郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

揚州周延と桐野利秋

2008年02月17日 | 桐野利秋
  

 揚州(橋本)周延の錦絵「幻燈写真競 洋行」と「千代田之大奥 歌合」です。
双方とも、オリジナルプリントを持っています。
 周延は開化ものを得意とした明治の浮世絵師で、鹿鳴館風俗、というんでしょうか、バッスルスタイルの洋装の貴婦人の錦絵は、大方、この人の作です。
 明治の宮廷行事などもけっこう画題にしていまして、憲法と天皇のはざまに出しました憲法発布の錦絵も、周延のものです。
 私、この他にも周延の開化ものを持っていますが、「幻燈写真競 洋行」は、ネットで見かけてとても気に入り、神田古書街のお店に電話をかけて捜しまして、かなりな代金を払って、手に入れたものです。憲法発布の方は、安価に手に入りました。
 一方、周延は、幕府御家人の出身だといわれていまして、千代田之大奥シリーズも代表作で、こちらは残った数が多いのか、比較的安価に手に入ります。この歌合は三枚組で、三枚とも持っていますが、とりあえず右端のみをあげました。
 大奥シリーズは、最後のお立ち退きが夜の風景で、これも気に入って手にいれたのですが、えーと、私のスキャナーでは取り込めませんで、まだ、取り込みを頼んでなくって、あげることができません。
 状態や刷りをあまり気にしなければ、周延の錦絵は、ヤフー・オークションでけっこう安価に手に入るものがあります。

 で、です。本日、桐野ファンの先輩、中村太郎さまから、いろいろと資料を送っていただきましたところが、なんと、その周延と桐野が、上野の戦争で出会っていた、という記事があったんです!

 歴史読本昭和52年5月、渡辺慶一氏著の随筆です。
 周延が上野の戦争で幕府側にいて、有名な浮世絵師だと知った桐野が助けた、というんですが、うーん。どうなんでしょう。
 だいたい、私の持っております周延の錦絵は、全部明治20年代のもので、開化絵が20年代の前半、大奥が20年代後半、なんです。オークションで見かけた宮廷画で、明治10年代のものがあったようには記憶しているのですが、明治20年代が全盛期なんじゃないんでしょうか。
 御家人という話は聞いていましたし、周延が上野のお山に籠もっていても不思議はないんですが、当時から浮世絵師として活躍していた、というのが、ちょっと腑に落ちないんですけれども。
 貧乏御家人で浮世絵師、というのは、けっして珍しくないですし、たしかに明治以前から浮世絵師であってもおかしくはないのですが、ひっかかるのは、名前が知れていた、というところです。
 瓦解で禄を失い、本格的に浮世絵師として活動を始めたものだ、と、私は思いこんでいました。
 だいたい、周延が桐野と同じ天保9年(1838)生まれとは! もっと若いのかと勘違いを。

 この随筆によりますと、周延は御家人ではなく、越後高田藩(藩主は榊原家)の江戸屋敷詰め下級藩士(八石二人扶持)だったんだそうです。
 はじめは歌川国芳および二代目豊国に絵を学び、22、3歳ですでに、独立した版画家となり、一鶴斎または二代芳鶴と号したんだそうで、いや、22、3歳ならば、安政5、6年あたりで、安政の大獄のころ、ということになりますねえ。
 さらに豊原国周に師事して門弟中第一とうたわれるようになり、周延と称し、陽洲または陽洲斎と号して、どんどん大奥風俗絵を出した、とあるんですが、いや、大奥風俗絵ねえ。
 明治になるまで、大奥もそうなんですが、徳川家のことを、直接描くことはできなかったはずです。
 皇妹和宮さまの江戸お輿入れを、狐の嫁入りとして描いた錦絵がありまして(欲しいんですけど)、まあ、そういう風に、なにかに例えて描くならあり、でして、もしほんとうに幕末から大奥風俗を描いていたのだとしましたら、「偽紫田舎源氏」みたいに、足利将軍家の大奥、とでもして描いたんでしょうか。
 それで、「一説によれば、彼は濃艶な美人画ばかり描くので、朱子学を藩学とする藩侯に嫌われて、幕府の御家人に追いやられたが、これがかえって彼の画筆に幸運であったという」なのだそうです。

 さて、周延数えの30歳、幕府が瓦解します。
 高田藩主榊原政敬は、恭順を決し、長岡城の攻撃に官軍の先導を命ぜられて従軍。
 ああ、これは確か、越後口の長州の山縣有朋が、盟友・時山直八の戦死に呆然として、ものの役に立たないので、薩摩の黒田清隆と吉井友実が高田藩懐柔をはかって成功した、って話だったじゃなかったですかね。

