郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末残照・周防紀行

2013年05月04日 | 幕末長州

 謎の招賢閣 防府(三田尻)再訪の続きです。

 そのー、ですね。
 今回の最大の目的は、防府天満宮でしか売っていない幕末維新本!のご披露なのですが、防府天満宮へ行き着きますまでの周防の旅をついでに。かならずしも、順番通りに行ったわけではないのですけれども。
  4月27日(土曜日)から4月29日(月曜日)まで、山本栄一郎氏にご案内いただいた防長の旅は、MAP防長紀行 にマークしておりまして、そのうちの周防のご紹介です。

 

 松山から柳井港へ行きます防予フェリーは、この閑散とした三津港から出ています。
 広島行きなど、主な旅客船は、もう少し北の高浜港から出ていまして、三津港は、防予フェリーのほかは、平成の大合併で松山市に編入されました中島行きの船しか出ていません。
 防予フェリーの船内では、現在、食べ物は売っていないということをネットで見ていまして、しかし、売店に弁当くらいあるだろうと思っていましたら、パンと梅のおにぎりしか、ないんですね。

 

 結果、近くのスーパーにタクシーを乗りつけて買いましたのが、上のノリ弁です。
 デフレを象徴しますような、ものすごい安売りスーパーでして、198円の弁当!でしたから、最低料金とはいえ、タクシー代の方が高くつきました。
 いや、しかし……、このお値段にもかかわらず、おいしい弁当でしたわ。

 

 船内でノリ弁を食し、iPadで遊びつつ、着いた柳井港がまた、人影まばらで、さびれています。
 うーん。昔の方が、まだ人がいたように記憶しています。




 山本氏が迎えに来てくださり、私のリクエストに答えて、柳井港にほど近い月性展示館・清狂草堂へ連れていってくださいました。私にとりましては再訪ですが、山本氏は初めてでおられたそうです。
 写真上左の石碑は、月性の有名な漢詩の一節です

 男兒立志出郷關 學若無成不復還  
 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山  

 男児志を立て郷関を出ず 学若し成る無くんば復た還らず
 骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん 人間到る処青山あり

 月性は吉田松蔭より13歳年上です。
 文化14年(1817年)、山口県大畠町(平成の大合併で柳井市と合併)大字遠崎の浄土真宗本願寺派の妙円寺に生まれました。
 現在の柳井市のあたりは、大方、岩国藩領なのですが、遠崎のみは、周防大島への重要な渡航地として、長州萩本藩の飛地でした。
 周防大島は、能島・因島村上水軍を筆頭に、元伊予河野氏家臣団で、萩本藩御船手組となっていた人々が多く住み着き、その幹部の知行地が多かったですし、海運業の拠点だったのでしょう。遠崎の庄屋は、四国の瀬戸内海沿岸から俵物(清国へ輸出する海産物)を一手に集めて、長崎会所に納めていたんだそうです。

 月性は寺の跡継ぎでしたが、当時の僧侶神官は民間では最高の知識人でした。九州や京阪など各地に遊学。長崎で巨大なオランダ船を目の当たりにして、海防によせる思いを深くした、といわれます。
 ペリー来航の年には30代の半ば。知識僧として名を知られるようになっていました。
 本願寺法主に召されて京へ上り、「護法意見封事」(後に「仏法護国論」として全国の本願寺派一万寺に配布)を上程したり、また長州藩主にも「意見封事」「内海杞憂」を建白します。

 安政元年(1854年)、といいますから、ペリー再来航の年で、ロシア、イギリス、フランスの船団も修交を求めて来た年ですが、朝廷と幕府の間に大きな亀裂が走っているわけでもありませんでしたこの時期に、月性は、「討幕の詔(みことのり)をいただいて、他藩に先立って長州藩が勤皇を首唱するべき」と、藩主に向かって討幕!を上申したんです。幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ、西洋列強の武力には対抗できない、という論理です。

 月性は、松蔭の実兄の杉民治と親交があり、文通によって、松蔭にも多大な影響を与えます。
 革命は死に至るオプティミズムかに書きました松蔭の革命思想形成に、大きな影響を与えた人物でした。
 にもかかわらず、現代、月性の名があまり知られていないにつきましては、月性の直弟子は周防の人々が中心で、赤根武人、世良修蔵、大楽源太郎など、萩藩の中枢からは阻害され、非業の死を遂げた人物が多いことがあるでしょう。
 もう一つ、月性は安政5年(1858年)、井伊直弼が大老に就任し、安政の大獄が幕開ける直前に死去し、そののちの動乱とは関係しませんでした。



