 

 しかし、体力が落ちたので このまま自宅で過ごすのは難しいということで 他の病院に併設されている「地域包括ケア病棟」という所に転院しました。担当医の話では「まだ数個の結石が腎臓内に存在していて、また同じことが起こらないともかぎらない」とのことです。

 

 

★ 急病発症前の父  

 7月1日の晩、いつものように夕食後のくつろぎ

( もう、このころから夏の疲れもあって 体調はおかしかったと思います。だって、毎日 買い物と馴染みのお店にラーメンを食べにバスに乗ってでかけているんですもの。私が作った経口保水ドリンクをポケットに入れて持たせるのですが、「飲むこと自体が精いっぱいで疲れる」ってなことを言ってました )

 

 

 「病院へは行かなくてもいいです!」と、ガンとして嫌がる父を救急隊のみなさんが引っ張り出して連れて行ってくださった跡

(  救急隊長さんから「お嬢さん、たとえお父さんが寒いって言っても、毛布なんて片付けちゃってください! また24時間以内に熱中症になりますよ」と強くアドバイスをいただいてしまった この状況・・・

 

 

★ 救急隊に助けられる直前に、いつものように入浴後の準備をキチンとして昼寝をしていた父 

( お風呂から出たら、痛い右ひざにスティック状の痛み止めを塗り・湿布を貼り、カサカサしている腕に保湿クリームを塗る習慣。タオルは禿げ頭をふいたり いろいろ )

 

 

 着替えも準備。写っていませんが もっと左の方に下着一式がそろえてあります

 

 

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 7月7日に入院して、再会したのが27日でした。

 

 転院先の病院での検査待ち時間に会話できた内容を、その場で手帳にメモした私の記録です 

 

「○○のラーメンが食べたい! もうしばらく食べてないんだよ、あっちじゃ食べられないんだもん」

と、馴染みのラーメン屋さんのことも言ってました

 

 最初の病院でも今のケア病院でも、毎晩「家に帰る 家に帰る」と言い出して 看護師さんたちを困らせているのだとか・・・。

自分が病気で病院にいるという意識がわからなくなってしまってるということらしいです。

これまで家族として接してきた娘の感覚からいうと認知症じゃないと思うのですが、医療・看護関係者からみれば「お歳 相応」ということなんですって~

 

 これまで自分のことは自分でやってきていたから、自分の家で自分の考えで同じように日々を送りたいのでしょうけれど( 電話で話すと「できるよ!」って私に言う )、手すりにつかまっても3m歩くのがやっとでは安全に暮らせないのですよね。

 

 それに、目の手術を終えたばかりで、今は いったん「盲目」に近くなっている夫が別の家に住んでいるのです。

で、私一人しかキーパーソンはいないのです。自宅に同居家族がいっぱいいて、ヘルパーさんやデイサービスに通える環境が整えばよいのでしょうけれどネ

 

 

 先ほどのメモに書いた父の言葉を読み返したり、目にした姿を思い出したりすると、さすがに「おとうさん、かわいそうだなぁ・・・」という気持ちになっちゃって、施設入所と在宅介護の選択の狭間で悩み始めている私です。

 

 自宅に帰ってきたら、心身ともにしっかりとしてくるのでしょうか???

 

 とりあえず、すぐ数日後に介護度の再認定のための「介護認定調査」を受ける予定となっています。

 

 


私にとっては、なんだかいつもと違う夏。

2022年07月25日 21時38分02秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 実父が入院してしまい無人になってしまった実家。

 

 一方、自宅には目の手術をしたばかりでよく見えず、安静を保っている夫がいて、三度三度の食事の準備と後かたづけ、買い物、家事全般をあと2ヶ月は続ける必要があります。

 

 もちろん自分の楽しいこともやりたいなぁ! でも、ちょいと疲れやすくなっている自分を感じています。

 

 

 父が住む実家は山際にあるので、このブログには窓からよく見える「三浦富士183m」をよく載せてきました。

 

 

 父が居ない家に泊まっても寂しすぎるので、夫のこともあるから このたび4年ぶりに私の生活の拠点を海の近くにある自宅に戻しました~

 

(自家用車がないので、荷物の片づけや移動ははかどらず、これも疲れるので、のんびりやります)

