震災当日の1月17日は結局ラジオの被害状況の
情報を地図帳に書き込むことで終始し、その
まま徹夜したのだったが、深夜に思いもよらぬ
感動的な出来事があった。
微塵と化したガラスや陶器の破片で、足の踏み場
も無かったリビングをともかく片付け、二個の大型
書棚が共に倒れて飛び散った本も片付けて、
疲れて寝た家人をよそに、一人でラジオを聞いて
いた。
あれっ、空耳かな?
玄関のベルが鳴ったような気がしたのだ。
時計の針は深夜の1時過ぎを示している。
ラジオの音量を小さくして耳を澄ましていたら、
またベルが鳴った。間違いない。
誰かが訊ねてきている。
玄関に行って、小さな覗き窓で確認した。
青年が二人立っているのが見えた。
ドアを開けた。
「社長、ご無事でしたか」
一人は社員だが、声を掛けてきた方は元社員。
その時点では、ボクの部下ではない。
M君という青年が、現社員である、これもM君
なのだが、電話を掛けてボクの安否について
質したらしい。
「それがよく分かりません」
「何を、分からんって、お前それでいいんか」
今から行くぞということになり、豊中から途中で
M君2号を拾い、途中空いているコンビニで
買える限りの食品を購入し、あらかじめ用意
した登山用のリュックに、ホームセンターで
売っていた2リットル入りの大型ペットボトル
を詰め込んで、液状化でがたがたになった
暗い道を走って来たのだ。
来てはみたがエレベーターは動いておらず、
ならばとM君2号を励ましながら、約600段
の非常階段を登りボクに緊急物資を届けに
きてくれたのだった。
ボクはあんなに感動したことがない。
言い出したM君1号は、会社の他の人間
との折り合いが悪く退社した青年なのである。
その後、ボク自身が5回ほど登り降りすること
になる600段を、最低20リットルの水を肩に、
届けにくる。
日本の青年も捨てたものじゃない。
運んできたのは、水以外にインスタント食品
の類多数。
しかもM君1号は、別途に20リットル入りの
空きボトルも用意して、途中の小川で水を汲み、
こちらはトイレに使ってくださいと、憎いことを
言ったのだった。
カレはなんと水だけで40キロを超える重量を、
元社長のボクを気遣い、友人を誘って届けに
来てくれたのだ。
これで涙を流さぬほどに、ボクは冷酷じゃない。
このまま深夜の道を大阪に帰るという二人に、
飲ますわけにはいかぬ。
取って置きのクールボアジェとカミュのナポレオン
を、封も切ってないのを、それぞれに与える
ことで、謝意を表した。
それが15年前の、あの巨大震災の夜の出来事
だった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます