作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 幼き日々のこと (3) 】

2007-03-24 20:01:22 | 12 幼き日々のこと


父に連れられて内地に旅行をしたのは、2才児
から4才児までのことで、5才になってからは
戦時色濃厚となったからか、帰国した覚えがない。

2才児に記憶はゼロである。ただ内地から帰る
時に、大連まで船で行き、そこからの特急アジア号
の中で、満州巡業の大相撲の力士連と乗り合わせ、
羽黒山か名寄岩かに抱っこされたそうである。
双葉山も居たのに惜しいことをしたと、母だった
か、父だったかが述懐しているのを何度か聞いた。

アジア号は、満鉄が世界に誇る特急列車だった。
日本内地には無い、広軌を大連からハルピンまで
走る。満鉄は元々帝政ロシヤによって建設された。
それを日露戦争の戦利品として、大連・旅順の
管轄権と共に譲渡されたので、その満鉄自体と
沿線の防衛のために、関東軍が置かれたのである。

2才児の時は、日光にも見物に行ったという。
自分の意思なら、徳川家康を神と祭る場所なんか
に足を踏み入れることはない。

毎日のオヤツがピロシキだったのがこの頃であろう。
まだ自分の足で、パン屋さんまで行くことが出来ず、
当時家に居た女中さんに抱かれて行った。

ピロシキという名を知る道理が無い。肉パンと呼ん
でいたように思う。その頃の家は、奉天市萩町で
家を出て真っ直ぐに行き、大通りに出る角にロシヤ
人が経営するパン屋があったと、薄っすらと記憶
している。

本当は大した規模ではなかったと思うが、幼児の
目には門から玄関まで煉瓦を敷きつめた通路が長く
感じられた。父が庭に色んな花を咲かせていた。
ボクが最初に名前を覚えた花、それは松葉牡丹で
あった。

この家は途中で引越し葵町に移る。共に平安小学校
の校区であった。自分の足で、あんなに好物だった
ピロシキを買いに行った記憶が無いのはどうしたこと
だろう。萩町の家を出て、パン屋さんと逆の方に
歩いて行くと、平安小学校の裏門があり、勝手に
そこへ入って砂場で遊んでいた記憶が鮮明にある。

あるとき、砂場で遊んでいて尿意を催し、急いで家に
帰ろうとしたのだが、我慢が出来なくなって、途中
の家の塀に向かって立小便をした。何を思ったのか
よその子が、ボクの前に回り込んでしゃがみ、ボク
の小便を顔で受けた。断じてボクが命じたわけでは
ない。いきなりのことでボクは驚いたが、出始めた
オシッコは止まらない。そこへその子の父親が現れ、
その状況を目にして、ボクをこっぴどく叱りつけた。
当然だとは思うものの、ボクだってビックリしてたん
だ。言い訳の言葉も知らず呆然とした。あれは確か
に萩町時代のことだった。

                            パパゲーノ



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