
先日の嵐の夜、雷と雨がひどかった。偶然車に乗っていたので、雷を写真に撮ろうとしたが遂に果たせず。カメラに収まっている写真を見て驚いた。われわれの空はこんなにも電線に溢れていたのか、と。そこにあるものが、全く目に入っていなかった。今まで何も観てこなかったことがここにも現れている。同時に、眼の前にあるものが見る側の条件によって全く見えなくなるという知覚の不思議と恐ろしさも感じた。
仏版ブログでこのことに触れ、東京の景色は余り美的ではないと書いたところ、東京に来てまだ数週間というパリジャン Pierre さんからコメントが入った。この景色が美しい。混沌とした東京の景色の中にエネルギーを感じるというのだ。美をどこに見出すかによって評価は変わってくるのだろうが、こうも人によって評価が違うものかと驚いた。ただ、写真を撮り始めて1年、今まで気にも留めなかったものにも美しさが宿っていることに気付き始めているので、彼の言うことを頭から受け付けないという状態ではなくなっている。存在そのものが美しいという立場が理解できるところまで行っているのかもしれない。
そのやり取りはこちらから。
テレビのチャネルをひねり、偶然に流れていた映画に引き込まれる。ピカソの製作過程を追った記録映画だ。
Pablo Picasso (né à Malaga le 25 octobre 1881 - mort le 8 avril 1973 à Mougins)
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督 Réalisateur : Henri-Georges Clouzot
「ミステリアス ピカソ / 天才の秘密」 "Le Mystère Picasso" (1956年)
見始めた時は彼が時間を決めて何かを描かされている。どういう条件なのかわからない。裸で筆を持ち紙に向かっている。
その絵は、花かと思いきや魚かと思いきや鶏かと思いきや人の顔と思いきや猫の顔に見え、その外に人が現れる。遊び心たっぷりの彼の頭の中が垣間見えて、面白い。
無の空間が線によって区切られるとそこには予想もできない姿が現れる。不思議な雰囲気が醸し出される。次にどんな世界が現れるのか、スリリングである。フランス語でのやり取りも面白い。
映像と音楽。一つの形があり、そこにいろいろな筆遣いを加えては消し加えては消していく。その度に全く違ったイメージになる。一つの形が多様な、ほとんど無限と言ってもよいだろう印象を与えることができることを教えてくれる。一つの道はどこまでも深い。
外出しなければならず、ほんの20分ほどの触れ合いであった。
昨年暮れ、20代前半の若者が作る映画のオーディションに審査員を頼まれたことを書いた。その結果選ばれた人と今年の初めに最後のセッションを撮影するとのことで、現場まで招待された (今日の写真)。何と言うこともない路上で撮影しているところ見ている時、これで映画になるのだろうかと心配になった。
今回久しぶりに彼らに会ったところ、その作品をネットで見ることができるというので、早速完成作品を見てみた。撮影時にはどういう流れなのかもわからず、ピンと来なかったが、実際に見てみるとあの場面が映画ではこうなるのか、ということを発見して少し驚いた。出演者の高校生も実物で見ている時と画面の中では全く違って見える。確かに現実とは違う世界がそこに表現されている。
さらに、この映画が15分程の長さだと聞いた時には、正直短いな、という印象を持った。しかし、高校生の淡い、屈折しているが一途な恋愛感情を描いたこの作品を見ていると、自分の中にいろいろな感情や記憶が誘発される。物語はたわいのないものかもしれないが、何かが呼び起こされたことだけは間違いない。このように切り出された15分が、見ている側を揺さぶるに充分な長さであることに驚いていた。
作品 "Primrose" はこちらから見ることができます。
"Lune de fiel" という小説をロマン・ポランスキーが映画化した "Bitter Moon" (邦題「赤い航路」) を見る。映画の原題はフランス語の直訳だが、日本のタイトルはどうみても理解に苦しむ。
