郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末維新はエリザベートの時代 vol2

2017年01月28日 | 幕末東西

 幕末維新はエリザベートの時代 vol1の続きです。

 子供のころ、ディズニーアニメを見て、シンデレラの王子さまがなぜ軍服を着ているのか、不思議に思っていました。
 戦前でしたら、日本でも皇族方の正装は軍服で、妃殿下はロープデコルテでしたから、なにも不思議がることはなかったんでしょうけれども、なにしろ私は、戦後生まれです。

Cinderella 2015 - The Ball dance


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 上の「シンデレラ」は、一昨年公開されたディズニー実写版なんですが、王子様の軍服がおとぎ話風に装飾され、勲章も肩章もありません。1950年公開のもともとのアニメの方は、上着が白でズボンが赤。肩章つきで、いかにも軍服なんです。
 ディズニーアニメに遅れること4年、若き日のロミー・シュナイダーがシシィを演じて大ヒットしたオーストリア映画があります。「プリンセスシシー」です。
 
SISSI IMPERATRICE Valse


 
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 この映画のフランツ・ヨーゼフ皇帝の衣装、ディズニーアニメ「シンデレラ」の王子さまの軍服によく似ているんですよね。

[Trailer]エリザベート 愛と悲しみの皇妃


 「エリザベート 愛と悲しみの皇妃」は、2009年、イタリア・ドイツ・オーストリア共同製作のテレビドラマだそうですが、ここでもフランツは、白い上着に赤いズボンの軍服を着ていますから、オーストリア皇帝の軍服が、史実としてこの色だったんでしょうか。

 そして、どの場合も、二人が手をとって舞踏会で踊るのはワルツです。
 私、確か以前にも、19世紀とおとぎ話とワルツについて書いたような気がしたのですが、思い出しました! 19世紀の舞踏会とお城です! なんと10年以上前の記事で、モンブランの情報が欲しくて書いてたころですね。モンブランのことも、このときの疑問はほとんど解けたのですが、以下の部分。

 老夫婦が、貧相な屋根裏部屋で、時代遅れの王朝風の鬘をかぶってメヌエットを踊り、それを月が影絵として映し出す、といった情景だったと記憶しているんですが、なにに書かれていたのか思い出せなくて、しばらく考えあぐねて、ふと、あれはアンデルセンの『絵のない絵本』ではなかったかと思ったのですが、記憶ちがいでしょうか。 

 私の記憶ちがいでした! モーパッサンの短編「メヌエット」だったんです。
 19世紀、フランス革命も昔話となったパリのリュクサンブール公園で、前世紀の亡霊のように、優雅にメヌエットを踊る老夫妻を描いた、影絵のようなお話です。
 
 そして、以下の部分。

舞踏会もまたそうでして、男女が抱き合った形で踊る円舞曲(ワルツ)は、王朝文化から見るならば、近代的で野卑なものであったわけなのですが、イメージからするならば、シンデレラが王子さまと踊るのはワルツですね。結局のところ、「玉の輿」は身分制度が崩れてこそ成り立ちますので、ここは『山猫』のように、ワルツでいいんでしょう。 

 実はこれを書きました前日、映画『山猫』の円舞曲を書き、古典舞踏を解説してくれていたサイトさんを紹介していたのですが、現在、消えています。
 ワルツが近代的で野卑だといいますのは、言い換えれば、19世紀ヨーロッパはブルジョアの時代であり、ワルツはそれを代表する舞踏であって、決して王朝文化の産物ではない、ということです。

Luchino Visconti’s 1963 classic “Il Gattopardo” (The Leopard)


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 さて、その映画「山猫」のワルツです。
 バート・ランカスター演じるシチリアの大貴族・サリーナ公爵が、クラウディア・カルディナーレ演じる成り上がりのブルジョア娘・アンジェリカに誘われて、ワルツを踊ります。
 アンジェリカは、サリーナ公爵の甥・タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者なのですが、タンクレディは、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」というモットーのもと、貴族階級に属しながら、イタリア統一運動の先頭に立ち、旧支配打破の戦闘に身を投じて、しかもほどのいいところで身を引き、新興ブルジョアの娘と婚約します。
 サリーナ公爵は、甥の、あまり貴族的とはいえない、ぎらぎらとした変革と保身のエネルギーを容認し、伝統を壊すその婚約を擁護して、シチリアの貴族社会を黙らせるために、あえてアンジェリカと踊るのですが、それが、前世紀の貴族の価値観からすれば野卑な、しかし流行の最先端の感覚でいえば優美な、ワルツなのです。

