作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 サーカスの綱渡りを見る思い 】

2007-03-27 17:35:28 | 04 時事ニュース


カナダ製の航空機、ボンバルディアが
今度は松山~大阪間で油圧モーターに
異常が出たとの報道。

今回も無事に着地はしているが、
機長以下のクルーのストレスも大変だろうし、
乗客だって、毎回ヒヤヒヤもんだろう。

YS11の改良国産機の開発を、
何故に怠ったんだろう。
短距離間の国内輸送便の需要増は
充分予測できていたと思うのだが。

この前に事故が報じられた天草航空などは、
毎日12回の発着陸を連日繰り返していたとか。

点検にもっと時間を割いてくれよ。

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【 遅すぎた三洋電機 】

2007-03-27 17:33:03 | 04 時事ニュース


三洋電機が、今頃になって漸く一族支配
を諦めた。

野中ともよなんて、電機も経営も分かるわけない
看板をかけて、その影に親子で最高顧問と社長に
とどまり、隠し通せると思ったのが、そもそもの
間違いもいいところ。

一族辞任は当然で、途中でヘンな人事を
やった分だけマイナス。末路は見えた。

この会社、なんとなく豊臣家の末路を
連想させる。お局さんが出てきたあたりが
そっくりだ。

もっと早く、真田幸村や後藤又兵衛などの
人材に会社運営を託しておけばよかった。

私事ながら、大学3年ごろから、執拗な
入社勧告を受けていた。高校教師から
果ては地元出身の代議士まで動員して。

松下孝之助の奥さんが、井植家の出で、
その弟が淡路島から大阪へ出て松下を手伝い、
戦後独立したのが三洋電機。

何が悲しくて、そんな同族企業に入社せな
あかんのか。アホらしゅうて、ニベもなく
断った。

あの判断は正しかった。

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【 幼き日々のこと (9) 完 】

2007-03-26 12:34:00 | 12 幼き日々のこと


2年生になった。平安国民学校に行ったのは1学期
だけで、夏休みの間に、父の転勤に伴い新京に移動
して、学校も桜木国民学校へと転校になった。

転校先には楽しい事が何もなく、お定まりの転校生
イジメにも合い、ロクな想い出が無い。

たった1学期だけの平安での2年生の想い出が多い
のは担任の先生の印象が強く残っているからだ。
得本先生という、まだ女学生みたいな、事実その年
に先生に成り立ての若い先生だった。55年も経った
今でも、先生を囲む同期の会があることで、如何に
先生の存在が大きかったが分かるというもの。

大連(ボクが生まれた町だ)海辺に、星ヶ浦という
綺麗な海岸があって、そこで拾ったと、たくさんの
貝殻を見せて頂いた事がある。その中に桜貝が
あった。「桜貝の歌」を耳にする度に、得本先生の
ことを思い出していた。

ある日、先生に耳打ちされて、放課後クラスに残され
た。ドキドキしていた。何で叱られるんだろう。いっ
たん職員室に引き上げられた先生が、同期入校の、
同じく若い女先生とクラスに戻って来られた。二人の
若い先生は、まるで女学生に戻ったみたいにキャッ
キャと騒ぎ、箱からケーキを取り出して、その一つ
をボクに下さった。それがボクが居残りさせれた理由
だった。

一度だけ級友数名と共に、先生のご自宅をお邪魔し
たことがある。お母様が居られ、もてなしを受けた。
中にダイズをふやかして、それにコロモをつけて
天麩羅みたいに揚げた一品があり、ボクには初めて
の、その食べ物がやたらと美味しかった。

1学期だけだったが、平安国民学校は懐かしい学校
で、その点、新京の桜木国民学校には、これという
強い印象が残っていない。

2年生の思いでも3年生の思いでも、殆ど残っていな
い。友達も出来ず、こんどの家にもあった、応接間
に篭る日々だった。

戦局が不利になっていき、内地での食糧難が伝えら
れた。満州には物資が豊富だったが、校長が朝礼で
「内地では麦飯を食べている。我々も見習うべきだ」
と言った。

だけど満州には麦がなく、代わりにダイズをコメに
混ぜて食べることが奨励された。元々えんどう飯が
好きだったから塩味の利いたダイズご飯は、一向に
苦にはならなかった。