長期航海に出た結婚7年目のイギリス人夫婦とアメリカ人の夫とフランス人妻のカップルが繰り広げる大人の愛の心理劇とでもいうのだろうか。良識人には最初から受け付けない不快なところもあるだろうが、極端まで行ってしまうと崩れることもあるが不思議な繋がりが生まれる可能性もあるようだ。人間の結びつきについて考えさせられた。
アメリカ映画なのだが、ポランスキーの手に掛かるとヨーロッパの精神が表れるのだろう、少し複雑になる。しかし純ヨーロッパのものとは明らかに違って見える。二人が出会った96番のバス(モンパルナス Gare Montparnasse からポート・デ・リラ Porte des Lilas)などパリの生活を感じる景色が撮られているが、どうしても外国人が撮っているものに見えるのはどうしてだろうか。
ポランスキーの奥さんでもあるエマニュエル・セニエ Emmanuelle Seigner がいつもながら予測不能な野性味を出していてなかなかよい。
これまでの写真を撮っていたデジカメは10年以上前に仕入れたもので、その時の一つ前のモデルであった。普通のカメラと変わらない大きさで、後ろの画面もボタンを押さなければ見られない。普段はオフにしているので、写真を撮ってもらう時にはいつも、このカメラおかしいですよ、ということになる。
このカメラを持ち歩くのは大変なので、ポケットに入れることのできるものがほしくなった。何気ない日常で思いもかけないものが見られ、どうしても残しておきたいと思うことが増えてきたからだ。それで先日、一つ前のモデルを仕入れた。
新しいものを手にした時、説明書を読んでから使い始めるということが少なくなっている。面倒になってきているのだろう。まず使ってみて、それから説明書という順序が多い。私の人生にも似ている。まずやってみて、それから考えるという。vivre et ensuite raconter とでも言うのだろうか。
早速使ってみて驚いた。カメラのつもりで撮っていたのが、ボタンの位置が違ったのだろう。データをコンピュータに移して見ていたところ、画面が動き、しかも音が出てきた。ビデオとしての機能も備えているようだ。それに気づいた時には少し興奮していた。面白そうである。
花粉の時期は車で通勤する。それでも辛さは変わらないのだが、気分の問題だろう。途中に赤と白の横じまの高い煙突が見える。余り気にかけていなかったが、先日何気なく見てみると、快晴を背景にして煙がまーっすぐ上に伸びていた。何ものにも囚われることなく、ただただ天を目指しているかのようであった。力を入れることもなく、ごく自然に。その姿を発見し、そこを通り過ぎるまでの間景色を見ている時、不思議と気分が晴れ、和んだのを思い出す。朝の一瞬の小さな発見がその日を少しだけ明るくしたようだ。
先日の記事の写真が、アニェス・ヴァルダの映画 「幸福」 の一場面のようだというコメントをさなえ様からいただいたのを機会に、その映画を見てみた。
始まってすぐに池の周りの景色が出てくるが、確かに私の写真と雰囲気が非常に良く似ている。私のいた場所には人はほとんどいなかったが、この映画の池の周りには人が集っている。この映画の中心的な場所と言っても良いだろう。
この監督を始めてみたが、何気ない日常を静かに撮っている。画面の色彩と言い、それぞれの場面が一枚の写真のように撮られているところと言い、私の目には美しくみえた。さらに、音楽は W. A. MOZART。最初から素朴な演奏の Clarinet Quintet が流れ、画面をしっとりと包む。生誕250年の今年に相応しい出会いだ、などと考えていた。絵画のような映画であった。この監督をもう少し知りたくなっている。
一昨日に 「昼と夜」 について書いたので何気なくネットサーフをしていたら、"Le Jour et la nuit" という映画が作られていたことを知る。アラン・ドロン Alain Delon やローレン・バコール Lauren Bacall が出ている1997年の映画である。しかもその監督がベルナール・アンリ・レヴィ Bernard-Henri Lévy (BHL) (1948-) という人で、今週の LE POINT のアメリカについての特集に出てきている。
