郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

革命は死に至るオプティミズムか

2007年02月18日 | 幕末長州
とりあえず、もしかしたら、昨日の一夕夢迷、東海の雲 の続きです。
松蔭の革命思想、と書きましたが、それを、わかりやすく、とは言いませんが、見事に解き明かしてくれている本があります。
野口武彦氏の『王道と革命の間 日本思想と孟子問題』です。
って、また品切れですね。いえ、昔、私が図書館で借りて読んだ時にも品切れで、当時は、インターネットで古書さがし、もできませんから、必要部分をコピーさせていただきました。

孟子です。孟子には、いやな思い出があります。大学の漢文が、一年間孟子の購読だったんですが、漢文嫌いの私は、さぼりまくって、たしか一度も授業に出ませんで、いざ試験。目の前の白文に、呆然としました。いえ、一応、山かけの書き下しと解釈文は暗記していたのですが、ものの見事に山がはずれまして。

しかし、です。野口武彦氏の上記の本の中の「われ聖賢におもねらず 吉田松陰の『講孟余話』」を読みまして、松蔭先生くらい興味深く孟子を解釈してくださる先生がいたら授業に出たのに、と思ったんですが、一度も授業に出なかったのですから、実は、おもしろいかどうかもわからなかったわけで、つくづく馬鹿です。

えーと、それは置いておいて、です。野口先生がおっしゃるには、松蔭の『講孟余話』は、「ひとくちにいうなら、それは幕末という江戸時代未曾有の、いや、日本の歴史上有数の危機的状況のさなかに生まれ合わせた一青年と孟子との間の、激しい思想的格闘の書」なのだそうです。
朱子の『孟子集註』をテキストにしながら、自由に読み解き、読み破り、「松蔭は孟子にわが同時代者を見出した」と、先生はおっしゃいます。

孟子は朱子学のテキストで、朱子学は江戸時代の御用学問ですから、もちろん通常は道徳書として講釈されるのですが、もともと「革命」の書である要素を、含んでいるのだそうです。
そういったイメージを、端的にあらわしているのが、江戸時代中期、上田秋成の『雨月物語』におさめられた『白峰』。平安末期の保元の乱に破れ、讃岐の松山(白峰)に流され、憤死した崇徳上皇のお話です。ちなみに、明治元年、明治天皇は、崇徳上皇の霊を慰めるため、白峰神社を造営されました。
それはともかく、です。「汝聞け。帝位は人の極なり。もし人道上より乱すときは、天の命に応じ、民の望にしたごうてこれを伐つ」と、崇徳上皇の霊は、物語の中で宣言するのですが、これこそ、孟子の革命思想、なのです。
どこが、って、えーと、下手な説明をしますと、です。
「帝の位は人間の中ではもっとも重いものであるけれども、帝もまた人間である。帝が人の道にはずれたときには、天の命令、民衆の望みに答えて、これを伐つ」というのですから、革命ですよね。
この孟子の革命思想を崇徳上皇に吹き込んだのは誰なのか。『保元物語』によれば、上皇とともに乱を起こして敗死した、左大臣・藤原頼長です。頼長は、現実に孟子を読破していたそうですが、当時の認識では、「革命」思想と思われていたわけでは、ないのだとか。ただ、江戸も中期になれば、孟子イコール不吉な革命思想、といったようなイメージがあって、上田秋成がうまく使った、と。

孟子の有名な言葉があります。
「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」
また下手な説明をしますと、「民がもっとも尊い。国家がその次で、君主はその後にくる」でしょうか。
これを、松蔭は、「これは、人の上に立つ者が自らをいましめる言葉だ」と受け流し、ここから、「異国のことはしばらく置く」といって、国体論を展開するんですね。
「この君民は開闢以来一日も相離れ得るものにあらず。故に、君あれば民あり、君なければ民なし。この義を弁ぜずしてこの章を読まば、毛唐人の口真似して、天下は一人の天下に非ず、天下の天下なりなどと罵り、国体を忘却するに至る」
つまり、ですね、「我が国では、国のはじまりの時から、帝と民は一心同体で、離れたことがない。それが我が国の歴史であり、根本なのだから、それを忘れて他国のまねをするべきではない」ということでしょう。

