参加者はボクの努力で、増えていき60名の
常連が揃い、部長はご機嫌が良かった。

急増の主因は、ボクが紡績各社の人たちに
参加を要請したことが大きい。

電話を掛けて、取り組みを、例えば大内山に松登
と言う。相手は名前を出したら、周囲の非難の目を
浴びるから、前とか後、または上とか下と答える。
それをボクが表に書き込む。

当時の初任給1万3千2百円は、高い方だった。
松下が1万円、銀行大手が1万2千円の時代だ。

60名の参加で、毎日6千円の掛け金をめぐるバクチ
には熱が高かった。上手くすると一場所で4日ぐらいは
賞金を得る。ひとり勝ちでなくても、給料に匹敵する
収入があった。

幸事魔多しとは良くぞ言った。
バクチ部長が、インドネシア向け賠償の本格化で、ジャカルタ
に転勤になった。
冷ややかに見ていた副部長が昇格し、ボクは新入社員の
分際で賭け事に興じる、馬鹿な奴と見られてしまった。

そこからボクの下積み生活が十年続く。
最初は輸出の受渡し業務で、契約した商品をきちんと受取り
それを船積み手配をする仕事だ。
いわゆる貿易手続きは、ここで行なわれる。

その仕事を五年やり、漸く営業職に付いたが、ボクに与えられた
仕事は先輩が誰も居ない国内の新規開発だった。

同期生の多くが、すでに海外派遣されつつあった。

この後の話は、小説に書いたから、ここでは詳述はしない。
だが人生で、その時は嫌だと思った事も、すべて何時かは
役に立つ。

44歳で脱サラして、起業したボクにとって、受渡しも国内商売も
共に非常に役に立つ事を、起業してから身に沁みた。