 

 

 これからは自宅の窓から、これまた大好きで、しょっちゅうブログに登場させる「東京湾フェリー」しらはま丸とかなや丸が行き来する姿を見ることができます。⛴️🛳️🎶

 

「三浦富士」の姿も実家とは反対側の姿が見えます。

 

 7月24日日曜日の三浦海岸の様子です。

 

 青い空、青い海、白い夏の雲。

 

最近の海水浴客さんは、ご自身のテントを持参されて、中で思い思いに過ごすようですね。

 

 でも、夏が大好きなお良しの今年の7月は、夏が来ている実感がわかない「ただ暑くて疲れる季節」を集中力なく、でも「無駄に気が急いて」過ごしている感じになっちゃってます・・・

 

 人生、こんな時もあるさ、、、ですかね?

 

 

★ 父は「急性期」をなんとか脱して、治療・療養・リハビリのための病院に転院して、生活復帰を目指します。「介護保険の認定調査」も受け直します。

 

まったく会えていなくて話だけ教えてもらっているのみなので、顔を見るのが正直コワイです➰((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル 

 

 でも、先生方、看護師さん方に心から御礼申し上げたいです。


ちょっとだけ波瀾万丈な日々

2021年09月17日 21時40分16秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 こんばんは~(^-^)

 

久しぶりにブログ画面と向かい合っております。愛用のちっちゃいカメラは壊れてしまいましたが、古いデジカメを📷️引っ張り出してきて使い始めています。持ち歩きには大きくてかさばって大変です(^o^;)

 

 

 今夜は台風が来る前夜のせいか、いろいろな生き物が家の中に避難してきているようです。チョウチョ や ガ、クモがあちこちでじっとしています。

 上の写真の「スタンドライトの傘の内側」にちっちゃいクモ🕷️が身を寄せていて、灯りをつけるのが可哀想で止めました。今夜は寝床で本は読めないや

 

 4月から6月に同居していたはずの「巨大アシダカグモの雌」は相変わらず居ないけれど、今夜は中ぐらいのアシダカグモがパシパシ走り回っていて、久びさに悲鳴を上げたお良しです(^o^;) ドシャーッ

 

 

 実はここ2週間ぐらいの間に、実父が外で1回・家の中で1回転び、また駅構内で熱中症で倒れて救急搬送されて、その翌日も熱中症スレスレで玄関前で倒れ込んでいた!という波乱の日々を過ごしておりました!Σ(×_×;)! あわや95歳の誕生日を迎えることができないのか と思いましたよー

 

 私は神経質で心配性なので、もう眠れぬ夜になっちゃいまして困りました。だってぇ・・・、私しか父を看る家族がいないんだもんよー 

 でも、一つ一つ解決していくしかないので、介護保険の関係の職員さんにご相談して、要介護状態になることを避けるべく、リハビリデイサービスを利用してみようかということになりました。近々 紹介された数ヵ所に父と見学に行ってこようと考えています(#^.^#)

 

 整形外科の先生と看護師さん →「95歳でこれだけしっかり動けてるなんてすごいよ。元気でいるためにリハビリに行っといで。でも、男性はプライドが高いから、人がいる所に行きたくないなんていう人もいるけど、気に入らなかったらいつでもやめればいいんだから!(笑)」

 

 私の本音としては →「母が急逝した当初は、父と暮らすこの日々は二度とないかけがえのない日々、なーんて心底思いましたが、今はもう いちいち呼び出されちゃ、仕事はおろか普通に出かけることも心配でできないよ~(ToT) 施設に入ってほしいなぁ」

 

 介護度「要支援1」じゃ、高額な有料老人ホームにしか入れません、無理でーす!Σ(×_×;)!

 

公的介護関係職員さん →「私が担当している方で大正生まれの方にお会いすることはめったにないです、素晴らしいです!((*^-^*)」

 

私 →「本人の出来ることは奪わない、という方針でやってきましたが もう疲れちゃいました私(ToT)」

 

( 救急搬送されたので、この時期当然のごとくコロナ感染の有無を検査された父。陰性でした(^o^;) 同居の私もセーフなのかしら???)

