小樽のパパの子育て日記

日々のできごとを徒然なるままに2006年から書いて18年目になりました。
ヤプログから2019年9月に引越し。

人間にとって成熟とは何か

2014-09-12 05:16:00 | 図書館
人間にとって成熟とは何か


曽野綾子著

いい本でした。
特に印象に残った部分を自分用メモとして書き留めておきます。

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正しいことだけをして生きることはできない。

高齢出産をした野田聖子氏のインタビューへの違和感。
「高額医療は国が助けてくれるので、みなさんも、もしものときは安心してください。国会議員の子どもだから特別ということでは、まったくないのです」
野田氏の思考の中に旧態依然とした特権階級意識があることに驚いた。それだけではない。自分の息子がこんな高額医療を国民の負担において受けさせてもらっていることに対する一抹の申し訳なさ、か、感謝が全くない点。

日教組的教育「人権とは要求することだ」これが人間の精神の荒廃の大きな原因。
「もらえば得」「もらわなきゃ損」

「野田真輝は野田総理よりはるかに国民に貢献していると、母は誇りに思う」などという言葉は、根本的に、人間のあるべき謙虚な視点を失っていて、人間を権利でしか見ない人だということを示している。

他者のお世話にならずに生きることはできない。
すべては強烈に他者の存在を意識し、その中の小さな小さな自分を認識してこそ、初めて自分の分をわきまえ、自分は働ける適切な場所を見つける。それができるようになるのが、多分中年から老年にかけての、黄金のような日々なのである。肉体は衰えていっても、魂や眼力に少し磨きがかかる。成熟とは、鏡を磨いてよく見えるようにすることだ。

人間にとって大切な一つの知恵は、諦めることでもある。
諦めがつけば、人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。

目立たない、ということは、称賛も受けにくいが、つまり非難される要素だけは取り除くという守りの姿勢である。
今の日本人には、この卑怯な姿勢がいたるところに見える。
たとえそれが合理性に欠けるものだと思っても、霞ヶ関の官僚の90%までが、それを直そうという姿勢は持っていない。
「今までそうだったから」という前例主義を、「できない理由を素早く言うことのできる卑怯な姿勢」を守るから、事は全く動かないのである。
霞ヶ関の住人は「できない理由を素早く言うことのできる秀才」だと私は初め言っていたのだが、ある人がそういうのはペーパー秀才に過ぎず、与えられた問題の解答は出せるけれど、この世で何が問題かを考えることは全くできない人だと教えてくれた。

信仰がないと不自由だろうな、と思うことはある。自分のしたことを正確に評価されることを、他の人間に期待するからである。私が幼い頃からキリスト教の信仰に触れて良かったと思うのは、自分の行動の評価者として神しか考えないようになったこと。私が何を思って何をしたかをほんとうに厳密に知っているのは神だけだ、という最終の地点の認識はいつも心の中にある。他人の毀誉褒貶は大きな問題ではない、という心の姿勢が私にはできるようになった。

1985年の飢餓の年に私はエチオピアの北部にいた。
そこで私は二人の人たちから、自分が今抱いている赤ん坊をすぐに連れて行ってくれと言われた。そのうちの一人の父は、「この子の母は死んで、誰も乳をやる人がいない。日本人が連れて行ってくれれば、この子はどうにか助かるだろう」と言っていると、通訳は私に伝えた。
 もう一人私に赤ん坊を渡そうとしたのは、骸骨のように痩せこけた若い母だった。自分のお乳がもう出なくなっているのだ、と言う。私は思いついてハンドバッグの中にあった飴の缶の中に、最後に残っていた一粒を渡した。もうそれ以上、私に持ち合わせがなかったのである。私が飴を母に渡したのは、赤ん坊が小さすぎて、飴を口に入れてやるに適した大きさとは思われなかったからだった。母親にやれば、彼女がまずそれを舐めて、甘い唾液を赤子に口移しにやるという安全な方法を取ることもできるだろう。私がしばらくの間そこを立ち去らなかったのは、事の成り行きが私の思い通りにならなかったからだ。母親は自分が飴を舐めただけで、決して子供に口移しに何かを与えそうにはなかった。あまり空腹だったからだろう。彼女は自分がそれを食べてしまったのであった。飴を舐めれば、干からびた乳房が少しは乳を出してくれると計算したのではなかったろう。それが人間というものなのであった。私たちはあまりにも多くの母性神話を聞きすぎていた。しかし誰もが自分の身を犠牲にしても子供を救う母ではありえない、というあたりが自然なのだろう。母性が、子供のためには自分の命を投げ出すものだ、という話が信じられるのは、命の危険のない時間と空間で語られる時だけかもしれないのである。すべてのことは、崇高なばかりでなく、動物的なだけでもなかった。すべてのことに、私はいささかの真実と、いささかの虚構があることを見たのであった。それらは、動物でありながら、人間であり続ける私たちの、現実の願いを悲しく示していた。

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図書館のレシートを見ると予約2名とありました。
すぐに返却しなければ。