郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

鹿鳴館と軍楽隊

2008年01月25日 | 明治音楽
鹿鳴館 (新潮文庫)三島 由紀夫新潮社このアイテムの詳細を見る



 本日は、前回のチェロが歌う「海ゆかば」の続きです。

 1月5日の夜です。
 風邪をひきこんでいましたから、寝床でテレビでも見るしかないなというのもあって、フジの「のだめカンタービレ」にしようか、テレ朝の「鹿鳴館」にしようか迷ったのですが、のだめはどうも、原作のイメージとあわなかったので、これも感心しないなあ、と思いつつ、「鹿鳴館」を見ておりました。
 こちらも原作は読んでおりますので、どう処理するだろうか、ちょっと見てみたい場面がありまして。
 気になっていたのは、鹿鳴館における舞曲演奏です。いったいだれが演奏していたのか? です。

 去年の正月、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌で、
「実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています」
と書き、そのときは、それもそうかな、と思っていたのですが、次第に、いや、別に皮肉でもグロテスクでもないんじゃなかろうか、と思うようになりまして。

 ピエール・ロチの「江戸の舞踏会」(「秋の日本」収録)については、猫絵と江戸の勤王気分で触れました。
 原作である三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」にロチは出てきていませんが、テレ朝ドラマはロチを出していましたから、「江戸の舞踏会」とテレ朝ドラマは、同じ日の夜会を描いているわけです。
 ピエール・ロチの来日は明治十八年。「江戸の舞踏会」はその年の天長節の夜会を描いたもので、主催者は外務大臣井上馨と夫人の武子です。で、三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロイン影山朝子も、井上武子伯爵夫人をモデルにしている、といわれていますので、同じ日であっても不思議はないわけです。

 モンブラン伯にとりつかれたあたりから、なんですが、鹿鳴館の舞踏伴奏はだれがしていたのだろう? とふと思うようになりまして、そこのところを気にしながら、「江戸の舞踏会」を読み返してみたのです。
 以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。
 
「一方はフランス人、もう一方はドイツ人の、二組の完全なオーケストラが、片隅に隠れて、最も著名なフランスのオペレットから抜萃した堂々たる四組舞踏曲《コントルダンス》を演奏している」

 当時の日本で、きっちり舞踏曲を演奏できる楽団といえば、陸海の軍楽隊しかないはずなのです。
 おまけに、当時の軍楽長は、陸軍がフランス人のシャルル・ルルー、海軍がドイツ人のフランツ・エッケルトですから、フランス人、ドイツ人というのは指揮者の話で、日本の陸海軍楽隊の競演でまちがいなかろう、とは思ったのですが、ひっかかったのは、「オーケストラ」という言葉です。
 オーケストラは、管弦楽団です。しかし軍楽隊は吹奏楽団。つまり、基本的にヴァイオリンなどの弦楽器がありません。

 ロチの原文は、本当に管弦楽団となっているのでしょうか。
 フランス語が読めませんし、確かめようもないのですが、どんなものなんでしょう。
 ロチは海軍士官です。軍艦には軍楽隊が乗り込んでいて、寄港先でその地の有力者の娘さんなどを招き、軍楽隊の伴奏、つまいは吹奏楽で舞踏会を開く、というのは、当時の普通の軍艦外交ですから、ロチは、軍楽隊の伴奏を当然と思っていたはずなのです。
 本当に管弦楽団なら、宮内省洋楽部も鹿鳴館で演奏していた、という話ですから、そういう場合には、軍楽隊にまざって弦楽器を受け持ったのかなあ、などとも思ったりしていました。

 宮内省洋楽部、というのは、です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1で書きましたような状況で、あるいはモンブラン伯が指南なんぞしたのでは、と私は妄想するのですが、西洋の儀式、儀礼には、音楽がつきものです。
 で、日本で儀式音楽といえば、雅楽しかありません。
 王政復古はなりましたし、先祖代々雅楽を伝えてきた朝廷の奏者たちが、がぜんはりきったんですね。
 
 西洋の軍楽と儀式音楽は、同じようなものでして、つけくわえるならば、舞踏音楽もそうです。

 日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります。
 すぐに藩はなくなり、この薩摩バンドは、陸海にわかれて軍楽隊の中核となりますが、自藩の勢力が強い海軍へ行くことをみんな望んで、陸軍軍楽隊は当初、海軍よりも貧弱であったようです。