自らをアンドレ・マルロー Andre Malraux に重ねているらしい彼は、アメリカの雑誌 The Atlantic Monthly の依頼で、アメリカを9ヶ月に渡って旅して回る企て (le périple) をした。この1月にはその経験を "American Vertigo, Traveling America in the Footsteps of Tocqueville" (Random House) として発表し、その仏版が3月8日に発売された。丁度、1833年に Alexis de Tocqueville (1805–1859) がアメリカを旅し、その民主主義を観察して、"Du système parlementaire aux États-Unis et de son application en France" としてまとめたように。
今回のBHLの本を読む前に、書評やブログなどを調べてみた。アメリカ人から見ると、外国人がちょっとだけ来てアメリカの一部を見て批判的なことを書かれるのは耐えられないようだ。確かに外国人の利点はあらゆることが新鮮に見えることだが、それは逆にどうしてこんなことに注目するのかわからないという点を取り上げて論評することになる危険性も孕んでいる。さらにこの方、シャロン・ストーンやウォーレン・ビーティなど華やかな人との接触がお好きなようで、これでは本当のアメリカを見ることはできていないのではないか、Tocqueville の名前を出すのもおこがましいという反応である。
例えば、New York Times の書評 (by Garrison Keillor) は、かなり感情的になっている。とにかく、自分の国について論評されるのが気に障るという様子が溢れている。そして、「アメリカの状態は政治的にも社会的にも酷いのだが、このまま潰れることはないだろう、私は希望を持っている」 というBHLの言葉を受けて、こう結んでいる。おそらく、アメリカの平均的な反応ではないかとも思われるのだが、。
Thanks, pal. I don't imagine France collapsing anytime soon either. Thanks for coming. Don't let the door hit you on the way out. For your next book, tell us about those riots in France, the cars burning in the suburbs of Paris. What was that all about? Were fat people involved?
「ありがとう。私もフランスが直ちに崩れるとは想像していません。訪問ありがとう。お帰りは、静かにドアをお閉め下さい。あなたの次の本ではパリ郊外で車が焼かれたあのフランスの暴動について書いてください。あれは一体何だったんですか。肥満の人が関わっていたのですか。」(最後は、この本の中でアメリカの特徴を示すとして使われた "hyperobesity" という言葉に対するもの)
この反応の仕方を見て、以前ソルジェニーツィンがアメリカに亡命して少し経ったところでテレビに出て、アメリカ文化の軽薄さや底の浅さを痛烈に批判した時のことを思い出した。その後にアメリカの文化人のコメントが流れていた。具体的な発言内容は今思い出せないが、総じて言えば、彼は偉大な作家かもしれないが、ホテルに住んでテレビだけが情報源だとこの程度のアメリカ認識にしかなられないという軽い怒りと落胆と同情が綯い交ぜになったような反応であった。一般の人の反応はもう少し厳しいものであったはずである。
ところでこのBHLという方、"Le Siecle de Sartre" 「サルトルの世紀」 も著している。ひょんなところから目の前に開けた繋がりである。
最新の LE POINT でトルーマン・カポーティ Truman Capote (1924–1984) についての映画 "Truman Capote" (version française) が昨日8日からフランスで公開されたことを知る (日本上陸は今秋のようです)。見ると2005年製作で、主演のフィリップ・シーモア・ホフマン Philip Seymour Hoffman がオスカーを獲ったばかりだという。如何に最近アメリカに疎くなっているかがわかる。
カポーティと言えば、"Breakfast at Tiffany's (Petit-déjeuner chez Tiffany)" や "In Cold Blood (De sang-froid)" で有名なアメリカ人作家。
この記事にあった彼についての描写。
causeur brillantissime (最高に才気に溢れた語り手)
bonhomme très petit (非常に小さい男、おちびさん)
homosexuel flamboyant, affligé d'une voix de bébé (赤ん坊の声をした派手な同性愛者)
Doué d'une prodigieuse mémoire, il ne prend jamais de notes. (天才的な記憶力の持ち主で、メモを一切取らない)
「冷血」のような世界の注目を集めた力作を仕上げてしまうと、その後が大変になるのは容易に想像がつく。
"Ce livre m'a ratiboisé jusqu'à la moelle des os"
(この本によって、私は骨の髄まですっかり抜き取られてしまった)
カポーティとのつながりを思い返してみる。アメリカにいる時に一度ならずテレビで見たことがある。例のつばの広い帽子をかぶってソファに深々と腰をおろし、対談に臨んでいた。型にはまらず、自ら楽しむような、飛び散るような話し方をする人で、印象に残る存在であった。その印象から言うと、この記事にある最初の3つの特徴は言い得て妙である。また彼の作品を読もうとしたことがある。学生時代にペーパーバックスになった "In Cold Blood" を買ったが、最後まで辿り着かなかった。またアメリカにいる時には "Music for Chameleons" という短編集を読み始めたが同様の結果に終わった。
"Music for Chameleons"
"Musique pour caméléons"
この映画を機会に、カメレオンの方をもう一度読み返してみたくなっている。昨日からその本を探しているが、まだ現れてくれない。
もう3月である。時間は流れている。われわれを気に掛ける気配はまったくない。先日、さなえ様から映画についてお話を、とのコメント・TBをいただいた。今日は、「映画」 と聞いて思い出されることについて書いてみたい。
映画と言えばまず思い出すことがある。子供の頃、何歳だったか今ははっきりしないが小学校に入る前だったような気もする。ディズニーの「ダンポ」を見に連れて行ってもらった。その時はおそらく2回目だったのだろう。筋書きを知っているので横にいた弟か誰かにこの次に何が出てくるのかを得意げに話していた。その時、静かにしろ、という声が聞こえた。その時の戸惑い、気まずさ。
中学、高校時代はハリウッド映画である。特に予告編で聞こえる語りの深い声に痺れていた。大学時代は授業をサボって怪しげなものも見に行った記憶がある。その中にベッドからすっくと起き上がる柄本明もいたが、今や素晴らしい役者になっている。存在感あるその姿を見る時、いつも彼との最初の出会いが思い出され、思わずにやりとする。それからやけに興奮して見たものに、大島渚の「日本春歌考」がある。筋はまったく覚えていない。
ボストン時代に鮮明に覚えている映画がある。ボストン郊外まで車を飛ばし偶然見つけた映画館で見たジェームズボンド映画 "The Spy Who Loved Me"。海の中で繰り広げられる活劇だったが、覚えているのはその内容ではない。始まってすぐに聞こえてきたカーリー・サイモン Carly Simon が歌う主題歌、Nobody Does It Better。この曲を聞いた途端に完全に捉えられてしまった。突然襲われた感じである。それを聞いた時に、体が、精神が完全に解放されて天にも上る気持ちになったのだ。あるいは海の中をゆっくりたゆたっているような気分に。
それからカーリーの歌をかためて聞いた記憶がある。ついでに彼女の連れ合いでもあった、力なく歌うジェームズ・テーラー James Taylor の音楽も一緒に。ボストンでの経験を再現すべく何度か試してみたが、その感覚を蘇らせることはできなかった。現在を完全に断ち切らないと難しいのだろうか。一人で広いところを歩きながら自分の中を過去に完全に置き変えて聞いてみると、ひょっとするとその感覚が蘇ってくるのかもしれない。