 ともかく、それより以前、江戸の高田藩邸では、硬軟ニ派に分かれて対立。
 佐幕派は神木隊を結成して、彰義隊とともに上野のお山にこもります。
 周延もこれに加わり、さて上野戦争の当日。
 周延は黒門口の守りについていたそうなんですが、やがて攻めてくる薩摩藩兵に押されて、覚成院へ引き上げました。
 敗戦を悟った周延は、薩摩本陣に斬り込みをかけましたが、足に銃弾を受けて倒れ、薩摩藩兵にとらえられ、桐野の前に引き出されます。
 氏素性を問いただされ、「おれは絵かきの周延だ! さあ斬れ! 斬れ!」と叫びましたところが、桐野はただちに、黒門に近い絵草紙屋で調べさせ、いま売り出し中の周延であることがわかり、殺すに忍びず「すぐ帰れ!」と。
 周延は言い返します。
 「このままでは帰れん。死ぬ前におれの一言を聞け! 薩長はなぜ兵を収めないか? 将軍はすでに昨年10月、大政を奉還し職を辞しているではないか。(中略) 幕府に代わって薩長の政治にする積りか! おまえらこそ錦の御旗の影にかくれた逆賊だ! 許されない!」
 桐野はこれを聞き流し、二人の護衛兵をつけて、上野に送り返した(つまり釈放した)んだそうです。
 その後周延は、品川沖の榎本艦隊に至って蝦夷へ渡り、五稜郭陥落まで戦いぬいたんだそうです。

 いや、たしかに桐野は、上野戦争当日、一番小隊監軍として黒門口で戦っていますし、刀傷を負ってもいるのですが。
 どうにも話ができすぎていまして、西南戦争後に桐野が人気者となり(なにしろ絵双紙になったり歌舞伎になったりしてますし)、売り出し中の周延の人気を盛り上げようと、版元か絵双紙屋が作って流した逸話なんじゃないですかしらん。

追記
 どうもその、「越後高田藩榊原家」というのが、桐野との関係でひっかかっていたんですが、思い出しました! 桐野が陸軍少将時代に住んだ屋敷が、旧榊原家江戸屋敷(現岩崎邸)じゃないですか!
 もう、こうなってきますと周延が神木隊に入っていた、というあたりから、作り話めくんですが、もし本当なら、すごい因縁話ですよねえ。

 
 江戸の、といいますか明治の東京の庶民にとって、上野戦争と西南戦争は、妙な言い方ですが、物語の宝庫、だったように感じます。
 ほんとうだったのかどうか、月岡芳年の血みどろ錦絵は、上野の戦争を見に行って、写生した成果で、あんなにも迫力があるのだといいますし。これは、製作年代が上野戦争と近接していますし、ほんとうだったのではないか、という気がします。
 ちなみに芳年の錦絵の中でも、血みどろ武者絵はかなり高価でして、手が出ません。

 ただ、これも中村太郎さまが送ってくださった資料で、桐野は京都時代、絵を習っていたのだそうなのです。
 1968年発行、南日本放送の「維新と薩摩」図録に、丙子重陽、つまりは明治9年重陽の節句の日付がある、桐野の和歌入り書画の写真が載っておりまして、そのコピーです。
 山に咲く菊の絵で、モノクロのあまり大きくない写真のコピーですが、なかなかうまい絵のように見受けられます。
 和歌の方は、くずし字で、読めません。

 桐野が和歌を習っていたことは、市来四郎が断言していまして、薩摩で和歌を習うとなりますと、三千世界の鴉を殺しで書きましたように、八田知紀じいさまに習った可能性が高いんです。あるいは、八田のじいさまは、近衛家に嫁ぐ島津家の姫様について京にいたこともあったみたいですし、京の薩摩藩邸で希望者に教える、なんてことだったかもしれないですね。

 桐野が絵を習ったのは、中村太郎さまの推測では、丸山派の森寛斎だったのではないか、ということです。
 森寛斎は文化11年(1814)、長州藩士の子として生まれ、天保2年(1831)、大阪へ出て丸山応挙門下の森徹山に学んで養子となり、25歳で京都へ出て丸山派の復興をはかったんだそうです。
 その後、長州藩士に復して、密使として京都、長州間を往復。品川弥二郎とは長く親交があったんだとか。
 品川弥二郎は、薩長同盟の中心人物で、薩摩藩邸に長くひそんでいましたし、なるほど、長州びいきの桐野が絵を習った先生として、うなずけますよね。

追記
 中村太郎さまのご教授に従い、霊山歴史館に電話して、お聞きしました。
 桐野から森寛斎宛、二見浦の絵が入った葉書のようなものがあって、それを他館に貸し出して展示したことがあるのだそうです。お忙しい中でお聞きしたので、私の思い違いで、もしかすると桐野宛の森寛斎葉書、だったかもしれません。どちらにせよ、交際があったことは、確かなようです。

 ともかく、です。桐野はきっちり和歌も絵も習い、私、和歌はどうにも感心いたしませんが、絵心はかなりあるように感じます。
 つーか、けっこううまいんです。
 だから、もしかして、あるいは……、桐野が揚州周延を逃がした話も、ほんとうであったかも、しれないですね。

 正名くんといい周延といい、私はこのお気に入りの「幻燈写真競 洋行」を見るたびに、これからは桐野を思い浮かべることになりそうです。

 
人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする