郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

墓碑銘が語る赤松小三郎暗殺の真相

2008年03月03日 | 桐野利秋
 もう、どびっっくりしました!!!
 いや、中村太郎さまが、またまたコピーを送ってくださいました。
 その中に、2006年5月号、歴史読本「幕末京都志士日誌」から、結城しはや氏の「桐野利秋 京都日記」というエッセイがあったんですが、美少年と香水は桐野のお友達で話題になりました、黒谷・金戒光明寺の赤松小三郎の墓石のことが詳しく書かれていました。
 やはり、墓石の側面と背面に追悼文が刻まれているそうですが、右側面は剥落し、背面が判読可能なんだそうです。
 そこになんと、緑林之害而死と、刻まれているんだそうなんです。
 
 どうも、fhさまの備忘 中井弘50でご紹介いただきました、忠義公史料の文面と、大きくはちがわないようなのです。引かせていただきます。

先生、姓源、諱某、赤松氏称小三郎、信濃上田人也、年甫十八、慨然志於西洋之学、受業同国佐久間修理及幕府人勝麟太、東自江戸西至長崎遊、方有年、多所発明、後益察時勢之緩急、専務英学、於其銃隊之法也尤精、嘗訳英国歩兵練法、以公于世、会我邦兵法採用式旦夕講習及、聘致先生於京邸、所其書更使校之原本、而肆業焉、今歳之春、中将公在京師也、召是賜物、先生感喜益尽精力、而重訂書成十巻、上之 公深嘉称、速命刻�*、将少有用於天下国家也、蓋先生平素之功、於是乎為不朽、可不謂懿哉、不幸終遭緑林之害、而死年三十有七、実慶応三年丁卯秋九月三日也、受業門人驚慟之余、胥議而建墓於洛、東黒谷之塋、且記其梗概、以表追哀意云尓、
                                   薩摩 受業門生謹識


 不幸終遭緑林之害とありますよね。
 反討幕派の高崎正風が、中井桜洲にかかせたものらしいことが、高崎の日記でわかります。
 桐野が赤松小三郎を斬った理由については、王政復古と桐野利秋の暗殺で推測しました。
 そして、「これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう」と、書いたのですが。
 緑林之害ってなんなんでしょう?
 緑林之害に死す、資料原文は、不幸にして終(つい)に緑林之害に会うではないかと、fhさまのご教授です。

 私、漢文が苦手です。
 以前、入江九一から吉田松陰宛てだったと思うんですが、あるいは松蔭の書簡だったか、漢文で読むとなにを書いているのやらさっぱりわからない箇所がありまして、読み下し全集を持っている友人に頼んでコピーを送ってもらったのですが、その註釈を見てもさっぱりわからず、図書館で後漢書だったかを必死になってひっくりかえし、まる一日がかりで、ようやく、その言わんとした故事をさがしだしたことがありました。
 戦後の松蔭全集の註釈がまちがっていたのですから、あきれてものがいえません。
 あれ以来、苦手な漢文は、すすっと、だいたいの意味をとって頭の中で流すようにしていまして、緑林之害がなんであるのか、気にとめていませんでした。
 便利な世の中になったものです。検索をかけてみましたら、ありましたわ。

 wiki緑林軍
 緑林軍は、新代に荊州を主要な活動地域とし、王莽が創立した新に反抗した民間武装勢力である。
新の統治の末期に、荊州江夏郡新市県で顔役を務めていた王匡と王鳳は 、衆に推されて数百人の民衆の頭領となった。そこへ、馬武、王常、成丹などの浪人たちも加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(荊州江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7,8千人に膨らんだという。地皇2年(21年)、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡は雲杜(江夏郡)でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。


 緑林軍が、薩摩受業門生ですね。
 王匡と王鳳って、だれでしょう?
 大久保利通と西郷隆盛以外に、考えられるでしょうか。
 「衆に推されて数百人の民衆の頭領となった」なんですから。

 いや、中井桜洲って………、すごいですわ。


 追記 妄想です。
 11月17日、ちょうど、高崎と中井は、この日、龍馬と慎太郎が襲われたことを知ったところでした。
 中井は、龍馬とも海援隊士ともつきあいがあります。
 といいますか、海援隊の長岡謙吉と遊覧旅行をしてきたばかりです。(桐野利秋と龍馬暗殺 前編参照)

