郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折

2006年02月03日 | 幕末長州
「大丈夫、宇宙の間に生く、なんぞ久しく筆研につかへんや」と、高杉晋作は、大喜びしたんです。
万延元年(1860)、桜田門外で井伊大老が暗殺されたころ、高杉晋作は数えの22歳で結婚したばかり。藩の軍艦教授所に学んでいて、遠洋航海に出る丙辰丸の士分乗組員(つまりは海軍士官見習)に選ばれての大喜び、なんですが。
遠洋航海たって、たかだか江戸まで、です。

丙辰丸は、伊豆から船大工を招き、長州藩が独力で作り上げた洋式帆船でした。
なぜ伊豆からかといえば、これより6年ほど前のこと、安政の大地震にともなった津波で、ロシアの軍艦ディアナ号が破損し、修理のため駿河湾へまわったところが、暴風のため沈没。帰国のための帆船を、伊豆の戸田港で建造し、伊豆の船大工たちは、西洋帆船の造船を学んでいたんです。
その虎の子の洋式帆船を、長州藩は大阪との往復にのみ、使っていました。波穏やかな瀬戸内海航路、です。江戸へ行くような「遠洋航海」には、けっして出しませんでした。
それに不満だったのが、長崎のオランダ海軍伝習で、勝海舟と同窓だった、丙辰丸艦長の松島剛蔵です。
この年の一月、幕府の咸臨丸は、アメリカへ、本当の遠洋航海に出発しています。それを、たかだか江戸へ行くくらいで「遠洋航海」と言われてはたまりません。藩に嘆願書を出し、ようやく認められて、江戸まで「遠洋航海」をすることとなったのです。

高杉さん、すごい勢いです。
「宇宙の間に生きる大丈夫が、机にしがみついて閉じこもりになっていられるか!」
とでもいった意味でしょうか。
ところがところが、太平洋に出たところで、船酔いにでも苦しめられたのでしょうか。航海の後には、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と書き、船を離れます。
「性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね」、ですかしら。

航海術って、どちらかといえば技術系専門職、ですからねえ。たしかに、向いてなかったんでしょう。
もっともこのときから六年の後、第二次征長戦において、高杉は海軍総督を命じられます。
松島剛蔵はどうしていたか、ですって? このお方が維新まで生きていたら、長州閥も海軍に理解が深かっただろうに、と、思うんですよねえ。
そうなんです。松島剛蔵は、すでに元治元年(1864)、俗論派による藩内の政変で、斬首されてしまっていました。
彼は、吉田松陰の妹婿の実兄で、木戸考允(桂小五郎)が水戸藩士と結んだ密約は、丙辰丸船上で結ばれ、艦長の彼も署名したほどの尊攘派でした。
文久三年(1863)の馬関攘夷戦にも、積極的に参加しています。

長州は、丙辰丸に次いで、同じような洋式帆船、庚申丸を製造。両舷に八門のカノン砲を設置しました。砲の据え付けは、オランダ海軍士官に助言を受けて行われています。
さらに、二隻を購入してもいました。一隻は癸亥丸というイギリス製の小さな木造帆船でしたが、砲が10門。
もう一隻は壬戌丸といって、鉄張り蒸気船です。ただし壬戌丸は、藩主のご座船のような役割をする船で、軍艦ではなく、砲はありませんでした。
洋式船としては四隻を所有していたわけなのですが、丙辰丸にもしっかり戦えるだけの砲はなく、戦艦は、庚申丸、癸亥丸の二隻です。
松島剛蔵が艦長だった庚申丸は、アメリカ商船を砲撃し、次いでオランダ軍艦をも、癸亥丸といっしょに襲います。癸亥丸の艦長は、松島剛蔵に同じく、オランダ海軍の伝習を受けた福原清助です。
オランダ軍艦の乗組員は、心底、信じられなかったでしょう。

アメリカ合衆国の軍艦ワイオミング号は、南軍の巡洋艦をさがして香港に来て、見つからないまま在日アメリカ人保護を命じられて横浜にいたところへ、自国商船が襲撃されたとの知らせを受けました。
さっそく、報復のため馬関へ。停泊中の壬戌丸、庚申丸、癸亥丸を発見し、一番りっぱな壬戌丸を旗艦と見て、突進します。
庚申丸、癸亥丸は果敢に砲撃戦をいどみ、ワイオミング側は10名の死傷者を出しますが、壬戌丸、庚申丸は撃沈され、癸亥丸も修理不可能なまでの大破。
長州艦隊は全滅してしまったのです。

