郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

一夕夢迷、東海の雲

2007年02月17日 | 幕末長州
『秋月悌次郎 老日本の面影』

作品社

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品切れ本のデーターを貼り付けても、という気がするのですが、古書で手に入りました。
ふう、びっくりしたー白虎隊 で書きました『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』を読んでから、ぜひ読みたいと思っていた本です。
本論にはあまり関係ないのですが、勝海舟というお方は‥‥‥ の矢田堀鴻とも知り合いだったとは。二人とも、昌平坂学問所にいたんですから、あたりまえといえばあたりまえなんですが、長岡藩の河井継之助とともに、長崎のオランダ海軍伝習所にいた矢田堀を訪ねる一こまは、後のそれぞれの運命の転変を思えば、晩年の悌次郎がかかえた「老日本の面影」が、けっして単純な懐古ではなかったことを、うかがわせてくれるものです。

そして、さすがに、松本健一氏の描く秋月悌次郎像は、枯淡な墨絵のようでありながら、「保守」思想家であることのパトスを、強く感じさせてくれるものでした。
私、あまり漢詩には詳しくないのですが、といいますか、昔教育実習をしたときも、漢文の授業だけは逃げさせてもらったほど苦手ですが、「行くに輿無く、帰るに家無し」の悌次郎の絶唱は、さすがに知っていました。しかし、その晩年に西郷隆盛の墓に参った時の七言絶句には、松本氏のおっしゃるように、たしかにより深く、響くものがあります。

 生きて相逢わず、死して相弔す
 足音よく九泉に達するや否や
 鞭を挙げて一笑す、敗余の兵
 亦これ行軍、薩州に入る

しかし、この本で驚いたのは、『非命の詩人 奥平謙介』が同時に収められていたことです。
奥平については、民富まずんば仁愛また何くにありやで少し触れましたが、かつて一度だけ面識があった‥‥、といいますか、長州を訪れた悌次郎に、まだ若かった謙介は、詩文を見てもらったことがありました。時は流れて戊辰、北越口で長州軍の参謀をしていた謙介は、会津降伏の後、猪苗代で謹慎する悌次郎に、心のこもった書状をよせるのです。その名文は、悌次郎の心をゆすっただけではなく、永岡久茂など、後に思案橋事件で、萩の乱に呼応することになる会津藩士たちの琴線にも、強く触れたのだそうです。

松本氏は、奥平謙介を、ある意味、悌次郎の対極にある「ロマン的革命家」と位置づけています。
なるほど、言われてみれば確かに、萩の乱の中心にあったのは、前原一誠ではなく奥平謙介であったのでしょうし、その奥平と連携していた永岡久茂は、評論新聞に務めていたのです。
評論新聞には、熊本協同体を組織して西南戦争に参加した宮崎八郎もいましたし、「不平士族」と一言で片付けてしまうことのできない、反政府勢力の結集があったのです。評論新聞とつながっていた桐野利秋については、「六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」という、市来四郎の論評もあります。

佐渡の知事であった時代の謙介が、地役人の家禄を止めて、開墾に従わせ、自らもいっしょになって農作業に励んだ、というエピソードをなども、謙介が、明治維新の革命としての側面に、過酷なまでに忠実であったことを、うかがわせます。
これは、あるいは私の記憶ちがいであるかもしれないのですが、明治維新を「社会民主主義革命」と規定した若き日の北一輝は、生まれ育った佐渡に残る、奥平謙介の伝説に惹かれていた、のではなかったでしょうか。
実は、松本健一氏の北一輝伝を、読んだのかどうか、思い出せないのです。上が記憶ちがいでないとすれば、おそらく、松本氏が書かれていたものだったと思います。読んだのだとすれば、図書館で借りた本だったのでしょう。

 身を致し誓って、妖気を掃わんと欲す
 一夕夢迷、東海の雲
 今日の和親、宿志に非ず

これは、謙介が「松蔭遺稿を読みて感有り」と題した詩の最初の部分なんですが、松本氏の解説によれば、「一夕夢迷、東海の雲」とは、松蔭がアメリカに渡ろうとしたことを指していて、しかし現在の日本のありさまは、松蔭がめざした「攘夷」ではない、ということになります。続いて、「今の政治家は尊攘檄徒をなだめるために、あざとく松蔭先生を利用しているだけで、日常に愛読することを忘れ、遺稿を燃しているに等しい」とまで詩っているとなりますと、昨日の坂本龍馬と中岡慎太郎 で書きました、慎太郎の「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず」という言葉が、浮かんできます。
久坂玄瑞、高杉晋作亡き後、もっとも濃厚に松蔭の革命思想を、理論的に受け継いでいたのは、中岡慎太郎ではなかったでしょうか。
奥平謙介は、感性でそれを受け継いでいたのだと言われてみると、確かにその通りだったのでしょう。
そしてそれが、たしかにロマン派とでも呼ぶしかないような、不器用なものであったればこそ、秋月悌次郎が悼むにふさわしい面影となって、謙介は黄泉路に赴いたのかもしれません。


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