 

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 そして、この相談にのっていただいた職員さんがお帰りになった直後、電話が鳴って新たな知らせがもたらされたのでした。

 

 実母のきょうだいで唯一健在でいてくれていた叔父が亡くなりましたという従兄からの電話でした。子どもがいなかったので、私を含めた甥や姪のことをとっても可愛がってくれた叔父です。10年前に奥さんを突然亡くして以来、一人で頑張って生活していました。難治性の病で5年以上苦しんで、母が生きている頃から名代として年に2回、埼玉県の家を訪ねていた私です。コロナ禍になってからまる2年会いに行けずにいて、葬儀にも越県しては行けないです。顔を見ることができず悲しいです。

「おじさん」と呼べる人が、ひとりも居なくなりました。寂しいです、、、

 

 特別に面会を許されて最期を看取った従兄(甥)から話を聞くと、叔父は最期まで立派でした! 詳しくは書きませんが、ビックリです。90歳になったばかりでしたが、やっぱり在宅医療を担っている医者がよく言う通り、超高齢になればなるほど、何か予感のようなものを得て、意識的にも無意識的にもきちんと気持ちを整理して言い残し、スッと逝くのですね。

 まさに母がそうでした。やっぱり姉弟なのかしらねぇ! わぁ。

 

。。。。。。。。。。。

 

 私が会いに行くと必ずご馳走してくれた、叔父さんが大好きだったコーヒーを☕今朝は一緒に飲みました。

 私のカップだけ減っていく。これが「生きている」ということ。

 

 父のことでガックリ疲れ気味だった私に、叔父さんがエールを送ってくれている。

 

最期に電話で交わした会話 (7月6日)

私 →「おじさん! 私もうすぐワクチン注射できるから、終わったらすぐに会いに行くね!もう少しだけ頑張ってね」

叔父 →「うん。あぁ・・、息が苦しいんだよ。でも、お前が電話くれたから もう少し頑張るから!」

 

 半世紀以上お世話になったのに、なんにもできなくて申し訳ないことをしちゃった。叔父さん、ごめんね。 長い人生本当にお疲れさまでした、どうもありがとうございました

 実父の95歳の誕生日、まさにその日に旅立ったから「おじさんの命日を忘れるなよ!」って私に釘を刺したネ


本日、向田邦子さんの命日に思うこと ☆ 私小説とも言える「父の詫び状」は私にも当てはまる

2021年08月22日 21時00分00秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 久しく「父の詫び状」を忘れていましたが、ラジオで 今日が向田邦子さんが死去して40年ということを知り、わたしが普段忘れている実父への負の感情をふたたび思い出してしまいました。

  出版されたのは1978年ですが、わたしは1986年にNHKテレビでドラマ化されたのを見て、初めて このお話を知りました。

見た時すぐに「これは私と父の話だ」と気がつきましたね。

 要は「家では威張りん坊の父が、外では平身低頭である」ということを実の娘が知って どうしたこうした・・・という話。

 

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★ 向田邦子著『父の詫び状』本文を引用します ★ 

 

「祖母が亡くなったのは、戦争が激しくなるすぐ前のことだから、35年前だろうか。(中略)

通夜の晩、突然玄関のほうにざわめきが起った。

「社長がお見えになった」

という声がした。

祖母の棺のそばに坐っていた父が、客を蹴散らすように玄関へ飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。

それはお辞儀というより平伏と言った方がよかった。(中略)それにしても初めて見る父の姿であった。

物心ついた時から父は威張っていた。家族を怒鳴り自分の母親にも高声を立てる人であった。(中略)それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。

私は、父の暴君振りを嫌だなと思っていた。

母親には指輪一つ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッと糊の利いた白麻の背広で会社へ行くのか。(中略)

肝心の葬式の悲しみはどこかに消し飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。

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 実はわたしの父もこれに近い感じの人でした。母によると、新婚一日目に拳で殴られて顔が腫れあがったそうです。3年前に他界するまで63年間忘れることなく 、わたしに話すことが多かったです。

わたしの左手にも、悪いことをした制裁のための傷跡が残っています。

仕事から帰ると 職場の愚痴ばかり。夕飯の時 毎日毎日 父が愚痴話で怒っているのを聞かされるのが本当に嫌でした。

友達もいない、近所の人にも怒り散らす。

 

