作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 伊予の人 】

2008-05-24 14:05:36 | 04 時事ニュース

バカの一つ覚えでこのところ「・・・・の人」をタイトルを多用
している。
西条市というたった一つの市の思い出だけで、ひとまとめに
されたら、愛媛県人の皆さんは迷惑なことだろう。
だがお許しあれ。昭和二十一年の九月現在の西条市民、
それもおそらく西条市で一番の商店街に面して住んでいた
人々ほどに、いやらしい目つきで、着のみ着のままの引揚者
を蔑んだやからをボクは知らない。

佐賀の有明の海に面した土地で、日本人の優しい気持ちに
感動したボクの一家は、四国に渡り、大阪で焼け出され疎開
していた母の父(つまりは祖父)に帰国の挨拶をするため、
西条市に立ち寄った。
ここでボク等はまるで南洋で捕らえられたゴリラでも見るような、
汚いものでも盗み見る仕打ちを受け続けたのである。

ボクの母は終戦の直前に、手術の失敗で出血死で亡くなって
いた。父は応召でソ連との国境の部隊に配属され、その任地
は軍の機密事項であった。母が急死したのは八月一日のこと。
その九日後に突如ソ連軍が満州を急襲する。母はあの惨状を
見ることなく死んで幸せだったと思う。享年37歳は数え年だから
満年齢で35か36だ。

母の急死で前線部隊から一時休暇を貰って新京に戻った父は、
その日の日付が変わる時間にソ連の対日宣戦があったから、
あやうく助かり、それは妻の急死との引き換えであった。

あろうことか、その年の十一月かに、早くも父は再婚し引揚げの
時には新たな妻は大きな腹を抱えていた。
それと知った祖父は当然怒った。当たり前だ。
11歳でしかなかったボクだって、「おじいちゃんに挨拶してからで
よいだろう。人の道に反するよ」と思いとどまるようにいさめたので
あったが、父は怒気を満面にボクを拳固で殴り蹴り上げたのだ。

祖父はボクに向かい「お前だけはここにとどまれ」と言ったのだが、
もしあの西条が、佐賀の藤津郡であり、人々の心が引揚者を労わる
土地であったなら、ボクは間違いなく愛媛県人となったと思う。

国民学校にも一週間だけだったが行った。全生徒がイジワルで、
初日の習字の時間に真後ろの席にワルから、墨汁を頭から掛け
られる仕打ちにあった。
名前も忘れた教師がそれを見て見ぬふりをした。
祖父は大量の書画骨董の収集家として世に知られ、それらの品の
置き場所として、かなりの大きな二階建てに住んでいて、その家は
まさに商店街の中の角地に立っていた。

西条の人間は、なぜあんなに同胞を蔑んだのであったか、それが謎
だ。大人も子供も教師だって、あれが日本人ならボクは日本国籍を
返上したいとまで思った。

結局ボクは、祖父の期待を裏切って、父と継母について淡路島に
行くことになる。二人とも明らかに、ボクを祖父に託したかったと
顔に書いてあった。

十数年が経つ。中学を出れば、大阪日本橋の問屋に丁稚奉公と
定められた身を、高校行きを強行し、その後もバイトの連続ながら
大学卒の資格を得ていた。

入社した商社では、バクチが盛んで、高校野球は当然その対象と
なる。西条高校が愛媛県代表で夏の大会に出た。
二百名以上が参加するバクチ参加者の中で、西条高校を優勝と
張ったのはボクだけであった。なに西条の土地を知っていたから
だけの理由である。
このバクチでボクは、その夏のボーナスの二倍以上の懸賞金を
独り占めした。

かといって、未だにあの時に受けた、西条の人間どもの同胞への
蔑みの目を忘れない。特にあの教師は最低の人間だった。




                       パパゲーノ

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