郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

鹿鳴館と伯爵夫人

2005年12月15日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
コメントで中井桜洲に触れましたので、メモ程度にちょっと書いておこうかな、と。
中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

中井弘は、明治27年に死去していますし、あんまりたいした伝記もありませんで、世に知られなくなってしまった人なのですが、彼がかかわったもっとも有名な事件は、イギリスのパークス公使を救ったことでしょうか。
鳥羽伏見の戦いの後、薩長に担がれた京都朝廷は、外交に乗り出すわけなんですが、「攘夷」を武器に倒幕運動を進めてきただけに、新政府は苦境に陥ります。
つまり、外国人殺傷をめぐる事件が頻発するのですが、ちょっとそれは置いておいて、中井です。
パークス公使が、天皇に拝謁のため、英兵に守られて、御所に向かっていたときのことです。二人の浪士がその行列に斬り込みました。
あまりに突然で、英国兵はふせぐことができず、次々に負傷します。このときパークスをかばって奮闘したのが、中井弘と後藤象二郎、なんですね。二人とも、剣の腕前もかなりなものだったようです。
後に二人は、ヴィクトリア女王から宝剣を送られました。

で、中井さん、開明派であると同時に、他藩士とのつきあいが深いですから、維新後は薩摩人脈には属さないで活躍します。パークス事件後、神奈川、東京の判事を務め、なにをやっていたかというと、戊辰戦争が続いていましたので、軍事費を調達していたんだそうです。
そのとき、後の井上伯爵夫人、幕臣の娘である新田武子と知り合ったわけなんですが、武子さんは芸者に出ていた、というように、後々には噂されました。
ところが、です。知り合って間もなく、中井さんは薩摩に引き戻されるんですね。薩摩藩からの呼び戻しであったようです。
帰ってみたところ、脱藩の罪は許されたのですが、上京は禁じられます。なんとか上京する方法はないかと考えていたところ、薩摩藩兵が御親兵となっていくにあたり、親しかった桐野が隊長の一人となって人選にあたっているというので、桐野に頼み込むんです。兵隊にもぐりこんで上京してしまえば、これまで培った人脈で、再び新政府に返り咲けますから。
それを桐野が快諾し、中井桜洲は上京を果たしました。
で、中井さんは武子さんを、武子さんと同じく幕臣の娘だった大隈重信夫人に預けておいたのですが、訪ねてみるとなんと、武子さんは長州の井上聞多とできていたんです。
大隈重信の築地の屋敷は大きく、聞多や伊藤博文など多数、主に開明派の若手が出入りしたり住み着いたりで、築地梁山泊と言われていまして、恋が芽生えたもののようです。聞多が武子さんを正式に夫人とする気があることを聞き、中井さんは「それならいい」と、あっさり引いたのだとか。
悶着があって別れたわけではありませんので、聞多と中井さんの親交は続き、聞多が外務大臣となり、鹿鳴館を作ったとき、名付け親になるんですね。
鹿鳴館における井上武子伯爵夫人の華麗なる活躍は、ピエール・ロチが『江戸の舞踏会』に書き残しております。
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