ボクは昭和32年(1957)に社会人に成ったのだが、
配属された部の部長が大のバクチ好きな人で、
取締役を兼ねた、その部長から目を付けられて、
相撲バクチの手先にされた。

朝出社したら、末席のボクにお声が掛かる。
部長席に呼ばれたボクは、その日の相撲の取り組み
に付いての意見を聞かれる。

そして横罫線が入った紙を二枚貼り合せ、その日の
上位十五番の取り組み表の作成を命じられる。

鏡里・大内山・松登などの力士が強かった。
初代朝潮とか、信夫山・鳴門海などが幕内に居た時代だ。

番組表が出来ると、部長は先ずご自身の勝敗予想を行い
ご自身の印鑑を、勝つと予想した力士の方に押す。
一番ごとにボクは予想のお手伝い。

先ず部長が押した予想表を持って、部内を回るのが、
新入社員としてのボクの初仕事だった。

最低でも三十名の参加者を集めるのがノルマだ。
部内では三十名が集まらない。隣の部に行き、階の違う
部にも行って、何とか参加者を集める。

参加者からは百円を貰う。総計で三千円になる。

相撲の取り組みが上位力士に来ると、当時は高価だった、
トランジスターラジオを机上で鳴らし、部長の予想した力士が
勝つと、末席から呼ばれて、ご機嫌である。

「なあ、鳴門海は細い身体を、鏡里に巻きつけて勝ったぞ」

部長の予想通りに、いつも勝負が決まる訳ではない。
するとご機嫌斜めになって、朝ボクが作った表を、ボクに投げて
外に出かけて行かれる。おそらくは、喫茶店にでも行って居られた
のだろう。

その日の予想が最も多かった者が、三千円を得る。
同数者が複数だったら、分けて得るのが決まりだった。

部長はバクチに強かったが、毎日勝ち続ける訳には行かない。
ボクも結構成績が良かった。
だがバクチに参加しない、副部長やその他からは、冷たい目で
見られるように成って行った。

大鵬が横綱に成ったのは,もっと後の事だった。
だが納屋の本名で、幕下時代から、将来が期待されていた。

戦後樺太からの引揚者だ。父親はウクライナ人で母親が日本人。
母の故郷、北海道で苦労して育った人だった。
享年72歳。ボクは6歳も年長となる。合掌。