 山猫のアンジェリカは、新興ブルジョアの娘が旧貴族の御曹司と正規の結婚をするという意味において、18世紀にはありえなかったシンデレラですし、意識してかどうか、「プリンセスシシー」のシシィのドレスに似た、白いふわふわとしたクリノリンスタイルの衣装をまとっています。
 実のところをいえば、シシィもシンデレラでしょう。

 シシィの実家は、バイエルン王家の傍系です。
 バイエルン王国誕生の話は、普仏戦争と前田正名 Vol7普仏戦争と前田正名 Vol8に書いておりますが、バイエルン王国は、フランス革命とナポレオンの中欧席巻の中で生まれた、いわば新興国でした。
 初代バイエルン王となりましたマクシミリアン1世は、当初、ナポレオンに協調して領土をひろげ、ナポレオン没落後も懸命の外交で、王国を保ちます。
 またマクシミリアンには多くの子女があり、王女たちの結婚を、うまく外交に役立てることができました。

 長女アウグステは、ナポレオンの養子・ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚。
 三女カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の四度目の妃。
 四女エリーザベト・ルドヴィカは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃。子はできませんでしたが、およそ20年王妃の座にあり、シシィの名付け親となりました。
 五女アマーリエ・アウグステは、ザクセン王ヨハン妃。
 六女ゾフィが、オーストリア大公フランツ・カールの妻。姉の義子に嫁ぎ、皇帝フランツ・ヨーゼフを産みました。
 七女マリア・アンナは、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の再婚の妃。つまり、姉の義兄に嫁いだわけです。
 そして
 八女マリア・ルドヴィカはバイエルン公爵マクシミリアンに嫁いで、シシィを産みました。

 バイエルン公爵家は、日本でいえば明治時代の宮家のようなものでして、バイエルン王家からは数代血筋が離れていますが王位の継承権はあり、ルドヴィカは王女でありながら、いわば明治天皇の皇女たちが宮家に嫁いだと同じように、対等の身分とはいえない分家に嫁いだわけです。
 若くして皇帝になりましたフランツ・ヨーゼフの母ゾフィは、数多い姉妹の嫁ぎ先から嫁をさがしていて、本命はプロイセン王家の娘でした。
 しかし、ドイツ統一の盟主の座をオーストリア帝国と競っていましたプロイセンは、王族の婚姻関係でしばられることを嫌い、またプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカには政治力が無く、断られました。
 次善の候補が、シシィの姉・ヘレーネだったのですが、フランツ・ヨーゼフは、15歳のシシィの方を気に入り、結婚の運びとなります。
 シシィとフランツ・ヨーゼフは、母方からいえばいとこで、本来ルドヴィカの思惑では、シシィはフランツの弟カール・ルートヴィヒにどうだろうということだったようでして、それならばつり合いがとれていたのですが、なにしろ相手は皇帝ですから、保守的なオーストリアの大貴族たちには、王女ではなく公爵家の娘では、と批判するむきもあり、シンデレラといえば確かにシンデレラ、でした。

 しかし、映画「山猫」に即していうならば、です。
 イタリア統一戦争当時の若きシシィは、その若さにもかかわらず、アンジェリカではなく、サリーナ公爵でした。
 自分たちの滅びを見通し、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」とわかっていながら、保身のための転身には怖気をふるい、身の置き所に窮していたのではないかと、思えます。