 次は柳井市の白壁の町並みです。
 実は、ここを訪れましたのは29日、帰途です。
 時間がありませんで駆け足でしたが、もう一度ゆっくりと訪れたい美しい街です。
 しかし……、祭日にもかかわらず閑散としています。かつての商都の賑わいは、遠く空の彼方に消えてしまった感じです。





 
 続きまして、柳井市の隣にあります光市の伊藤公記念公園・伊藤公資料館です。
 こちらは、山本氏のご推薦。もっとも私も、上の明治43年建築の旧伊藤博文邸が、大規模な補修の上、一般公開されたニュースをローカルテレビで見た覚えがありまして、連れて行っていただきました。
 下の写真は、伊藤博文生家の復元。

 初代内閣総理大臣・伊藤博文公爵は、周防の片田舎のこの束荷村に、農民・林十蔵の子として生まれました。
 伊藤性になったのは、父の十蔵が中間・水井武兵衛の養子となり、その水井武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、最下層ながら武家身分を得たためです。
 博文は後年、うちの近所の道後公園・湯築城跡を訪れまして、「遠祖は河野通弘の裔、淡路ヶ峠(松山市東部の丘陵)城主・林淡路守通起であった」と延べています。河野氏は、中世からの伊予の豪族でしたが、豊臣秀吉の四国攻めで破れ、領地を奪われ、家臣団も離散したんです。
 束荷村の林氏60軒は、かつて林淡路守が毛利氏を頼って河野氏再興を願い、破れて、周防に住み着いたその末裔、と言い伝えられていました。

 上の洋館は、功成り名を成し遂げました博文が、その林淡路守没後300年の法要を行うために林一族を集めようと、故郷の村に建築したのですが、明治42年10月、ハルピン駅で安重根の凶弾に倒れ、完成を見ることはできませんでした。
 博文は、9歳のときに、父に呼ばれて故郷を離れ、萩に出ます。
 周防出身者の多くが不運な生涯をたどる中で、そのことが、今太閤と呼ばれた博文の幸運につながったのでしょう。
 幕末の動乱をくぐりぬけて、自らの才覚を生かし、位人臣を極めました博文の一生は、山本氏のおっしゃる通り、ロマンに満ちているのかもしれません(笑)



 ようやく、防府です。
 大正5年に完成しました毛利邸(毛利博物館)
 毛利公爵家の館は、もちろん東京(高輪)にあったのですが、かつての本国にも館が欲しいということで、資金繰りに関しましては異様な能力を誇ります井上聞多が、明治25年からこの地を選んでいた、といいます。当時の長距離交通は海路が中心でして、防府は、山口県の中ではもっとも交通の便がよく、本邸を作るのならばここ、ということでした。

 さすが公爵邸、ともかく敷地が広大で、圧倒されます。
 しかし、訪れた時間が遅すぎまして、今回、廷内の見学はできませんでした。次回、かならず!




 いよいよ、防府天満宮です。下は境内の春風楼。ここからの防府の眺めは、絶品です。
 ここの歴史館には、ここでしか買えません書籍(歴史書)が、多数ならんでします。山本栄一郎氏が著者の一人として名前を並べておられます『男爵 楫取素彦の生涯』は、その一冊です。

 楫取素彦は、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております松島剛蔵の実弟で、吉田松陰の妹婿、つまり義弟です。
 素彦は最初、松蔭の実妹の寿(ひさ)と結婚していましたが、寿は明治14年に病で世を去ります。
 その2年後、素彦は54歳にして、前妻の妹で、久坂玄瑞の未亡人、39歳の文(ふみ)を後妻に迎えます。
 つまり、その実妹を二人まで妻にして、松陰とは濃い縁に結ばれた人でした。

 山本栄一郎氏が書いておられるのは、「書簡に見る明治後の楫取素彦」。
 萩博物館所蔵の楫取素彦書簡184通を解読された労作です。
 この184通、すべてが杉民治宛だそうでして、杉民治は、月性とも友人でした松陰の実兄です。

 民富まずんば仁愛また何くにありや一夕夢迷、東海の雲に書いております萩の乱ですが、反乱軍の側で戦死しました吉田小太郎は、杉民治の実子ですし、民治もあきらかに、反乱軍側に心をよせていた形跡があります。
 楫取素彦も微妙な立場なのですが、そのあたりの機微を、山本氏は的確に解き明かしてくださっていまして、出色のおもしろさでした。
 この本、通販しているのかどうかわからないのですが、どうしても、という方は、防府天満宮にお問い合わせください。

 次回は、冒頭で山本栄一郎氏の大発見をご紹介し、続きまして、その発見とも関係のあります幕末残照・長州紀行をお送りする予定です。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

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