 で、まあ、おそらく、です。欧米諸国との外交儀礼のたびに、薩摩バンドを中核とする軍楽隊と、古式豊かな雅楽でなんとかしのいでいたのでしょうけれども、はりきった雅楽奏者たちが、軍楽隊に出向いて、洋楽も学ぶことになったんですね。
 その雅楽奏者の一部は、そのうち弦楽も学んだ、というのですが、これがだれに学んだものやら、よくはわかっておりません。
 ともかく、です。明治12年から海軍軍楽隊の軍楽長となりましたエッケルトが、雅楽隊の方のめんどうもみまして、そのときには弦楽器も教えたそうなのですが、どうやらエッケルトはあまり弾けなかったようで、自分が弾いて指導は、できなかったそうなのです。
 このようにして、宮内省洋楽部には弦楽奏者が幾人かいたのですが、少数です。基本的には、軍楽隊の吹奏楽であったはずだよなあ、などと考えていましたら、洋楽導入者の軌跡―日本近代洋楽史序説という本にめぐりあいまして、やはりそうだったんです。
 日本の洋楽の歴史に詳しい堀内敬三氏が、実際に鹿鳴館で演奏した古老の談話から、「伴奏には陸海軍の軍楽隊が出張し、時々宮内省の人達も出たが、すべて吹奏楽でやったので管弦楽は使われなかった」と書かれているそうでして。
 また、どうやら、エッケルトは、明治18年天長節夜会に、鹿鳴館で海軍軍楽隊を指揮したような記録があるようでして、一方のシャルル・ルルーも、陸軍軍楽隊の指揮をしていたことは、ほぼまちがいないでしょう。

 芥川龍之介の短編に、ロチの「江戸の舞踏会」を素材として、その後日談を描いたとも言える「舞踏会」 (角川文庫)があります。
 芥川龍之介が、原文で「江戸の舞踏会」を読んだのかどうか知らないのですが、この「舞踏会」でも、鹿鳴館に響いていた音楽は管弦楽です。
 
 そして、困ったことに三島由紀夫も、「階段より外国人の楽士二組が手に手に楽器を携えて登場。ドイツ人の一組、フランス人の一組である」と書いていまして、ピエール・ロチの記述からなんでしょうけれども、完全に誤解していますよね。

 それで、もちろん、なんですが、テレ朝ドラマも、軍楽隊を出しはしなかったですね。
 なぜか「外国人の楽士二組」を出しもせず、燕尾服だかモーニングだかを着た音大生風の日本人が……、つまりのだめカンタービレの登場人物のような人達が一生懸命ヴァイオリンなんかを弾く感じで、ものすごい違和感でした。
 といいますのも、その前に、ご婦人方が屋敷の庭から、練兵場の観閲式だかを遠望するシーンがありまして、当然、陸軍軍楽隊が演奏しただろう設定の、分列行進曲が流れていたんです。
 なんだかこう、軍楽は硬派、舞踏曲は軟派、という色分けですよね。
 しかし、行進曲と舞踏曲は兄弟のようなもので、軍楽隊とは、行進曲と共に、舞踏曲も演奏するものです。どちらも、当時の外交儀礼に欠かせないものでしたので。
 つまり、軍楽隊が演じますのは、基本的に公的な場でして、外務大臣が皇族の臨席を得て開く舞踏会は、個人的な趣味ではなく、公的な外交の場なのですから、軍楽隊が演じるのです。
 駐日各国大使館が催す舞踏会も、それぞれの国の軍楽隊が演奏していたわけですし。

 えーと、です、だから、シャルル・ルルーによる抜刀隊の初演が鹿鳴館であることは、ごく自然なことだったんです。

 いったい、芥川龍之介から三島由紀夫まで、この延々と続いている日本人の誤解はなんだったんでしょうか?
 どうも日本人には、音楽や舞踏といえば個人の楽しみ、という感覚が、かなり昔からしみついていたような気がするのです。

 雅楽はそもそも、王朝の舞曲であり、軍楽ともなりえる儀礼楽でしたよね。
 平安時代、雅楽の演奏家や舞人は、衛府に属してまして、衛府とはそもそも、軍事組織なんです。
 源氏物語で、光源氏と頭中将が青海波を舞う場面がありますが、二人は近衛の武官で、武官装束で舞うんです。
 武士の世になって、あいかわらず儀礼音楽といえば雅楽しかなかったのですけれども、音楽や舞踏が公的な催しにつかわれる場が少なくなっていき、儀礼音楽が軟弱なものだと受け取られるようになっていったのでしょうか。
 
 外交感覚にすぐれた薩摩藩が真っ先、そして雅楽奏者たち。という順番で、洋楽にとびついたのは、武と結びついた儀礼音楽の日本における貧弱さに、いち早く気づいたからなのだと思います。

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