おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「末裔」 絲山秋子

2011年06月07日 | あ行の作家
「末裔」 絲山秋子著 講談社  2011/06/06読了  
 
 言いたことは分かる…ような気がする。

 私は著者と同世代だ。親の世代は、取り立てて努力しなくても、女の子は年頃になればお嫁に行けて、2-3年のうちには子どもが生まれるのが常だった。社会全体の中で「それが当たり前のこと」というコンセンサスがあったし、敢えてそのルートから外れる人はマイノリティだった。

そういう環境で育ったのに(育ったから?)、私たちの世代は「結婚するぞ!」と強い意志がなければ、結婚しないままでも過ごせてしまう。女性の生き方の選択肢が広がり、結婚しない女が変人扱いされる時代はとうに終わった。楽しいこともいっぱいあるから、家は寝に帰るだけの場所になった。結婚したり、ステディなパートナーがいたとしても子どもを産むことはmustではない。仕事が楽しい、毎日面白おかしい、子どもがいて経済的に苦しくなるのはいや―それぞれの理由で、妊娠を先延ばししているうちに女の子はオバサンになってしまう。少女老いやすく、家庭なりがたし。

絲山秋子氏のブログをたまにのぞいてみる限りでは、きままなシングルライフを自分が納得いくように送っているように見える。彼女が「子どもを産みたい」と思ったことがあったかどうかは知る由もないが、ただ、もはや妊娠(ほぼ)アウトの年齢に至って、「私に子どもがいない」ことから派生する意味について考えるところがあったのではないだろうか。

私自身も婚姻届けを提出するという手続きに興味が持てなかったし、切実に「子どもがほしい」と思ったこともなかった。むしろ、私のような未熟な人間が子どもを持つなどおこがましいと思っていた。「未熟は未熟なりに子どもと共に成長していくことができたかもしれないな」―という心境に至った時には、今さら妊娠する勇気が出ない年齢だった。だからといって、取り立てて後悔しているわけではないのだが、兄弟も子どももいない私が死んだら家は絶える。その前に、実家の処分、墓の処分、もろもろの雑事を片付けておかなければなぁ…などと漫然と考えるようになった。友人たちの孫自慢をジッと聞いているだけしかできない親を、ちょっと可哀想に思うようにもなった。

「末裔」の主人公・省三は、不妊の息子夫婦、結婚する気のない娘を見て、「この家は絶える」という現実に直面する。そこには、後悔とか、悲しみとか、絶望といった湿っぽさがあるわけではないのだが、ある種の「諦念」や一世代前への「郷愁」がそこはかとなく漂っている。

日本がメキメキと音を立てるように成長し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われる時代を知っている。ひもじい思いもせず、質・量とも豊かなモノに囲まれている。かつての「学士さま」の希少価値は薄れ、望めば(そしてレベルを妥協すれば)誰でも大学に行けるようになった。それなのに、完全に豊かになりきっていなかった子どもの頃の空気がとてつもなく懐かしく思えたり、高等教育では得られない、一世代前の人たちの生きる力、生きる知恵に心打たれたりする。

著者の同世代の私には、なんとも言葉に表しがたい「諦念」や「郷愁」を共有できる。私なりに「末裔」のコンセプトを理解できたと思う。全く個人的ながら、「鶴見」「大船」「鎌倉」「横須賀線」などのなじみ深い地名や路線名がたくさん出てきたのも嬉しかった。

しか~し、どう考えてもラリッているとしか思えないストーリーのストラクチャーにはついていけなかった。

震災以降ろくに本を読んでいないにもかかわらず、松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」、梨木香歩「f植物園の巣穴」、絲山秋子「海の仙人」、そしてこの「末裔」と、若干、あちら側の世界に足を踏み入れてしまっているような小説に次々とぶちあたってしまっている。いずれも書評も読まず、予備知識無しに購入したり、借りたりした本なのに…なぜ…? もしかして、無意識の私の願望?

そろそろ読書正常化したいなぁ。ラリッていない、純粋に元気の出る本が読みたい!