この国体論のどこが革命的かといいますと、帝と民は一心同体である、ということは、松蔭の他の著作とも照らし合わせてみますと、幕府も藩も突き抜けて、民が帝と一心同体である、となりえる論理展開だから、です。
天保12年(1841)、といいますから、松蔭が孟子に取り組んだ時期から、およそ20年近く以前の話でしょうか。土佐で、秘密裏に天保庄屋同盟が生まれています。これは、現実的には庄屋の地位向上を主張するものであったのですが、将軍も藩主も、そして庄屋も、帝の臣下であることにかわりはないと、簡単に言ってしまえば、帝の前にはみな平等だという、国学的な一君万民思想に通じる思考を内包していました。
ですから、土佐の庄屋であった中岡慎太郎は、松蔭の思想をすんなりと理解できたとも、いえると思うのです。

しかし、と野口先生は続けます。松蔭は、天皇を神格化しているのか、といえば、けっしてそうではない、と。
「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道かつてしかるにあらず。王朝の衰えてよりここに至り、またここに至りてより王朝ますます衰ふるなり」
「天子を雲の上の神さまのように思うのは、まちがいだ。昔はそうではなかった。天子が政治の主権をなくされてから、そういうことになったのだ」というのですから、史実に即した認識ですよね。
そして、あとが続きます。「天子が政治的な意志をもたれていた昔に帰ることが望ましいのだけれども、軽率に事がおこなわれると、かならずそれを口実に悪政を行う者が出てくるだろう」と。

これだけでも鋭い分析にうならされるのですが、松蔭はこういった認識のもとに、長州藩の学者、山県太華との書簡による論争で、ついに、倒幕論に至るのです。
私もちょっぴりは経験があるのですが、他人さまとの論争というものによって、自分でも意識していなかった方向へ、論理が展開していき、あらま、私はこう考えていたんだーと、論争相手に感謝することがあります。くらべるのもおこがましい、といいますか、私程度のは単なる思いつきでしかなかったりするのですが、松蔭と太華の論争は、実にスリリングに、時代の危機を切り開く論理を構築していくのです。

結論から言えば、です。結果、「主上御決心、後鳥羽・後醍醐両天皇の覆轍だに御厭ひ遊ばされず候はば、愚策言上もっとも願ふところに御座候」とまで、松蔭は唱えるようになりました。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府、後醍醐天皇は室町幕府と、ともに武家政権に戦いを挑み、敗れて流された天皇です。その失敗をおそれることなく、ぜひ、民に勅を下して、主権意志を示していただきたい、と。
帝と民が一体となって立ち上がる、草莽崛起論です。

しかし、では、どうやって草莽が主上を‥‥‥、天皇を動かすのか。
現実に、幕末に起こったことは、孝明天皇は決して倒幕を望まれはしなかった、という悪夢でした。
例えば、英国へ渡った土佐郷士の流離 2 で書きましたが、孝明天皇の勅命は、久光上洛にともなう西日本の志士たちの期待を、あきらかに裏切るものでした。
8.18政変も、もちろんそうだったでしょう。
そして、その悪夢の果てに、「玉(天皇)を奪われ候ては実に致し方なき事と甚だ懸念」という大久保利通の言葉にありますような、マキャヴェリズムに行き着きます。
こうなってくると、「天皇の主権」は、表象でしかありません。
それが、革命の現実というものなのでしょうけれども、では、思想家である松蔭は、天皇の意志と草莽のめざす方向の乖離を、どう考えていたのでしょうか。
「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」という確信を、「死に至るオプティミズムとでも呼びたくなるようなパトス」として、松蔭は所有していたのだと、野口先生はおっしゃるのです。そして、その信念に全身全霊を預けた、夾雑物のない松蔭の生涯は、美しい、と。

たしかに、大久保利通のマキャヴェリズムがなければ、維新は成立しなかったかもしれません。
しかしまた、松蔭の、常識では考えられないような熱情がなければ、そもそも倒幕の火は、ともりえなかったかもしれない、とも、いえるのではないでしょうか。


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