 「山猫」の舞台は、イタリア統一戦争時のシチリア。幕開けの1860年といえば、万延元年。横浜開港の翌年で、桜田門外の変が起こった年です。明治維新まで、あと8年。 と 映画『山猫』の円舞曲で書いたのですが、シシィは23歳、篤姫は24歳。
 ともに激動をくぐりぬけました二人のシンデレラは、ともに滅びの側に身を置いていました。
 直接、二人の人生がまじわることはありませんでしたけれども、30代、美貌を誇ったシシィは、宮中午餐会の席で、さる日本人の隣に座し、ちょっとびっくりするような問いを発しています。

 ウィーン宮廷には、シーボルト一族も大きく関係していますし、もう少し、シシィの生涯を追ってみたいと思います。

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9 コメント

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よくぞご指摘を! (urara)
2017-04-03 23:57:19
郎女さんこんにちは

ご指摘下さいまして有難うございます。

「高杉晋作」ではなく「高野長英」です。 解っている
はずなのに何故か間違えてしまいます、ほんとに
お恥ずかしい限り、歳はとりたくないものです。

さて、おっしゃる通り宇和島の養殖真珠、そして神戸
には真珠商の会社やお店が沢山有ります。

実は私、その真珠などと多いに関係がございまして、
真珠や宝石、プラチナや金で指輪・ペンダント・
ブローチなどの宝飾品を作っておりました。

今は修理などやっておりますが、あと何年出来るか
解りません。

先週の土・日の2日間宇和町へ老儀母の見舞いに
帰っておりました。 時間が有れば街並みを探索
しようかと考えておりましたが今回は叶いません
でした。

またこのブログに訪問させて頂きたいと思いますの
で宜しくお願いいたします。

失礼しました。
返信する
ありがとうございます (クレール)
2017-03-24 17:06:36
大変くわしい情報をありがとうございます。
そうですか。「私生児の欧亜混血の助産婦」という言い方しているのですか。ハインリッヒ・クーデンホーフは、ハプスブルグに仕える貴族としては、割合公平で、自由な考え方ができる人だと思っていましたが、それが当時の一般的な見方で、おイネさんへの悪意からではなく、公の立場にいる人間としてそう表現するしかなかったと、考えてもいいのですね。ハインリッヒ・シーボルトへの好意からとの意見だったということには安心しました。
それにしても、いつも膨大な資料、すばらしいです。
小説を始められたとのこと、ぜひ完成させてくださいね。
返信する
はじめまして。 (郎女)
2017-03-24 14:06:48
ようこそ。
中途半端なことを書いてしまって、ちょっと後悔しているのですが、おイネさんの生涯を考える上においてかなり重要なことだと思いまして、つい。
 まず、ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーは、来日してまもなく青山光子と知り合い、結婚して長男が生まれたことになっているのですが、光子の実家が骨董店だったことから、シュミット村木眞寿美氏の「ミツコと七人の子供たち」では、ハインリッヒ・シーボルトが紹介したのではないか、と推測しておられます。
ハインリッヒ・シーボルトは、骨董に興味を持ちすぎていたのではなく、在日オーストリア公使館勤務のかたわら「大々的に骨董商を営んでいた」わけでして、そのことと「私生児の欧亜混血の助産婦の姉」の存在が、シーボルトの学歴のなさや中途半端な日本語の知識とあいまって、在日公使館での彼の外交官としての出世を不可能にしているのではないかと、クーデンホーフ=カレルギーは、書翰で本国へ伝えているんですね。彼はむしろハインリッヒ・シーボルトの将来を思んばかって、欧州に転勤させてやるべきではないか、と好意を見せていまして、個人的には、おイネさんに悪意はなかったと思いますが、「私生児で助産婦」である姉は、オーストリア帝国の外交官にふさわしくない存在だと言っているわけです。
だからこそクーデンホーフ=カレルギーは、自分の息子を私生児にしないために最大の努力を払ったわけです。
 この時期、高子さんの二度目の夫が死去し、おイネさんは孫のめんどうをみるために、一家で長崎を引き払い、ハインリッヒを頼って東京へ出てきています。
光子の日本生まれの二人の息子は、イネさんが取り上げた可能性も大きいと思います、
返信する
ボンジュール (クレール)
2017-03-24 00:50:17
いつも楽しく拝見しています。
フランスに住んで、すでに二十年以上になります。私も幕末維新に関してはとても関心をもっていますので、あなたのブログは大変興味深く拝見しています。
ところで教えてください。ハインリッヒがおイネさんに関してあまり好意的でないことを書いているということですが、どんなことを言っているのでしょうか。彼がハインリッヒ・シーボルトについて、「骨董品に興味を持ち過ぎ、仕事がおろそかになっている」と報告書に書いたらしいことは知っていましたが、おイネさんに関しても何か言っていたのですか。ということは、お二人はどこかで会っていたのでしょうか。もしそうなら、面白いですね。もし、差し支えなかったら教えていただけますか。
返信する
ようこそ (郎女)
2017-03-18 01:11:27
お越しくださいました。
卯之町はいいところですけれども、神戸もいいところではないか、と思います。宇和島の真珠が神戸で加工されるような関係もありますし、南予と神戸は、なんとなく関係が深い気がします。