母はもう一人の子を産んだ。妹だった。ボクは4年生
だったと思う。その妹も生後一年にも充たずに亡く
なった。母はすごく落ち込んだ。父に向って何度も
「すみません」と謝っていたが、ボクにはなぜ母が
謝らねばならんのか理解できなかった。それが母の
最期の子だったが、6人を産み4人を夭折させた
母は辛かっただろうと思う。

ボクの記憶の中で、満州時代に父がボクに見せた
笑顔を知らない。「華麗なる一族」の中で万俵家の
長男鉄平に、父大介が冷たい。本当に自分の子かと
怪しんでいる。それに極似したことがボクにもあっ
た。父は本当はB型だったが、戦時中のいい加減な
検査で、自らAB型と信じ込んでいた。
ボクはO型で、後にAB型の父親からO型の子供は
生まれないことを知り、謎が解けた思いと共に、
更なる複雑な思いに悩まされた。

こんな事もあった上に、終戦の年の5月、父にも赤紙
が来る。母は満州赤十字で受けた手術が失敗し、
その夜亡くなる。看取ったのは5年生のボクだけ。
それが8月1日で、9日にはソ連軍が攻め込んで
来た。弟と二人で北朝鮮に逃げる列車に乗せられ
る。ボクの判断で奉天で強行下車、それで助かった。

年末、父は早くも再婚する。相手には母親が付いて
おり、可愛くないボクは、この二人に徹底的にイジメ
られた。父はまったくボクに手を差し伸べることは
無かった。普通なら考えられない早すぎる再婚。それ
が祟って、引揚げ後も父は元の会社に復帰できず、
一家は極貧生活を強いられた。家の周りは田んぼだ
らけなのに、我が家にはコメが無かった。

ボクの生活は満州時代と一変し、編み上げの革靴
だった身分が手製の藁草履に代った。

書き漏らしたことも多々あるでしょうが、記憶を
呼びさまし我が幼少の日々を書き記した。これで
我が生涯の殆どがブログに書き残されることになり
ました。有難うございます。

                          パパゲーノ



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【 幼き日々のこと (8) 】

2007-03-26 11:57:42 | 12 幼き日々のこと


歴史を一年繰り上げることにする。

当時日本が使っていた皇紀2600年の祝典で
沸いた年である。昭和なら15年だ。

ボクはまだ国民学校に行っていない。ドイツの
フォルクスシューレをそのまま直訳した国民学校
という名前も知らず、近所の家から貰った小学校
一年生の教科書で、懸命に勉強していた。
弟もまだ生まれちゃいない。

父がバンコックへの転勤の内示を受け、一家は南
の国への思いをはせながら荷物の片付けに着手
していた。

ボクは幼年倶楽部で山田長政の活躍した国として
タイ、往年のシャムに行くことを楽しみにしていた。
あのまま、父がバンコックに転勤していたら、ボク
の家の運命は大きく変わった。

父が急遽徴兵される事態も起きなかったろうし、
母が不急の手術を受けて、その失敗で急逝すること
もなかった。
4才児で病弱な弟を連れての、奉天への逃避行も
なく、親なしの身での難民生活もなかった。
タイは二次大戦を通じて、親日政策を変えることの
なかった友好国家で、アジアで日本と共に僅か
二ヶ国しかなかった独立国家の一つであったから、
日本の敗戦で、難民として追い返される不幸にも
逢わずに済んだだろう。
一家は見知らぬ淡路島じゃなく、ある程度まで復興
した大阪に帰ったはずである。

満州国政府が発した一通の辞令が、すべての運命を
変えてしまった。不幸な転換だった。

商工大臣だった岸信介の指示により、在満州の商社
が統合されて、満州繊維公社が発足し、父にはその
奉天支社長に任ずる辞令が下りたのだった。準備中
の荷物は、またほどく破目になった。ボクはまだ見ぬ
タイ国に憧れて居り、大きく落胆した。そのころは
すでに少年倶楽部を読んでいたと思うのだが、掲載
する小説に、南洋一郎という作家の「アジアの曙」
があって、南洋に活路を見出そうとする日本の進路
をボクも持っていたから。

隣近所の同業商社マンの多くが、公社への一種の
徴用を免れ、後に名社長となる伊藤忠の越後正一
さんをはじめ、東洋棉花で後に専務クラスになる
人々、森山、森本、戸田さんたちも、出身会社に
戻った。