ここまでの参考文献、高杉晋作に関する部分は、『高杉晋作全集』なども見ておりますが、主に、村松剛著『醒めた炎―木戸孝允』全四巻(中公文庫)です。
この本は、巻末に出典がまとめられていて、すぐれものかと。

ところで、突然、長州海軍を思い浮かべましたのは、「宮古湾海戦において甲鉄(ストーン・ウォール)に乗っていたのはだれなのか」という疑問を提示されたTBをいただいて、大山柏著『戊辰役戦史』(時事通信社発行)を見てみましたところ、以下のように書いていました。

甲鉄について朝廷はこれを買い入れると同時に、長藩にお預けとなしたので、おもな乗組員は長人がこれに当たり、船将には中島四郎が任命され、百三十から百五十名が乗り込んでいた。

さらに篠原宏著『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』(リブロポート発行)を見てみました。これには宮古湾海戦に関する記述はなく、明治元年6月、榎本艦隊が品川沖にいて、アメリカが旧幕府海軍と新政府、どちらへの甲鉄引き渡しも拒んでいたころの、こんなエピソードを乗せています。

長州藩士六、七十人が、「ストン・ウォール」を手に入れてそれに乗って帰るためにイギリス汽船に乗って兵庫から横浜に来た。一行は、横浜駐在の政府当局者と連絡し、同艦を引き渡すことはできないと言われて引き揚げた。

つまり長州は、よほど戦艦を欲しがっていたようなのです。
それで、松島剛蔵と攘夷海戦を思い出したわけでした。
長州はワイオミングとの海戦で、三隻を失い、それ以降、満足に戦艦を持てないでいたんですよね。
もともと水軍の横行していた土地柄です。臣下に、元の村上水軍も組み込まれていましたし、御船手組の水夫たちもいたはずです。幕府の水夫が、元の塩飽水軍が主だったことを考えますと、長州はそもそもは、海軍を育てるに有利な土地柄だったはずなのです。
攘夷戦の段階で、操船技術はすでに培われていて、死傷者の数まで書いてなかったのですが、陸がすぐそばですし、死者はあまりなかったはず。
ただ、元の村上水軍は、周防大島に移住していたのですし、海軍には、周防出身者が多く、松島剛蔵亡き後、長州政庁で力をふるって予算をとりえる人材がなかった、とはいえます。
長州における周防出身者の冷遇は、よく知られていることです。
それで、高杉が海軍総督に座ったのでしょうけれども、座って間もなく、高杉も病に倒れます。
維新当時の長州は、乗組員は召し出せばいるけれども、船はなし状態、だったのではないんでしょうか。

「甲鉄は誰が動かしていたのか」とおっしゃる疑問は、甲鉄が大型船であったことから、操船技術が難しいものではないのか、ということだったのですが、それに関しては、個人サイトの掲示板で詳しい方にお聞きしましたところ、さして変わるものではない、とのことでした。
なお、函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) では省きましたが、甲鉄艦の詳しい履歴を、上記『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』から、要約して補っておきます。

もともとは、アメリカ南軍が、ミシシッピー川での北軍との戦闘を考えて、フランスのボルドーにある造船所に発注した2隻のうちの一つで、スフィンクスという名でした。喫水が浅く、海洋向きの船では、ないんですね。
南軍の敗色濃厚となったため、フランスの造船業者が、一隻をプロシャに、スフィンクスをデンマークにと、交戦中の2国に売りこんだところが、デンマークは敗戦で契約を破棄。ここで船名がオリンダとかわり、南軍の武器調達係の大佐が、オリンダを洋上奪取。アポルタージュですねえ。
ここで名前がストーン・ウォールとなり、北軍軍艦の追跡を受けて、キューバに逃げ込み、キューバに売り渡し。
北軍といいますか、合衆国政府が請け出して幕府に売り渡した、ということです。

写真は、以前にも使いましたが、長州海軍の本拠地だった三田尻を、七卿が身を寄せたお茶屋の大観楼から眺めたものです。

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