 なので~ むかし母に「お父さんが死んでも悲しまないかもね」と言ったことがあります。

母は笑っていましたが、今思えば 母はわたしに申し訳ないと思っていたかもしれませんね

 

 わたしは今、自宅に夫を残して95歳まで生きている父を実家で見守っていますが、ハッキリ言って父への感情はフクザツです  したいぐらいです。愛情というよりは、老いた姿を見て「親切にしたくなる感情」が出ている、という感覚かな? 老いた顔を見ると憎らしくなったり、優しくされた後に今では言動が丸くなった顔を見ると「憎めなく」なったりの繰り返しなのです。

見守ってくださっている近所の方々から「お父さん頑張ってるわね~」「お父さんのこと心配でしょ?」「大事にしてあげてね」「お良しちゃん偉いわ~」とか声をかけられますが、正直私は「はぁ?」という気持ちなのですけどネ

 病院に行くと、穏やかそうな息子さんが優しく母親の手を引いている光景など目にすることがあります。偉いなぁ、私は優しくないなぁっと、つくづく反省してしまいます( ´-ω-)

 

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 しかし、『父の詫び状』で実の娘が祖母の葬式で来客の社長に卑屈に頭を下げているように見えた、それがきっかけで父を許そうと思い始める、ということが私にも起こったのです。

 

 私が小学5年生から6年生の頃、家の周囲に居付いていた2匹のメス犬がいました。名前はシロとクロ。シロは賢く、クロはシロの子どもですが臆病な性格でした。

毎朝わたしと母がそれぞれ学校と仕事に行く時、1kmほど離れたバス停まで一緒についてきまして、私たちがバスに乗り込むのを見届けると またちゃんと帰える ということができる賢い犬たちでした。

夕方はまたバス停まで私を迎えに来てくれる母と一緒に犬たちも来ていて、私がバスを降りると道路の反対側から嬉しそうに吠えてジャンプして迎えてくれていました。

 

 実は父は動物に対しては優しいところがあって、エサなどは絶対に与えませんでしたが 心の中では可愛いと思っていたようでした。

 

 私が中学生になった時、いつだったか覚えていませんが、ある日学校から帰ると、 珍しく父が玄関に出てきて、慌ただしく言いました。

 

「シロとクロが保健所の車に乗せられて 連れていかれちゃったんだよ!シロはよ、庭にいる俺の所に逃げてきたんだよ、ほら、そこまで来てな。生んだ子どもが車にいるから戻っちゃってよ、かわいそうに」

というなり、目に涙をいっぱい溜めたのです。

わたしは父が泣いた姿を初めて見ました!

 思えば、父の生い立ちは決して幸せなものではなかった。「父の詫び状」の父親と同じく、私の父も父親を知りません。母親は再婚しましたが、継父は実の子どもではない私の父から、勉強の参考書を買いたいために働いて得たお金を お酒のために巻き上げるような人でした。実の母親は父が15歳の時に他界し、温かい家庭は無かったようです。現代の子ども・若者も不幸な境遇にある人も多いでしょう。父もそんな感じで、そして戦争にも行きました。引揚げ船に乗って、海外から軍人さんや現地で暮らしていた人々を迎えに行き、悲惨な状況も目の当たりにした経験があるようです。

 娘には到底わからないことがあるのでしょう! 娘のわたしも、父を理解しようとは思わないで育ったのですよね。

 

 わたしが成人してからも、父の性質は根本的には変わらないとうことがわかりましたが、今は「育ててくれた感謝」をもって生活しています。世間で言われている「毒親」ではなかったし、まともな家庭で育ててもらったと感じています。

 でも、つい声を荒げて接してしまうのは「私が父に似ているところもあって、それが憎いから」だと、はたと自覚する時があります。

 

 くやしいけれど、とどのつまり「親子」なのです

 

 でもでもやっぱり、「こうやって怒ってやるのは 母と私からの仕返しだ!」と、自分の行いを正当化する鬼の気持ちになることもしばしばなのです。 母が亡くなった直後は「父とこうして過ごすのは二度と無い貴重で幸福な時間」と思えたのに、私もう、疲れているのかも? 私が先にあの世に行っちゃったら洒落にならないよ~