そして年が変わり、ボクは国民学校一年生となり、
金のボタンだ帽章だ、と歌の文句の通りの制服姿で
登校をはじめた。その4月、弟が生まれるのだ。

日米開戦の日の興奮を覚えている。ハワイ奇襲作戦
の成功に続き、マニラ陥落、香港陥落、シンガポール
陥落と旗行列や提灯行列が次々と行われた。

開戦が12月8日だから、これらのことに記憶がある
のは、ジフテリヤによる病欠は夏から秋にかけての
ことで、12月にはもう退院していたんだろう。

前にも書いたが、運動会も学芸会も記憶が無いの
に、遠足の記憶がある。あれは入学間もなしに春の
遠足があったのだと思う。

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【 幼き日々のこと (7) 】

2007-03-25 18:56:58 | 12 幼き日々のこと


この弟で母は5人目の子供を産んだことになる。
当時はどこの家でも子沢山だったし、満州は内地
と比べ大陸性の気候で、子供が育ちにくい事情
があったとはいえ、ボク自身を入れて、6年間に
5人の子供を産み、それいずれもが病弱児で、
3人を死なせた。5番目に生まれた弟がこれまた
生まれながらの病弱児で、母は自らの死を迎える
まで、この弟の看病に付ききりとなり、入退院を
繰り返し、だからボクは母の愛情をあまり知らず
に育った。

父はといえば、当時は近所に同業の商社マンが
多く住んでいて、まるで回り持ちみたいに宴会
だの麻雀だのが盛んだった。日曜・祝日となると
ゴルフに出かける。清朝代々の皇帝を祀った陵が
行楽地になっていて、東陵とか北陵とかがあり、
そのどちらか、或いは両方にゴルフ場があった。

女中さん(当時はお手伝いさんという言葉がない)
が居たから、ボクは専らその世話になった。

そんな事情ながら、多少は母の味を覚えている。
想い出にある食べ物の最たるものは、鮭缶の身を
ほぐして食パンにはさみ、それを油で揚げたモノ。
これは大阪の天麩羅屋「与太呂」に行けば、海老
のすり身で同じようなモノが食べられる。察する
に娘時代の母が祖父に連れられて「与太呂」に
行き、それを真似たんだろう。

牛肉の脂身の無いところを、薄切りにして、よく
焼き、ウスターソースをかけて食べるのが、子供
時代から肉嫌いのボクの好物だった。

同じく牛肉の脂身の少ない部分とジャガ芋を、甘
辛く煮付けた一品は、あれは肉ジャガだったのか。
同じく喜んで食べた。思うにボクの肉の脂嫌いは
母譲りだったのかも知れない。

カレーライスもチキンライスも、母の手作りは美味
かった。母が作るチキンライスの鶏肉はささ身の
部分だけだった。ボクの鶏肉嫌いは、皮やヘンな
物が混じっているからです。

蒸しパンとホットケーキも、よく作ってもらった。

父はというと、すき焼きが最高のご馳走と思い込ん
でいたフシがあり、何かというとすき焼きをやら
せた。ボクは最初に鍋に油分をなじませる牛の脂身
そのものが、見るのも嫌、匂いも嫌で、生卵に付け
て食べるのがまた嫌でたまらなかった。

満鉄沿線の主要駅がある地には、満鉄の経営する
近代的なホテル、ヤマトホテルがあり、我が家では
何か家族の記念日が来ると、そこのグリルで本格的
な西洋料理を食べる習慣があった。子供もナイフと
フォークを礼儀正しく使わねばならない。食事内容
は何も覚えていない。デザートに出る三色のアイス
クリームの味が忘れられない。大人になってから、
ヨーロッパ各地でも、いろいろアイスクリームを
食べる機会があったが、ヤマトホテルのグリルで出た
モノに匹敵するのに出会わずじまいで今日に至る。

店屋物は一切取るな。それが父の方針だったよう
で、父が長期の出張に出かけると、入学前のボクは
何度か母の友人宅に連れて行かれた。
お昼になると、何か注文してくれる。初めてザル蕎麦
が運ばれてきたのを見て、ボクはその一箱の大きさ
を横から眺めてビックリし、いざ食べてすぐ下に
すのこが姿を現し、上げ底もヒド過ぎると立腹した。

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【 幼き日々のこと (6) 】

2007-03-25 13:50:53 | 12 幼き日々のこと


幼稚園には行かせてもらえなかった代わりに、
子供用に発行されていた小学生新聞を購読して
いて、難しい漢字にはフリガナがあったから、
結構早い段階で字を覚え、幼年倶楽部も毎月
買ってもらっていた。

読んでいて分からないことが多かった。
笹舟を作って小川に浮かべるとあるが、笹が無い
から、どんな物なのか想像がつかない。

七夕に柳の枝を切ってきて、そこに短冊を吊るす
とあるが、満州には柳の木が無い。柳とは似ても
似つかぬドロヤナギという樹木があるが、太く
ゴツイ木で、到底短冊なんか吊るせるとは思え
ないのです。

囲炉裏も分からんし、サクラも無かったんじゃ。
ウサギを追う山も無ければ、小鮒を釣る小川も
無い。

幼年倶楽部、後に少年倶楽部に昇格したが、裏
表紙に値段が書いてあり、内地は幾ら、満州・
朝鮮・台湾・樺太・千島は幾らと、別価格が記載
されていた。嫌でもボク等は内地の外、植民地に
居るんだと思わされた。

漫画の人気は高く、中でも「のらくろ」「冒険ダン吉」
が大人気だった。他に「タンクタンクロー」とか
「小熊のコロスケ」などもあったと記憶する。

父は漫画は低俗と決め付け、一切の漫画本の購入
を許さなかった。だから幼年倶楽部・少年倶楽部に
掲載されていた漫画しか知らない。

やがてボクも小学校入学の年来に達し、平安小学校
に入学する。ドイツとの同盟の影響か、この年から
小学校の名を国民学校に変える。だから正式には
国民学校生徒になったのです。

前年まで「読本」の第1ページは、サイタ サイタ
サクラ ガ サイタだったのに、アカイ アカイ
アサヒ ガ アカイに変った。

♪国民学校、一年生という歌があり、
♪我等在満小学生という歌も教えられた。

一年生の受け持ちは鈴木先生という男の先生だっ
た。だけど一年生の記憶が殆ど無い。何時の発症
かは知らぬがジフテリヤに罹って、隔離病棟に入れ
られたのです。運動会も学芸会も全く覚えていない。
これは不幸なことです。

ボクは赤ん坊のときにしょう紅熱に罹っている。
だから二度目の法定伝染病で、助からないと皆が
思ったらしい。それまで読みたくても読めなかった
漫画が多数差し入れられた。ボクは大喜びしたが、
無事退院となったときに、すべて焼却されてしまい
ました。

なお、一年生になった4月に弟が生まれています。

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【 幼き日々のこと (5) 】

2007-03-25 13:50:11 | 12 幼き日々のこと


モノゴコロがついた頃、我が家の周辺には戸建
住宅しかなく、少し年令が上がってからアパート
という住宅形式があることを知った。

満鉄(正式名は南満州鉄道)の社宅が多く、ボク
が知る限りでは、その全てがアパート形式、今の
住宅公団のスタイルだった。

戸建住宅の庭には、決まったようにユスラウメの
木がニ・三本植えられていて、それに実る赤い実
が手軽なオヤツになった。サンザシを植えている
家は少なかった。子供達がニ・三人でその家のベル
を押し、出てきた人に「おばちゃん、サンザシ頂戴」
とねだると、たいていの家ではサンザシの実を取ら
せてくれた。

ライラックも殆どの家にあった。この花には蜜が
多く、子供達は花を摘んでは蜜を吸った。リラと
いう別名があることは、後に知ったこと。

満州の家は冬も暖かく快適だった。各戸にボイラー
室があり、石炭を備えている。何軒かで一人の
ボイラーマンを雇い、全室に熱湯が通るパイプを
巡らしているのだった。ボイラーマンは満州人
だった。

市内の乗り物は馬車(マーチョ)と洋車(ヤンチョ)
があった。ヤンチョは人力車だった。満州国の通貨
は円で、補助通貨としての銭の単位でたいていの
ことが足りていたようである。ヤンチョに乗るとき
には値決めをする。五十銭のことをウーモーチェン
と言った。なぜウーシーチェンじゃなかったんだろう。

満州人は漢民族とは異なる、完全な異民族である。
咽喉の骨格から違うから、中国の標準語である北京
官話の発音が出来ない。日本人には発音しやすい
音だった。片言の日常語の多くをヤンチョとマーチョ
に乗ることで覚えた。

日本人の住区にはあまり満州人を見かけなかった。
奉天は清の古都だから、昔の城の中に満州人の
住区があるようだった。それを城内と呼んでいた。
場外に新しく建設した部分に多くの日本人が住み、
自ずと住み分けが出来ていたんだと思う。

荷車を引いて野菜などを売りに来たり、露店を出して
マクワ瓜などを商う満州人は多く居た。殆どの母親
がマクワ瓜の買い食いを、固く禁じていた。赤痢の
原因となると信じられていたのである。

まだ2才児のヨチヨチ歩きのころ、荷車の中にバナナ
があることを見つけたボクが、喜んで一本をもぎ取り
ニコニコと荷車商人に手を振りながら持ち去った一件
は以前に書いたこと。そのときのボクには悪意は全く
無い。金銭という存在を知らず、物売りが来たら好き
な物を選んで取る。それが「買う」という行為だと
思っていたのです。

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【 グーグル検索は楽しい 】

2007-03-25 13:48:27 | 02 華麗な生活


グーグル検索のNHK番組を見て以来、
休みになると、自分の記事の位置確認をして
楽しんでいます。

連載小説の分母(トータル)が毎日のように
変ります。ときどきふるい落として分母も
小さくなります。

今朝は分母が208万。
ボクの連載小説は38位に落ちました。
つい先週は18位だったのに。

他の記事では何拾万、何百万の中で
トップになることが多い。

面白い遊びを覚えました。

 

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【 7分間のギシギシ 】

2007-03-25 10:14:04 | 02 華麗な生活


今朝9時42分頃に起きた北陸での地震。

神戸六甲アイランドの超高層も揺れて

ざっと7分間、壁がギシギシ鳴りました。

たぶんこの辺りの震度は2ぐらい。

それでも7分揺れます。

12年前の本番では、エンドレスと思った。

無理もなかったと、改めて思います。

皆さんに影響がなかったことをお祈りします。

 

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【 アツクお詫びします 】

2007-03-25 10:11:33 | 04 時事ニュース


北陸電力のエライさんの謝罪の言葉。

アツクは篤くだろうが、

「篤く御礼申し上げます」なら分かるが、

「篤く深くお詫びします」なんて言うか?

言わへんやろうなぁ~。

 

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【 幼き日々のこと (4) 】

2007-03-24 20:01:54 | 12 幼き日々のこと


3才児で内地に還ったときは、その帰路の船内で
妹が高熱を出し、そのまま死んでしまったと聞か
された。前にも書いたが、ボクの記憶の中にこの
妹は全く存在しない。

「可愛い子は早く死ぬ」と嘆く父の言葉で、ボク
は大きく傷ついていた。どうせボクは可愛くない
もんな。

その後、ボクには双子の弟が生まれるのだが、内
一人は生後間もなく、もう一人も一年以内に死んだ
という。二人は果たして我が家に住んだことが
あったのか。病院暮らしの末の死ではなかったの
か。ともかくボクには、この二人についての記憶
も全く無いのです。ただ長い間ボクの傍に母の姿
がなかった。弟妹たちの看病で一緒に入院して
いたんだと思う。時代だから女中さんが居り、そ
の世話になっていた。

葵町時代だが、ボクは幼稚園に行っていない。
最近まで近所に幼稚園が無かったんだと思って
いた。我が家には玄関を入ってすぐ左に、一室
だけ洋室があり、ボクはその部屋のことを、
オーツセマと言っていた。応接間を聞き間違って
のこと。この部屋はボクのお気に入りの部屋で
入り浸っていた。当時は珍しかった電気蓄音機
を使ってレコードを聴きだしたのは、もっと後に
なってからだろう。

4才児の内地旅行の帰りは、初めて釜山から列車
での旅だった。ソウルだったかピョンヤンだったか
定かじゃないが、泊まった旅館の傍に小学校があり、
生徒たちが「ア~イ~ウ~エ~オ~」と節をつけて
歌うように日本語を習っている声が聞こえた。
幼児ながら何か微妙な複雑な思いがあった。

この帰国では広島・三原の祖父の兄の家に関わる
記憶が多い。この家は高台にあり、見下ろす所に
何軒かの農家が見えた。縁台の続きに離れ部屋が
あり、庭には大きな池があった。祖父の兄が大切
に飼っていた黒い鯉が夜中に跳ねて、池に架かっ
た橋にぶつかって死に、それを剛毅な祖父の兄が
大いに嘆いた。