えーと、一つだけ。高杉晋作ではなく、高野長英の隠れ家ですよね? だとすると、うー、ちょっとショックかも、です。最近、すっかりオタクモードに入っておりますので、普通の方の感覚がわかり辛くなっておりまして。髙野長英はともかく、高杉晋作も、一般的には、あまりくわしく知られているわけではないんですよねえ。

 ブログ、訪問させていただきました。イカナゴの記事を拝見し、父の生前を懐かしく思い出しました。父は北条の出身ですが、イカナゴが好きでした。

 どうぞ、またお越しくださいませ。
返信する
訂正致します (urara)
2017-03-17 20:26:47
前のコメントで”名前”の欄で

× urra
○ urara

の通り訂正いたします

返信する
初めまして! (urra)
2017-03-17 15:53:57
 突然失礼します

郎女さんで宜しいのでしょうか?

私が”楠本イネ”について検索しておりましたら、郎女
さんのブログにお目にかかる事となりまして、記事を
見せて頂きました。

幕末・維新の事、すごく研究していらっしゃるので関心
しております。

さて私は昭和22年に大洲市肱川(母の里)で生まれ
、すぐに卯之町に引っ越したそうです。

引っ越し先が今の「先哲記念館」の場所でありまして、
以前は「池田屋」と言う酒造メーカーで、使っていない
酒蔵を借りてそこを住処にしていました。

まさに、イネにまつわる展示品があったその場所で
私は幼少期を過ごしておりました。

4年前に私もイネの展示会を見ておりました、その時までイネのことは殆ど興味がなく知りませんでした。

なんて言うんでしょうか?笑

近所には「高杉晋作」の隠れ家や、漬物女将で有名
な「松屋旅館」もあり後になって歴史的な場所なんだ
と思うようになりました。

16歳で就職するため神戸に行き今に至っております


ブログは昨年から始めております、良ければお立ち
寄りください。

失礼しました



返信する
お久しぶりです。 (郎女)
2017-02-26 03:31:14
偶然、といいますか、必然、でしょうか。青山光子が結婚したハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーは、在日オーストリア公使館に勤務していたわけですから、おイネさんの弟(ハインリッヒ)の上司だったことは知っていたのですが、最近、書翰の中で、おイネさんの存在にまで言及していることを知り、それがあまり好意的なものではなかったので、ショックでした。しかし、そのオーストリア帝国の確固とした価値観が、彼と光子さんの子供たちの時代には、もののみごとにくずれ落ちるんですよねえ。ほんとに、劇的です。今度また東京へ行くことがありましたら、ぜひお会いしたいと思っております。
返信する
エリザベート (agnes)
2017-02-24 20:51:30
ご無沙汰しています。久しぶりにブログを拝見したらエリザベートのことが。一時期仕事をしていない時期あがり、近所の図書館で牛込納戸町出身の青山光子の本を読んでいるうちに(住まいが同じ地域なので非常に親近感を覚えました)、エリザベートに触手を伸ばし、ウィーンとブタペストまで旅行に行ったことがあります。お芝居は後追いでしたが、やはり幕末明治のころはどこも時代が変化するときでわくわくしますね。19世紀中期から20世紀初頭、郎女さんのように繋げて説明されると日本の近世史もわくわくしてきます。
返信する

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