作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 幼き日々のこと (5) 】

2007-03-25 13:50:11 | 12 幼き日々のこと


モノゴコロがついた頃、我が家の周辺には戸建
住宅しかなく、少し年令が上がってからアパート
という住宅形式があることを知った。

満鉄(正式名は南満州鉄道)の社宅が多く、ボク
が知る限りでは、その全てがアパート形式、今の
住宅公団のスタイルだった。

戸建住宅の庭には、決まったようにユスラウメの
木がニ・三本植えられていて、それに実る赤い実
が手軽なオヤツになった。サンザシを植えている
家は少なかった。子供達がニ・三人でその家のベル
を押し、出てきた人に「おばちゃん、サンザシ頂戴」
とねだると、たいていの家ではサンザシの実を取ら
せてくれた。

ライラックも殆どの家にあった。この花には蜜が
多く、子供達は花を摘んでは蜜を吸った。リラと
いう別名があることは、後に知ったこと。

満州の家は冬も暖かく快適だった。各戸にボイラー
室があり、石炭を備えている。何軒かで一人の
ボイラーマンを雇い、全室に熱湯が通るパイプを
巡らしているのだった。ボイラーマンは満州人
だった。

市内の乗り物は馬車(マーチョ)と洋車(ヤンチョ)
があった。ヤンチョは人力車だった。満州国の通貨
は円で、補助通貨としての銭の単位でたいていの
ことが足りていたようである。ヤンチョに乗るとき
には値決めをする。五十銭のことをウーモーチェン
と言った。なぜウーシーチェンじゃなかったんだろう。

満州人は漢民族とは異なる、完全な異民族である。
咽喉の骨格から違うから、中国の標準語である北京
官話の発音が出来ない。日本人には発音しやすい
音だった。片言の日常語の多くをヤンチョとマーチョ
に乗ることで覚えた。

日本人の住区にはあまり満州人を見かけなかった。
奉天は清の古都だから、昔の城の中に満州人の
住区があるようだった。それを城内と呼んでいた。
場外に新しく建設した部分に多くの日本人が住み、
自ずと住み分けが出来ていたんだと思う。

荷車を引いて野菜などを売りに来たり、露店を出して
マクワ瓜などを商う満州人は多く居た。殆どの母親
がマクワ瓜の買い食いを、固く禁じていた。赤痢の
原因となると信じられていたのである。

まだ2才児のヨチヨチ歩きのころ、荷車の中にバナナ
があることを見つけたボクが、喜んで一本をもぎ取り
ニコニコと荷車商人に手を振りながら持ち去った一件
は以前に書いたこと。そのときのボクには悪意は全く
無い。金銭という存在を知らず、物売りが来たら好き
な物を選んで取る。それが「買う」という行為だと
思っていたのです。

                          パパゲーノ



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