 

 36歳も違えば話は合わないし、耳は聞こえづらいし、家事のやり方が違うから わたしは不潔に感じちゃって泡を吹いて気絶しそうになるし( たとえば、お皿を拭くふきんで、一緒に ゴミ受け三角コーナーやシンクを拭いてしまう。そしてそれを洗わないでふきん掛けに戻す。昔の人のやり方??? )。

本人ができることは奪わない、という方針でやってもらっていますが、私はイライラするばかりです。

コロナ禍で在宅になってから、わたしは「見なくて済むもの」が見えてしまって、それがイケナイのです。

 重い認知症もなく、自分のことはほぼ自分で出来ている父に、これ以上なにを期待するのでしょう

わかっちゃいるけど・・・

 

 いけないねぇ・・・・


これまでの人生で、一番 衝撃だったこと

2020年12月30日 14時19分38秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 2020年12月30日、ただ今の時間 午後2:22 このあと とっても寒くなっていくらしい「年の終わりの終わり」です。

 

 今年はすべての人が「新型コロナウィルス肺炎」で大変な苦労に見舞われました。私は自分の「来し方 行く末」を考えてみました。

 

 そこで今年の最終投稿では、これまで生きてきて、いろいろショックだった出来事の中での一番を書き記しておこうと思いました。

 

 ・ もちろん「東日本大震災での津波映像」とその後のかさ上げ工事の様子等も衝撃的なのは言うまでもありません ・

 

 自分の身に起きたことという意味で! では本題に入ります・・・・・・

 

 私が高校生の時でした。

朝の通学時 駅の階段を下りている最中、クラスメートのTちゃんが私に言いました。

 

「お良しちゃんのお父さんって、いくらボーナスもらってる?」

 

お良し 「33万円だったって

Tちゃん 「え うちは120万円だよ」

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

お良し、心の中で  「お父さん、あんなに一生懸命に働いているのに、そうなんだ。作業服も油で汚いし、眼は焼けるしケガもするのに。お母さんもパートしてるしな。そうなんだ・・・」

 

この後の学校までの道のりの記憶がまったくありません。呆然愕然、気もそぞろだったのでしょう。

 

 自分が他の子の4分の1のお給料の家庭で学校に行ってるんだということ、通わせてもらってるんだ と思い至りました。本当に本当に衝撃でした❗

参ったマイッタ

 

 でも、知ることができたのは感謝する出来事でした。

 

 このころ母は、私のお財布に50円玉を1枚、おこづかいに追加して時々 こっそり入れておいてくれてたのです。申し訳なかったなー

 

 私の家なんて充分マシなものでしょう。今の世の中も、そしてこれからも、「収入格差」はどんどん広がっていくと思われます。

 

 時々忘れちゃいますが、この時の一撃は一生忘れられないですね


忘れられない8月12日 同級生亡くした日航ジャンボ機墜落事故

2019年08月12日 21時47分36秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 1985年(昭和60年)8月12日 午後6時56分。

 

 

 あれから34年ですか……。

夜のニュースを見ていた私は、大阪行き 日航123便が行方不明 というニュース速報テロップと、すぐにそれに続いたアナウンサーによる放送に、恐怖で体が固まったことを今も憶えています。

 

「お母さん!ジャンボ機が行方不明だって。」

 

 

翌々日、友人から尋常でない様子で電話がかかってきて、一緒に学び 遊んだ同級生の事故死を知りました。

「僕がご実家へ行ってみるよ。とりあえず 連絡がついた何人かで、お母さんにお花を贈らないか?」

 

 キャンセル待ちで乗った飛行機で帰らぬひとになりました。

32分もの間 どんな気持ちでいたのかと思うと……あぁ、今でもショックで茫然としてしまいます。

私は元気なうちに一度は御巣鷹の尾根に登って お墓参りがしたいです!

 

 岡本くん!

 

みんなは忘れないで、なんとか一生懸命生きています!

ありがとうね!