ボクはこの祖父の兄に捕まって、湯殿に連れ込まれ
手ぬぐいを丸めて鉢巻をされ、頭から石鹸でごし
ごしと洗われた。この人には子供が出来ず、ボク
の母の弟の下の方が跡継ぎのため養子になって
いた。叔父に当たるこの人は、当時学生で三原の
家には居なかった。どうやら大阪の歯科の学校へ
行っていたんだと思う。

祖父の兄は、だから小さな子供を風呂に入れたこと
がなく、ボクは格好のオモチャにされた。祖父の
兄(言いにくいな、この呼び方)は喜んで風呂に
入ろうとするが、ボクには迷惑この上無いこと
だった。

ず~っと後になって、ボクがハンブルグに赴任する
直前、この叔父を訪ねたことがある。29年ぶり
の訪問だった。たいした高台ではなかったし、池
も小さな泉水に過ぎなかった。だが黒鯉のことは
叔父もその奥さんに当たる叔母も覚えていた。
子供の目には物事が大きく見えるのだ。

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【 幼き日々のこと (3) 】

2007-03-24 20:01:22 | 12 幼き日々のこと


父に連れられて内地に旅行をしたのは、2才児
から4才児までのことで、5才になってからは
戦時色濃厚となったからか、帰国した覚えがない。

2才児に記憶はゼロである。ただ内地から帰る
時に、大連まで船で行き、そこからの特急アジア号
の中で、満州巡業の大相撲の力士連と乗り合わせ、
羽黒山か名寄岩かに抱っこされたそうである。
双葉山も居たのに惜しいことをしたと、母だった
か、父だったかが述懐しているのを何度か聞いた。

アジア号は、満鉄が世界に誇る特急列車だった。
日本内地には無い、広軌を大連からハルピンまで
走る。満鉄は元々帝政ロシヤによって建設された。
それを日露戦争の戦利品として、大連・旅順の
管轄権と共に譲渡されたので、その満鉄自体と
沿線の防衛のために、関東軍が置かれたのである。

2才児の時は、日光にも見物に行ったという。
自分の意思なら、徳川家康を神と祭る場所なんか
に足を踏み入れることはない。

毎日のオヤツがピロシキだったのがこの頃であろう。
まだ自分の足で、パン屋さんまで行くことが出来ず、
当時家に居た女中さんに抱かれて行った。

ピロシキという名を知る道理が無い。肉パンと呼ん
でいたように思う。その頃の家は、奉天市萩町で
家を出て真っ直ぐに行き、大通りに出る角にロシヤ
人が経営するパン屋があったと、薄っすらと記憶
している。

本当は大した規模ではなかったと思うが、幼児の
目には門から玄関まで煉瓦を敷きつめた通路が長く
感じられた。父が庭に色んな花を咲かせていた。
ボクが最初に名前を覚えた花、それは松葉牡丹で
あった。

この家は途中で引越し葵町に移る。共に平安小学校
の校区であった。自分の足で、あんなに好物だった
ピロシキを買いに行った記憶が無いのはどうしたこと
だろう。萩町の家を出て、パン屋さんと逆の方に
歩いて行くと、平安小学校の裏門があり、勝手に
そこへ入って砂場で遊んでいた記憶が鮮明にある。

あるとき、砂場で遊んでいて尿意を催し、急いで家に
帰ろうとしたのだが、我慢が出来なくなって、途中
の家の塀に向かって立小便をした。何を思ったのか
よその子が、ボクの前に回り込んでしゃがみ、ボク
の小便を顔で受けた。断じてボクが命じたわけでは
ない。いきなりのことでボクは驚いたが、出始めた
オシッコは止まらない。そこへその子の父親が現れ、
その状況を目にして、ボクをこっぴどく叱りつけた。
当然だとは思うものの、ボクだってビックリしてたん
だ。言い訳の言葉も知らず呆然とした。あれは確か
に萩町時代のことだった。

