この弟で母は5人目の子供を産んだことになる。
当時はどこの家でも子沢山だったし、満州は内地
と比べ大陸性の気候で、子供が育ちにくい事情
があったとはいえ、ボク自身を入れて、6年間に
5人の子供を産み、それいずれもが病弱児で、
3人を死なせた。5番目に生まれた弟がこれまた
生まれながらの病弱児で、母は自らの死を迎える
まで、この弟の看病に付ききりとなり、入退院を
繰り返し、だからボクは母の愛情をあまり知らず
に育った。
父はといえば、当時は近所に同業の商社マンが
多く住んでいて、まるで回り持ちみたいに宴会
だの麻雀だのが盛んだった。日曜・祝日となると
ゴルフに出かける。清朝代々の皇帝を祀った陵が
行楽地になっていて、東陵とか北陵とかがあり、
そのどちらか、或いは両方にゴルフ場があった。
女中さん(当時はお手伝いさんという言葉がない)
が居たから、ボクは専らその世話になった。
そんな事情ながら、多少は母の味を覚えている。
想い出にある食べ物の最たるものは、鮭缶の身を
ほぐして食パンにはさみ、それを油で揚げたモノ。
これは大阪の天麩羅屋「与太呂」に行けば、海老
のすり身で同じようなモノが食べられる。察する
に娘時代の母が祖父に連れられて「与太呂」に
行き、それを真似たんだろう。
牛肉の脂身の無いところを、薄切りにして、よく
焼き、ウスターソースをかけて食べるのが、子供
時代から肉嫌いのボクの好物だった。
同じく牛肉の脂身の少ない部分とジャガ芋を、甘
辛く煮付けた一品は、あれは肉ジャガだったのか。
同じく喜んで食べた。思うにボクの肉の脂嫌いは
母譲りだったのかも知れない。
カレーライスもチキンライスも、母の手作りは美味
かった。母が作るチキンライスの鶏肉はささ身の
部分だけだった。ボクの鶏肉嫌いは、皮やヘンな
物が混じっているからです。
蒸しパンとホットケーキも、よく作ってもらった。
父はというと、すき焼きが最高のご馳走と思い込ん
でいたフシがあり、何かというとすき焼きをやら
せた。ボクは最初に鍋に油分をなじませる牛の脂身
そのものが、見るのも嫌、匂いも嫌で、生卵に付け
て食べるのがまた嫌でたまらなかった。
満鉄沿線の主要駅がある地には、満鉄の経営する
近代的なホテル、ヤマトホテルがあり、我が家では
何か家族の記念日が来ると、そこのグリルで本格的
な西洋料理を食べる習慣があった。子供もナイフと
フォークを礼儀正しく使わねばならない。食事内容
は何も覚えていない。デザートに出る三色のアイス
クリームの味が忘れられない。大人になってから、
ヨーロッパ各地でも、いろいろアイスクリームを
食べる機会があったが、ヤマトホテルのグリルで出た
モノに匹敵するのに出会わずじまいで今日に至る。
店屋物は一切取るな。それが父の方針だったよう
で、父が長期の出張に出かけると、入学前のボクは
何度か母の友人宅に連れて行かれた。
お昼になると、何か注文してくれる。初めてザル蕎麦
が運ばれてきたのを見て、ボクはその一箱の大きさ
を横から眺めてビックリし、いざ食べてすぐ下に
すのこが姿を現し、上げ底もヒド過ぎると立腹した。
パパゲーノ
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