 

 主人も高校時代の同級生を亡くしたそうです。

あまりにも多くの犠牲者。残った人々の心残り。


熱中症予防に気をとられていたら、思わぬ風邪をひきまして(*_*)

2018年08月02日 18時40分30秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 毎月1日(ついたち)には、神様に灯りをあげていた母。

 

 8月1日は、私が灯りをともしたと同時に、「亡き母へ捧げる感謝の意」として、こんなことを考えてみた ↓ 

 

 

 特に女性は「もうお誕生日なんて嬉しくないよ~」と口にしがちですねー。

お良しは、ちょいと辛かった長引いた病気が治ってからますます、「誕生日は親に感謝する日だ」と思うようになりました。

 

なのに なのに❗

 あ"~❗(*≧з≦)

最長不到距離? 38.9度のお熱~😱

 風邪です (@_@)ガーン

 

 喉が変だと思ってもトローチと水分でしのいでいましたが、いよいよ怪しくなって医者に行った翌日、つまりは誕生日に倒れました。

声がまったく出なくなり、ゴッホン ゴッホン‼️ 咳が辛くて、まるで 体力を奪っていく死神の姿を夢に見そうな長く辛い夜ですよー(ToT)

暑い中での発熱は辛いですぅ。布団に横たわっているのもメチャクチャ熱い♨️🔥ですぅ!

氷枕が瞬間沸騰です。

食欲はあるので、なんとか持ち直してきましたが、からだが べとべとなので 今日の夕方(8月2日)行水をして髪を洗ったら、頭痛がぶり返し!

 

 父のご飯をどーしよう…92才の父に移したらどーしよう…、そればっかり(>_<) 

 

 

 ※ 夜8時半 追記 ※

 

 高熱から解放され、まだ頭がぼーっとした中で、今夜の俳句番組でのお題「夏の太陽」に沿って作ってみた。 お良し作 ↓

 

 やっぱり「才能ナシ」(>_<)ですか?

番組を毎週見ていても句が浮かばないのですが、今夜は脳ミソが熱の後遺症で暴走してマス。

 

 そしてこれを思いついた直後、「こんなに顔の中に入ってたのか~ーー⁉️」!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!! というほど、大量の鼻水が出まして(汚くてごめんなさい>_<)、だいぶ気分がスッキリしました。

…ということは、俳句が浮かばない本来の自分に逆戻り!ということですね(笑)。

 

夏風邪にもお気をつけください。おやすみなさい😪


青空と緑にかこまれて・・・

2018年06月05日 08時12分54秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 入梅を控えた「三浦富士」183m。頂上に立つイチョウの木も、ふっくら青々しています🌳

雲の影がいくつも通りすぎて、山が暗くなったり、いろいろな色が重なりあったり、とにかく山塊が立体的に見えます

 

 昨日、アジサイの剪定をしました。緑に囲まれて あまりの風の清々しさに、頭のなかにある曲が浮かんできまして、おもわず口ずさんでしまいました。

 

 松任谷由実さんの「緑の町に舞い降りて」

 

 出てくる歌詞の中に「飛行機の影と雲の影 山裾駆け下りる」♪ というところがあります。まさに今の三浦半島三浦富士はそんな姿です(^-^) 正確には、雲の影は山腹を「駆け上がって」いますが❗ 山肌の色はパッチワークみたいですう 

 でも、あぁ~・・・もうこんなに爽やかな風に吹かれることもなくなるんだなぁ・・・

 

 三浦富士の一つ飛んで隣にある「武山(たけやま)」への道しるべである「前不動」様にも、初夏の花がお供えされる季節です(横須賀市野比の大作にて)

 

 梅の実の出回る季節ですが、こちらは「あんず」だそうです 鈴なりでして、道行く人たちは皆さん足を止めて見上げて「何の実なのかしらー⁉️」と驚いていますよー。

 

 松任谷由実さんの「緑の町に舞い降りて」は、お良しが大好きな岩手県の盛岡のことを歌った曲です。三浦半島には東北の大地のような「輝く五月の草原」はありませんが(広大な 輝く海はあるよ~)、三浦富士を見ていると季節を感じます🎵 

 お良し、小笠原とかに浮気しちゃったけど、やっぱり 盛岡が好きだなぁ…恋しいなぁ。緑の町に行ってこようかな?と思ってしまう 入梅前日の今日 ・・・いつも誰かがいてくれる 帰る所があるからこそ、旅に出る。

