おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「神無き月十番目の夜」 飯島和一

2009年11月29日 | あ行の作家
「神無き月十番目の夜」 飯島和一著  小学館文庫 (09/11/28読了)

 やっぱり、飯島和一という人はすごい。なんて密度の濃い文章なのだろう。魂を削るようにして、物凄いエネルギーを注いで書いているのだろう-ということが伝わってくる。その分、読むのにもただならぬエネルギーが要ります。一文字一文字、噛みしめるように、大切に読まなければ受け止めきれないような重い物語でした。

 約400年前に常陸(現在の茨城県)の北限近くの小生瀬村で起こった農民一揆とそれを鎮圧した一村皆伐の史実を題材にしている。女も子供も、数百人もがなで斬りにされた直後の、静寂に包まれた村の光景から物語は始まる。ほんのしばらく前まで、そこに村人がいて、日常の生活があったという空気感まで伝わってくる。

 そこから、なぜ、小生瀬は全滅させられることになったのか。そもそも、なぜ、村人たちは一揆に駆り立てられたのか-をひも解いていく。

 善政を敷いていた常陸・佐竹氏が、徳川氏によって秋田天封を命じられたことがそもそもの悲劇の始まりだった。佐竹時代には独立・自主の気風を持って暮らしていた小生瀬にやってきた徳川方の検地役人の横暴ぶりに村人たちの不満は高まる。単に、課される年貢が厳しくなるだけではない。慈しんで育ててきた青田を役人が踏みにじり、独自の文化をないがしろにし、さらに、村にとっては絶対に穢してはならない聖なる土地「御田」に役人が踏み込もうとしたことで、若衆の怒りは臨界点を超える。そして、それが、やがて一揆へと発展していく。

 小生瀬の肝煎(村長)である石橋藤九郎、若衆の頭ながら経験も思慮も足らない辰造、ハネっ返りの吉弥、藤九郎を慕う直次郎-それぞれの思惑が少しずつ食い違い、物事は、悪い方へ、悪い方へと進んで行ってしまう。

 正直、読んでいて苦しくなりました。「なぜ、政治は民を幸福にすることができないのか」「武力では解決できないと分かっているのに、なぜ、人は、武力にうったえてしまうのか」-400年という歳月を経ても、結局、人間はその答えを見つけることができていない事実を突き付けられているからです。ページをめくるたびに、今の日本に置き換えて、目をそむけたくなるような気持ちになるのに耐えて、読み進まなければなりませんでした。

為政者にとっては、理解しがたい伝承や文化を拠り所とする土地の百姓たちは放置しておくことができない不気味な存在。しかし、独立自主の気風を踏みにじられ、聖なる地を荒された小生瀬の若衆にとっては、役人を殺す以外の選択肢はない。もちろん、テロを正当化するつもりはありません。けれど、理解しあうことができないイスラムと米国社会の不幸も改めて考えさせられました。