 長岡謙吉といえば、この翌日、龍馬と慎太郎の葬儀の日、京在土佐藩政・寺村左膳道成の日記に以下の記述があります。
 今夜御国脱走人長岡謙吉ともうす者、福岡へ対面のため松本へ来候ところ、もとより才谷、石川同断の者につき、会、桑、新撰組などの目をそそぐところとなり、すでに今夜右長岡の跡付来候者これあるよし、密に告るものあり。依而にわかに松本より裏道を開き、川原へ出し、立ち退かせたり
 今夜、脱藩人の長岡謙吉というやつが、福岡孝弟(土佐藩士)に会うために松本(料亭ですかね)へ来たんだがね、もとより長岡は、暗殺された龍馬や慎太郎の仲間なんで、会津、桑名、新撰組に目をつけられ、跡をつけられていると密かに言ってきたものがあった。いま土佐藩のものが、こんな連中と会っていたとわかってはまずいので、裏道から川原へ出して、引き取ってもらったよ。

 自らも脱藩の身の中井さんには、海援隊士の悲哀がよくわかったでしょう。
 「海援隊、陸援隊は、緑林兵みたいなものだからなあ」と、深いため息をつきます。
 高崎さんいわく。
 「赤松をやったうちの奴らだとて、似たようなもんじゃないか。三郎さま(久光公)のお気に召された者に手をかけるとは! ともかく、墓碑銘を書いてくれ。薩摩がやったと会津の連中が怒っているが、三郎さまは関係ないんだからな」
 桐野がやったらしい、と勘づいていた中井は、苦笑い。
 「ま、赤松は不幸にして緑林の害にあった、とは、いえるかもしれんな」
 と、こうして、不幸終遭緑林之害という言葉は生まれた………、かもしれません。
 

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2 コメント

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緑林之害 (桐野作人)
2008-03-04 17:56:57
一連の桐野利秋シリーズ、興味深く読ませていただきました。基本的に私も同意します。

「緑林之害」ですが、「緑林」は盗賊という意味ですから、赤松は盗賊にやられたということなのでしょう。
桐野が揮毫した斬奸状では攘夷派の仕業に読めますから、盗賊と攘夷派とは同義かもしれないですね。
どちらにしろ、しらばっくれていると思います。

赤松の墓の裏側の銘文は私も一応撮影していますが、たしか『鹿児島県史料』のどこかに翻刻文が掲載されておりました。
返信する
ご指摘ありがとうございます。 (郎女)
2008-03-04 21:24:57
ご存じのことばかりと思われますのに、読んでいただいていたとは光栄です。
ご指摘ありがとうございます。
「緑林」が盗賊という意味で使われることは、一応、存じておりました。ただ今回読みましたエッセイの著者、結城しはや氏が「漢籍の故事からの緑林(盗賊)之害而死とあり、深読みもできそうなところが、日記とあわせてみると興味深いのである」と書いておられましたので、どう深読みができるのか、考えてみましたような次第です。

松蔭の読みすぎかもしれないのですが、松蔭とか入江九一とか、あんまり有名ではない漢籍の故事をひっぱり出してきまして、自分たちの状況にあてはめ、「だれだれがああしたように、われわれもいま云々」とか、よく言っているんですが、松下村塾に特有のことなのでしょうか。
幕末、ああいった漢籍の読み方は、かなりひろまりつつあったのではないか、という気がしているのですが。
中井は、かなり漢籍を勉強していたようですし、しかも脱藩した若い頃は、天狗党の土壌になった渋沢栄一の故郷のあたりで、尊皇攘夷派の庄屋などのところに、漢学教授によって寄宿してまわっていたようです。
中井が書いたと仮定して、の話ですが、かなり含みをもたせる表現をしてもおかしくないのではないか、と思ったような次第です。

桐野と攘夷については、いずれまとめるつもりではいたのですが、私は故市井三郎氏の書かれた桐野像にかなり影響を受けておりまして、この時点での桐野が、単純な攘夷主義者であったとは、ちょっと思えないでおります。中岡慎太郎とは元治元年からつきあいがあった桐野です。
「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内各国、皆これを行ふもの也。メリケンは嘗て英の属国なり。ときにイギリス王、利を貪ること日々に多く、米民ますます苦む。因ってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。爰においてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」
という認識を、共有していたと思っております。
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