 

 

 


悲しみは あまりにも大きい・・・

2018年05月26日 20時51分54秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 西城秀樹『ブルースカイブルー』 ← ユーチューブ映像へ飛ぶ

 

 西城秀樹さんの突然の訃報に、とてもショックを受けました。「秀樹さんがこの世にいないんだ…」と、信じられない気持ちです。もう二度と会えないということが、とてもむなしいです。

 

 そして、ヒデキの葬儀で、盟友の 郷ひろみさんと 野口五郎さんが弔辞で語りかけていた言葉が、まさしくわが母への思いと同じで、とっても胸にしみました。

「こんなことになるとは思わなかったので、よけいに胸にぽっかり穴が開いた気持ちです」

「もうリハビリしなくていいんだよ。頑張らなくていいんだよ。お疲れさま。そして ありがとう!」

 

 母の死からまる2か月。今お良しは、突然の 母とのお別れを、「お母さんが一番幸せな最期を迎えられたんだから、これで良かったんだ」と思えるように、だんだんとゆっくり 自分の気持ちをもっていこうとしているところです。

 

 西城さんのご家族様も、きっといろいろな思いが・・・。時が過ぎていくのは過酷なことでもありますが、ご家族様、そしてたくさんのファンのみなさんの悲しみの心が、どうか癒えていきますように、心から祈っています。

 

 蛇足の話になるかもしれませんが、西城秀樹さんへの弔辞を聞いて、「人間だれにも貴重な人生がある」ことをあらためて思い知らされました。だから、何人(なんびと)も誰かを貶めたりしてはいけないし、誰でも 生まれてきた自分を大切にしないといけないと、つくづく思い返しました。

 

 青空よ 心を伝えてよ 悲しみは あまりにも大きい

 青空よ 遠い人に伝えて さよならと

 

 しかし・・・、遠い人ではなく、今は、私と共に ここにあります。

昨年11月に、東京巣鴨のお地蔵さまへの交通費をくれた茶封筒に書いてくれた「いつまでも お良しと一緒に生きたい」の言葉とともに。


40年という歳月

2015年11月22日 11時28分40秒 | 気持ち・考え 告白部屋

1975年から放送 - バラエティ番組『それは秘密です!!』(日本テレビ、毎週火曜日19時30分~20時00分)で 桂小金治さんが司会を担当。同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」で、桂小金治さんが、数十年ぶりに生き別れになった兄弟や親せきと、感動の体面をする人たちを見て、もらい泣きをしていましたが、その時はまだ10代だった私は、「40年も会わなかったんだ・・この姉妹は・・・」などと、漠然と、長い年月だ、ということはわかりましたが、その実、本当はわかっていませんだした。

上の写真は、今からちょうど40年前の、学校から歩いて行ける、三浦海岸への遠足で先生が撮ってくれた、クラスメートとの1枚です。誰がお良しだぁ  その時のことを よーく覚えています。風が強かったなぁ・・・ 「ああ、あれから40年たったのか・・・」と、実感としてわかるようになりました。ようやくです。

だから、北朝鮮に拉致された人たちの親・兄弟は、容易な思い出待っているんじゃないということも理解できました。横田めぐみさんの お父さん お母さん なんて、ほんとうに気の毒。子供がいない私には、本当の深い悲しみはわかっていないかもしれませんが・・・、お父さん、体調がすぐれないらしいから、早く解決してほしいです。

40年という歳月は、私にとって、長いようで短かった・・・ようで、いろんなことがあり、やっぱり長かったかなぁ・・・?