ニューヨーク時代には、当時お付き合いしていた女性と最初に見に行った映画が "Altered States"。不思議な映画だった。と同時に、終わった後雪の舞い落ちる二番街だったか、ゆっくり歩きながら感想を話し合っている時、それまでの鬱屈した気分が晴れていったのを思い出す。また三番街の映画館で見た "Arthur"。Dudley Moore, Liza Minnelli, John Gielgud などが出ていて、いい映画だったと思った記憶があるのだが、内容は思い出せない。そして今でも口を付いて出てくるのがクリストファー・クロス Cristopher Cross が気持ちよさそうに歌っていたテーマ、"Best That You Can Do"。最高によかった。月とニューヨークの間に捕まったら何をする? 一番いいのは恋をすること。
When you get caught between the moon and Nw York City
I know it's crazy but it's true
If you get caught between the moon and New York City
The best that you can do
The best that you can do is fall in love
こんな設問を大の大人がするのがアメリカ。発想が大胆で自由でなかなかよい。
話は飛ぶが、アメリカには変に枠に囚われないで考えられる人が多いということを感じていた。何かに囚われながら日本で生活していた私は、それを感じる度に嬉しくなったことを思い出す。人間の可能性を感じたからだろう。そんなに枠をはめる必要はないのだよ、と自分に言い聞かせることができたからだ。今でもその感触が得られると嬉しくなる。その人間が好きになる傾向がある。
今回、アメリカにいる時にもヨーロッパ産の映画を結構見ていたこと、そして見終わった後、味わったことのない疲労感が常に残ったことも思い出した。それが最近ではフランス映画に凝っている。人間の嗜好などいつどのようなことで変わるのかわからない。今のところ、特に印象に残っているのは、フランスに触れ始めた当初に見たジャン・クロード・ブリッソー Jean-Claude Brisseau の作品群。こちらは音楽よりはそのお話と映像。本当に不思議な世界に迷い込んでしまったと思ったものだ。そしてその世界に慣れるのに1年以上かかったのではないだろうか。今ではハリウッド映画を見ようという気さえ起こってこない。
他にも私の中に埋もれている映画は山ほどあるのだろう。今日のところはこんなところである。違う時間と場所に身を置くと別の思いもかけない映画が呼び醒まされて出てくるはずだ。また年齢とともに感じるものが変わってくる。エージングのよい点は、それを味わうことができることなのかもしれない。人間にはそれだけ多種多様なものを受け入れる受け皿が揃えられているとすれば、以前にも触れたが、そのお皿をできるだけ使っておきたいものである。
いずれにせよ、今回さなえ様のお誘いに乗って脳の中に少し探りを入れてみたら、これだけ出てきた。面白い機会を与えていただき感謝したい。
今朝、NHK-ETVでサルバドール・ダリ (1904-1989) の特集を見る。ダリに対する見方を変えた数年前のダリの町フィゲラスの訪問を思い出しながら。これまでの蓄積が静かに滲み出る、想像が自由に羽ばたいているような、そしていまだに美しさ・若さを失わないゲスト岸恵子の話を聞きながら、ダリの人生をもう一度味わっていた。
スペイン訪問時に仕入れた彼の対談集を読み直す。この本も彼の印象を変えるのに役に立った一つ。
Entretiens avec Salvador Dali (Alain Bosquet)
Virtual Dali
先日、パブロ・ネルーダのお話から 「イル・ポスティーノ」 という映画で彼が描かれているということを知り、最近届いた DVD を見てみた。
始まって早々にアコーディオン?に乗って哀愁の篭った音楽が静かに流れる。画面の色とともに心に染み入り、すぐに引き込まれる。昔ながらの港町に老齢の漁師の父親とその仕事に疑問を持っている息子マリオが暮らしている。漁師がいやならアメリカや日本に行って仕事をしてみろと親父に言われたりしている。そこに祖国チリを追われた詩人パブロ・ネルーダ夫妻が来る。彼が人民の詩人で女性に絶大の人気を誇っていた人だとは知らなかった。
