郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

バロン・キャットと小栗上野介

2008年03月08日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
「ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか」
と、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? で書きました。

これ以前から、横須賀製鉄所の生みの親・小栗上野介の最期は気にかかっていたのですが、もう一つ、バロン・キャットと伯爵夫人猫絵と江戸の勤王気分 で書きました、鹿鳴館の花・井上武子伯爵夫人の実家、岩松新田の猫絵の殿様。この人が中心になっていたという新田官軍の実態も、いまひとつ釈然としなくて、あれこれ調べていたところで、この驚きでした。
岩松新田の知行地と、小栗上野介の知行地は、ともに上州にあり、近くだったんです。

そしてその上州は、最高級ジャパン生糸の産地であり、国定忠治伝説の生まれた地でもありました。

「八州廻りと博徒」

山川出版社

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著者の落合延孝氏は、上州在住。『猫絵の殿様 領主のフォークロア』の著者でおられます。

江戸時代の関東の農村は、天領、旗本の知行地、譜代小藩領などが複雑に入り乱れていたため、治安取締がゆるやかで、博徒、いまでいう893、やーさんですが、アウトローといった方がいいでしょうか、ともかく、そういう方々の活動が活発であったと、そういうことは、かなり昔から言われておりました。
で、私、さすがに「赤城の山も今宵かぎりか」のセリフだけは、なぜか知っていますが、国定忠治伝説については、ほかになにも知りませんで、結局のところ、史実としては、幕末、といっても 嘉永3年(1851年)ですから、ペリー来航、黒船騒動の3年前ですが、殺人罪で刑死した博徒だったようです。
一応、飢餓の時に救民活動をした、というような話はあるんですが、それ以上にどうも、はりつけという極刑になったことから美化され、幕末の不穏な空気の中で、民衆のヒーローとなっていったようです。
救民活動といえば、某最大手やーさん組織が、神戸大震災のときにやってますから、まあ、あっておかしくないんですけれども。
この国定忠治が、新田氏を名乗っていまして、岩松新田の猫絵の殿様ご近所まわり出身者なんですね。

と、実はここまで、去年の4月に書いたものなのです。
下書きのままで、いまにいたりまして。
今回、続きを書く気になりましたのは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編を書いていまして、またしてもぎゃー!!!と思ったからです。
それもまたまた、土方歳三はアラビア馬に乗ったか?の小栗上野介。
「土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです」と書いた、豊永貫一郎です。

 えーと、検索もかけて調べたのですが、豊永貫一郎について、書いた以上のことはわかりませんでした。
 が、おそらく、土佐藩士で長州よりの考えをもっていたのですから、軽輩だったんではないんでしょうか。
 軽輩ゆえに、土佐勤王党に心をよせ、念願かなって京都藩邸勤務。土佐藩邸には、同じような仲間がいっぱいいて、「お国の因循姑息は、どげんかならんか!」と悲憤慷慨していますが、脱藩するほどの勇気はありません。
 仲間八人で酒を飲んで、ほんのいたずら気分で制札事件を起こし、二人死亡、一人捕縛で、残りの四人とともに薩摩藩邸に逃げ込んで、一年間、かくまってもらったわけです。
 時勢が動き、藩邸を出て、陸援隊に入り、今度は天満屋事件。
 陸援隊ですから、高野山に行ったんでしょう。
 その後、岩倉具視に気に入られたんでしょうか。
 岩倉具視の息子、具定が総督を務める東山道軍の軍監となり、板橋まで進軍。
 で、その板橋の総督府に、何者かが「旧幕臣小栗上野介事、上州三野倉村へ引き籠もり、追々要地により、みな相構へ候模様、その上大小砲多分所持、諸浪人等召し抱へ、官軍に抗し候景況これある由」と、密告したむね、「復古記」にあるそうです。
 つまり、「小栗上野介が、知行地だった上州三野倉村へ引きこもり、砦を築いて、大小の砲を多く所持した上、浪人をいっぱい召し抱えて、官軍と戦うかまえでいる」と、何者かが、密告したんですね。
 で、この何者かが、猫絵の殿様だという可能性は、あるんでしょうか。
 それが………、どうもありそうなんです。