とにかく、未来ある 子供たち、若い人には、何があっても、良い人生を歩んでいってほしいと、つくづく思う、今日この頃です


20回目の結婚記念日

2015年05月03日 09時41分15秒 | 気持ち・考え 告白部屋

私たち二人、無事去る5月1日結婚20周年を迎えることが出来ました。周りの人からは、「祝えるっていいことよ」 と言われました。しっかし、よくもったなぁ・・・・私は前の結婚では3年半しかもたなかったんだけどなぁ 主人が我慢強いのか

 日を同じくして、お良しの両親も87歳と88歳で 結婚61年を迎えました すごーい 想像つかない年数です 20年だって、長いようで短かったようで、短いようで長かったようで、いろんなことがあったなぁ・・・なんて思うし、いろんな職場に転勤して、いろんなご飯を作って、不妊治療に月日を費やして、病気もして。両親はその3倍の長さをやってきたんだよ!ひぇ~ 母は、気難しかった父に結婚15日目に頬をひっぱたかれたことをいまだに根に持っています はははー

クリスマスなど、我が家では記念日には何かと恒例な コンビニケーキを(今回は京急ストアで302円)買ってくるのですが、今回も紅茶を入れて二人で夕食後にいただきました 山崎製パンのショートケーキ、クリームが おいちー 毎日でも結婚記念日でもいいや。

主人は 宝石とかブランド物のバッグとかは買ってくれません。「そんなのなんか欲しがる奴は 離婚だ。」 とまで言います・・。まぁ、私もそんなものには興味ないけどネ


また一つ自然が・・・

2014年10月10日 11時21分35秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 お良しの家の近くの緑に茂った緑地が宅地開発されたよ。

お良しの住んでる地域では農家が多く、数十年前この地にある高校に通っていた私は、農家を囲むように大木が何本も並んでいて、道を歩くと大木のトンネルみたいだったことを良く覚えています。

それがだんだん、アパート建設や一戸建て建設やらで減ってきて、もちろんお良しの家が建っているところも木が切られたのだから、文句は言えないけれど、緑が無くなっていくのは寂しいものです。

この現場は、大きな木が3本立っていて、まわりを小さな木や草やアロエやらいろいろ生えていまして、うっそうとしていました。

 

お気に入りのケヤキの樹もあって、春には新緑が本当に綺麗でした。「友達の樹」と密かに呼んでいました。宅地開発の看板が立った時、家のポストに「周辺住民の方には、希望者には説明会を開きます」という紙が入ったので、ダメもとでと、業者にメールで、一本のあのケヤキの樹は端っこにあるので伐らないでほしいと陳情しました。でも他人の家のこと、ダメでした。で、樹が切られたとき、小さな切り株を一つもらってきました。大切に保管しようと思っています。夏には暑さを避けるいい日陰だったんだけど、お願いして切り株をもらいに行ったところの住んでる人は、「春には芽吹きの時に油を含んだ分泌物が飛んできて壁が汚くなるし、秋は落葉で雨どいが詰まるしで大変だった」と、苦労を話していました。お良しのように呑気に新緑見物している気分じゃあないんですね。

2軒の新しい家が建つそうです。左側にも他の農家が所有する大きな大木道があるんだけど、もう高齢で、もしご主人が亡くなりでもしたら、息子さんは、宅地にしてしまうんだろうか・・・


歩道橋から見た景色

2014年07月15日 10時37分37秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 私は 歩道橋の上から見る景色が昔から好きです。目線が変わって、そして車の喧騒から少し間を置くことが出来るからかな

 上の写真は、横須賀市久里浜の郵便局横の歩道橋から 三浦方面を俯瞰した景色。緑の並木が道路とマッチして好きです。

 これは、横須賀市三春町の山崎小学校横の歩道橋から横須賀方面を見た所。開けた風景がなかなかいいと思いました。

 

 鎌倉市大船のフラワーセンター前の歩道橋

あと、写真はないけれど、横浜市金沢区の金沢市役所の前にある歩道橋もいいですよ 2025年現在 すでに撤去

 


実家のお向かいの猫

2013年08月28日 16時50分52秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 ながながと寝ているメス猫のぴーちゃん。人間に換算するともう100歳ぐらいなんだって 今は暑い夏 お日様をよけて、私の実家の玄関先のコンクリートの上で昼間は寝ています。ときどき、「うぎゃー」というがらがら声で鳴きます。おばあさんそのものです。若いころは触らせてもくれなかったぴーちゃんですが(うちの母にだけは慣れていた)、今はもう私が近づいても逃げません。もう身体がかったるいのかも・・・いつも実家の玄関先のバケツに汲んである水を飲みます。可愛いおばあちゃん猫です