マリオはネルーダのための郵便配達人に応募しその職を得る。配達をしてネルーダと触れるうちにマリオは詩あるいは言葉の力に興味を持つようになる。詩集を読むようになる。比喩と隠喩、メタファー("メターフォレ"?"メタフォーレ"?)についてネルーダと話すようになる。ネルーダは、詩は説明するのではなく、その中に入って感じるものだ、というようなことも話す。そのうちマリオは詩の虜になる。
ネルーダは景色を詩で描写する、詩で会話する。そこでメタファーが大きな役割を演じる。力強い。詩の力を感じる。
マリオは街の店で出会った女に一目惚れ。恋の病をネルーダに相談する。恋する男のどうしようもない情けなさが自然に滲み出ていて、他人事として見ていると滑稽でもあるが共感するところ大。その彼女ベアトリーチェと詩で愛を語るようになる。マリオを全く買っていない母親と彼女やネルーダとの会話が非常によい。彼女は結局結婚し子供を授かる。そしてネルーダがチリに帰ってから再びこの街に戻ってくるところも心に沁みる。
主人公のマリオの声に力がない。役作りなのか、本人の病気のせいなのか(この映画完成後に亡くなったという)。ところどころに覗く海と空など背景が美しい。届くかどうかわからないものに愛情を込める。大きな声を出すことはないが、しっとりと心を満たしてくれる。素晴らしい映画であった。紹介していただいた方々に感謝したい。
この後、
La rose détachée et autres poèmes:ネルーダの詩集
J'avoue que j'ai vécu:回想録
La solitude lumineuse:外交官としてアジア(コロンボ、シンガポール、バタビアなど)に滞在していた時の印象記
を注文していた。
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数ヶ月前からこのようなメッセージを掲げるアクセスがあるのに気付いた。以前には見逃していたものだ。しかしそれ以来、このコメントの入った写真や絵など、他から持ってきた映像をできるだけ自分のものに置き換えた。
それでもこのメッセージが届いているので調べてみると、対象となっている映像は自分が撮った写真であることが判明。確かに自分の著作権も保護されてしかるべきなのだろう。それにしてもどのような基準でこれをチェックしているのだろうか。知りたくなってくる。
今日は午後から出かける予定でいた。丁度出かけようとするその時にテレビで高倉健の「鉄道員(ぽっぽや)」 が流れていて、ついつい引き込まれてしまった。
高倉健については思い出すことがある。もう20年以上前になるだろうか。ニューヨークを訪れた高倉健が日本人向けのテレビ番組に出て、インタビューを受けていた。しかし彼は恥ずかしそうにして、ほとんど言葉を発しないのである。それがわざとらしくも感じ、こちらの中身が言葉で説明しようとする世界にどっぷりと浸かっていたためだろうか、それでは通用しませんよ、というのがその時の印象であった。それ以来、彼は興味の対象から外れていた。
今日 「鉄道員」 を見ていて、日本的な (と言えるかどうか) 言葉の外にあるとされるものを表現しようとした時には、彼のような人でなければならないのではないか、と感じた。存在感があるのだ。死んだ娘 (広末涼子) が現れるシーンなど、なかなかよかった。この映画を見ていて、彼に対する違和感が薄れてきているのを感じた。それどころか、この役はおそらく彼でなければならなかっただろうとさえ思っていた。彼が変わったとは思えないので、受け止める側の私の中の何かが少しずつ変容してきたということだろうか。
折しも、中国のチャン・イーモウ監督による新作 「単騎、千里を走る」 のプロモーションも流れていて、彼も出ているという。日本と中国を結ぶ人間愛の物語を目指しているその映画のプロモーションを見ていて、私の印象は間違っていないという思いを強くした。言葉だけを信じている人では成し得ないような交流ができたようだ。
雲南省の人々 (出演はすべて素人とのこと) との仕事を通して彼が発した言葉 「これまでの芝居って何だったんですかね」、中国での仕事を振り返っての 「旅に出なければこれだけの人に会うことはできないんですね」 という言葉が印象に残っている。彼の世界が確実に広がり、それをありがたく感じている様子が伝わってきた。