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【 粋Z 】

2007-03-24 12:21:08 | 02 華麗な生活


新語である。Zという名の新しい雑誌が生まれ、
今なんでもターゲットとされる、団塊の世代を
主対象とするらしい。

そこで「新たな流行」を作る意図から「粋Z」なる
言葉を作り、これを広めようとしているわけ。

読み方は「イキ・ジー」で、お洒落な爺さんとの意。

要するに、狙われてるわけ、アパレル業界から。




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【 幼き日々のこと (2) 】

2007-03-23 15:05:56 | 12 幼き日々のこと


ボクは父の勤務の関係で大連市で生まれた。

大連には日露戦争に絡む将軍たちの名前を
冠した通りや街区が多くあって、
ボクの出生地もその一つ、山縣通りという。

言うまでもなく、明治の元勲の一人、
山縣有朋から取った名前。

奇兵隊上がりで、元の名を狂介という。
こんなヤツが陸軍の総帥となったから、
旧帝国陸軍には野蛮な部分が多かったんだと、
これはボクの個人的意見。

幸か不幸か、ボクには山縣通りの想い出が無い。
ムリもない。生後一年以内に奉天に移ったから。

年に一度、父は会社から長い休暇をもらい、
内地に家族連れで帰ってくる。
母方の祖父が、歯医者の出で、その兄貴と共に
事業を始めて成功していた。

日本で初めて出来た歯科用のセメントを作ったのが
その祖父兄弟の会社「赤尾セメント」。

祖父の家は帝塚山の北隣、松虫にあった。

内地に帰国すると松虫の母の実家が本拠地となる。

3才児のボクは、祖父の連れ合いに天王寺動物園
に連れられて行っている。祖父の連れ合いといった
のは、母の実母じゃなく、後妻でもない。
つまりはお妾さんだったのだが、3才児のボクの
あずかり知るところじゃない。

ボクはサル山の前から動こうとしない。
ゾウにもキリンにも興味が無かったらしい。

覚えたての大阪弁で、

「オサルのオケツは真っ赤っ赤」なんて叫んで
いたらしい。一つ違いの妹が居たんだが、ボクは
その妹のことを、全く記憶していない。

奉天に「満蒙百貨店」という、大きなデパートがあり、
そこの写真館に長い間、ボクと妹が並んで写った
大きな写真が張り出されていた。

二人は全く似ていない。
妹は父譲りの目の細い子で、
ボクの方は、母親そっくりの二重まぶたの大きな目。
そいつが海軍の水兵帽をかぶって居た。

ボクはそのデパートへ行って、その写真を眺め、
妹のことを知ったんだ。


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【 幼き日々のこと (1) 】

2007-03-23 15:03:50 | 12 幼き日々のこと


ブログとは公開日記のことである、と
教えられ、日記も書かなくなって何十年。
最近流行の自分史を書く気にもなれない
ボクは水を得た魚の如く、よしなしごとの
あれこれを、手当たり次第に書いてきた。

今振りかえって見ると、多少は触れては
いるものの、幼少期の事柄があまり書かれて
いない。

重複の部分もありえると思うが、モノココロ
が付いたころに立ち返って、思い出すままに
記してみようと思い立ったのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最初に出てくる場面がある。日時は不明です。

3才か4才か、それすら判然としないボクが
泣き喚きながら父と祖父の歩みを追っている。

高野山へ登る道である。
祖父と父が言う。「これから3人でお坊さんに
なりに行く」と。

その言葉を聞いてボクは泣く。「嫌だ」と叫ぶ。
お坊さんになると、アタマをくりくりに剃り上げ
られて小僧となり、エライお坊様の言われるままに
修行を積まなければならない。

「そんなの嫌だ」。

「お前は親の言い付けを守らず、イタズラばかり
やる。だからお坊様の弟子にすることにした」

「これからは良い子になります。お坊様は嫌だ」

ボクは泣き続ける。

父と祖父は、道端にしゃがみこむボクを無視して
どんどん歩いていく。

あれに付いて行ったら、間違いなく高野山に着き、
否応なしに小僧にさせられる。

「そんなの絶対に嫌だ」

その時、ボクの頭の中には、柱に縛られた雪舟が
自分の涙で、足指を使ってネズミを書く場面が
よぎっていた。

ボクも叱られて柱に縛られるんだろう。
だけど雪舟と違い、ボクには画才が無いから、
涙をこぼしてもネズミの絵も書けないし、
ムダに涙を流し続けるしかないだろう。

ボクは元来た道を引き返しはじめた。
下り坂だから、足が付いていけないほど、トントン
と弾むように飛ぶ。そう、歩くのじゃなく、
走るでもなく、あれは飛んでいた。

その後どうなったか、記憶がそこで途切れている。

高野山の宿坊のご飯を食べたのか、食べなかったのか。
何も覚えちゃいません。

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