 この小栗上野介の知行地「上州三野倉村」というのは、最初に述べましたように、猫絵の殿様の知行地のご近所です。
 で、ですね、シルクの産地であり、横浜開港以来、多額の収入を得る者がでてきた一方で、シルクを織物にしていた地場産業は、生糸が輸出にまわって確保できなくなり、つぶれるんですね。
 さらに、実は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で述べました、以下。
「理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。」


 これは、石井寛治著「近代日本とイギリス資本 ジャーディン・マセソン商会を中心に」(東京大学出版会)で、横浜における生糸の取り引きを見ましたら、幕末、押し詰まりました時点で、イギリスの取扱量が極端に落ち込み、が、フランスは増えていて、その理由を石井寛治氏が述べておられなかったことから、推測したことなんですね。
 また、『ポルスブルック日本報告 1857-1870 オランダ領事の見た幕末事情』(雄松堂)という本で、オランダ領事ホルスブルックの手紙が訳されているんですが、「(フランスと幕府の生糸交易で)こんな取引を認めたら、イタリアや南フランスにとっても損失になることで、私がにぎった証拠書類を、親しいフランス人神父に見せたら、彼らも怒っていた」というようにもあるんです。
 これについてfhさまから、柴田三千雄・朝子共著「幕末におけるフランスの対日政策「フランス輸出入会社」の設立をめぐって」という論文をご紹介いただきまして、「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールの中心には、やはりロッシュ公使の友人、フリューリ・エラールがいまして、日本の生糸輸出の独占を一つの目的として、試験的取り引きには成功していたけれども、結局、頓挫した、何故頓挫したかといえば幕府が倒れたから、であるらしいんですね。
 日本側でこれをどう実現していたかといいますと、まず横浜で。
 元治元年(1864)幕府は、生糸の売り込み商人(日本人)たちに仲間規定を作成させていて、それによれば、規定に違反すれば、江戸の問屋と協議して、以後、江戸から荷をまわさなくするということだったんですが、慶応2年、仲間規定は改訂され、規則に違反すれば罰金と営業停止。
 また慶応三年には、幕府御用商人の三井が、売込商の主要なものに「荷物為替組合」を結成させたりしていまして、どうも幕府の生糸取り引きには、三井がかんでいた節があるんですね。
 そして、上州、です。生糸の産地であると同時に、幕府の支配地の多いところです。
 幕末、関東の天領の農政は、岩鼻代官書(陣屋)が取り仕切り、ご紹介の「八州廻りと博徒」は、その諸相について述べられたものです。ここに、註釈として小さく、なんですが、慶応2年(1866)4月から、蚕種元紙100枚につき永30文、輸出蚕種については市場で改印を受けるとき一枚につき永100文の税金がついたと載っています。
 で、いつから、どのぐらいかかっていたのかはわからないのですが、口糸上納、つまり生糸の付加税を廃止して欲しい、というような嘆願書が見られるそうで、幕府が天領の蚕種紙や生糸に、高額の税をかけ、資金力のある者にしか、買い集められないようにしていたことは、たしかなようなんです。

 これで、農民たちから文句が出ない方がおかしいでしょう。
 慶応3年の上州には、不穏な空気がただよっていたと考えてよく、薩摩藩江戸屋敷に集まった浪人たちは、これを利用しようと考えるんです。
 慶応3年10月3日、桐野の日記に「益満休之助ほかに弓田正平(伊牟田尚平)、今日より江戸へ送り出されるとのこと。もっとも、彼表において義挙のつもりである」とあります。
 大政奉還よりも、討幕の密勅よりも以前のことです。
 これは、「義挙」とある通り、京都で薩長が兵を挙げるとき、かつて天狗党が起こった土壌、尊皇攘夷派の庄屋や神官などが多い関東地方でも、討幕の兵が起こることを期待してのものです。鳥羽伏見の開戦のきっかけ作り、といわれますが、西郷隆盛の書簡を見ても、それは結果論であって、江戸薩摩藩邸の焼き討ちは、むしろ誤算であったことがわかります。

