郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

花の都で平仮名ノ説

2005年12月14日 | 幕末東西
えーと、なんといいますかこのブログ、モンブラン伯の情報をお願いする、という最初の目的から、脱線してしまっておりますが、昨日、TBをはらせていただくのでぐぐったり、TBしていただいたりで、いろいろと楽しく読ませていただきましたし、とりあえず国語の話題を幕末へと引っ張ってみることにしました。

以前に書きました1867年、帝政パリでの万国博覧会において、幕府の出品の一環として、民間からも出品者を募ったんですね。
このとき、民間からただ一人話に乗ったのが、江戸の商人、清水卯三郎です。
生まれたのは、武蔵国埼玉郡の豪農の家でしたが、薬種業と造り酒屋も営んでいて、後に江戸の浅草にも店舗をかまえますが、そんな関係から、蘭学に興味を持って学びます。
非常に好奇心が強かったみたいで、ロシアのプチャーチンが下田に来たときには、川路聖謨の臨時の足軽にしてもらって、ロシア人に接触し、ロシア語を学んだりします。その後、英語も学んで、福沢諭吉や、薩摩の松木弘安(寺島宗則)なととも知り合いでした。
薩英戦争のときです。イギリスは、薩摩へ行くのに、文書の通訳に困ったんですね。話し言葉は通訳がいるのですが、薩摩側から文書をよこされた場合、それを読む能力がない。かといって、幕府の役人についてきてもらうわけにもいかず、清水卯三郎ならば、民間人ですし、英語もできて漢文も読める、というわけで、卯三郎は、通訳としてイギリス軍艦に乗ってくれ、と頼まれたのです。

余談になりますが、うちの地方の元回船問屋から出た古文書に、薩英戦争の絵図があります。簡略なもので、部屋に飾ったりするものではなく、情報を伝えるための絵図です。古書店で見かけて、出所を聞いて、写しにしても、もともとの絵はだれが描いたものだったのだろう、鹿児島商人かな、と思ったのですが、あるいは、卯三郎さんかも、しれないですね。

まあ、そんなこんなで、卯三郎さんは薩英戦争を見物し、わざと英艦の捕虜になった松木弘安と五代友厚をかくまったりしたことが、『福翁自伝』に書いてあります。『福翁自伝』は、いうまでもなく福沢諭吉の自伝です。
その卯三郎さんがパリへ行ったのは、もちろん商品の売り込みもあったのでしょうし、一番知られているのは、万博会場に水茶屋を出して芸者を置き、評判になったことなんですが、一方、彼には、近代化のために導入できる機械などを購入する、という目的もあったんですね。活版印刷の機械を買い、そのためのひらがなの字母をつくらせてもいます。この機械は、後に『東京日々新聞』が買ったそうですが。

また余談になりますが、この万博には、後に実業家になった渋沢栄一も参加しています。
渋沢栄一も卯三郎と同じように、関東の富裕郷士の出ですが、攘夷運動であばれていたところ、機会を得て一橋家に雇われ、抜擢されたものです。民間ではなく、幕府の使節団の会計係のような形でして、こちらは、経済運営の面で、いろいろと知識を仕入れることになったようです。
ますます余談ですが、このお方は、パリに渡る直前まで京都にいましたから、新撰組とも接触があり、たしか土方の印象を語り残していたはずです。

で、本論に帰りますと、その卯三郎さんが、です。明治のはじめに『平仮名ノ説』という論文を書いていまして、要するに、「漢字をつかうのをやめて全部平仮名にしてしまおう」という話らしいのですが、実は読んでいませんので、詳しいことはわかりません。
印刷における合理性を考えたのでしょうか。あるいは化学教育の普及のためを考えたのでしょうか。
炭素を「すみね」、水素を「みずね」というような、独特な用語まで作っていたんだそうです。
いま現在の感覚からしますと、そこで大和言葉をもってくるかな、と、不思議な気がします。卯三郎さん自身は、もちろん、漢文の教養も十分に持っていたのです。
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