 以下は、長谷川伸著「相楽総三とその同志 上」よりです。
 薩摩藩主・忠義公が、兵を率いて入京した直後、11月24、25日ころのことです。
 薩摩藩邸に集っていた浪人たちの一部が、野州(栃木県)、甲府、相洲(神奈川)に散りました。
 野州挙兵の隊長は、竹内啓。武州川越の村長で、平田国学を学んだ人です。この挙兵には、国定忠治の息子なども加わりますが、足利戸田家所領・栃木陣屋の農兵隊(といってもこちらも博徒中心)と戦闘になり、近在の小藩から援軍も出て、多くの死者を出し敗走します。
 ところで、これに呼応しようとしていたのが、猫絵の殿様だったのです。
 勤王の旗印、新田の殿様のまわりには、尊皇攘夷派が多く、出入りの医者が薩摩藩邸に入っていたりしたんだそうです。
 実は、薩摩藩邸浪士たちの中心だった相楽総三は、天狗党の乱のとき、新田一族を名乗る勤王家の金井之恭とともに、猫絵の殿様をかつごうとしたことがありまして、今回も金井之恭と連絡をとり、呼応させるつもりでいたのです。
 金井之恭とその仲間たちは、浪士たちとの共犯を疑われて岩鼻陣屋の獄につながれ、峻烈な取調を受けますが、知らぬ存ぜぬで通し、猫絵の殿様は格式高いお旗本ですので、陣屋も手が出せません。
 そして翌慶応4年(明治元年)3月5日こと、岩倉具定総督の東山道軍、先鋒隊鎮撫士の一隊が、岩鼻陣屋を征圧し、金井之恭たちを救いだします。偶然なのか、話を聞いていたのか、薩摩4番隊長川村与十郎が率いる薩摩の一隊だったといいます。
 で、金井之恭たちはただちに猫絵の殿様のもとへおもむき、新田官軍を立ち上げて、3月8日、東山道総督府の認可を受けるのです。

 えーと、です。
 最近の研究では、岩鼻陣屋は、上州世直し農民一揆で、2月19日に崩壊した、という話もあるようでして、だとすると、このとき金井之恭たちも解放されたんですかね。
 ともかく、新田官軍が立ち上がる直前の3月1日、小栗上野介は上州権田村に着き、4日、博徒に煽動されたこの一揆が、権田村を攻撃するんですね。上野介は、それこそ農兵を訓練していまして、あっさり一揆を撃退し、首謀者の首をはねます。
 この首謀者たちに、猫絵の殿様まわりの博徒などがいたとすれば、金井之恭たちのうちのだれかが、東山道軍総督府にちくった可能性は高いですよね。
 で、だとすれば、総督府からの命令を受けて高崎、安中、吉井の三藩が上野介を取り調べ、無罪だとしたにしても、総督府の方で受けつけなかった理由が見えてくるような気がするんです。
 金井之恭は、後年、相楽たちの顕彰に尽力したといいます。
 それにしても、フランスとの生糸独占取り引きの中心にあっただろう小栗上野介が、その政策も原因の一端となった上州世直し一揆の渦中に身を置いたことは、奇妙な縁です。

 東山道総督府から、小栗上野介のもとへ向かったのは、軍監豊永貫一郎と原保太郎が率いる一隊です。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたそうで、要するに、よせあつめの一隊だったようです。
 閏4月5日、小栗上野介の首をはねたのは、原保太郎自身だったという話もあり、そして、豊永貫一郎は、どうやら、小栗上野介がはるばるアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を奪って、乗り回したのです。
 月光に照らされた三条大橋のたもとで、新撰組に捨て身で立ち向かい、仲間の死と引き替えに命をまっとうしてから、まだ2年もたっていないのです。
 この10日ほど前には、同じく東山道総督府の命で、新撰組元局長・近藤勇が処刑されていました。


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