郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中

2012年04月02日 | 幕末留学

 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上の続きです。
 前回に引き続きまして、主な参考書は下の「国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始」です。


国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 密航留学しました貞ちゃんは、さっそくロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)に籍を置きます。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、アーネスト・サトウの出身校でありますUCLは、「非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学」で、当時、極東からの異教徒の留学生がイングランドで学ぶ大学としましては、ここしかありませんでした。
 最初に密航留学を企てました長州ファイブのうち、井上、伊藤が帰国しまして、残された野村(井上勝)、遠藤、山尾は、やはりUCLにいたのですが、薩摩からの14名の留学生が入ってくるのと入れ替わりますように、山尾はスコットランドのグラスゴーへ造船を学びに行き、遠藤は病気になったこともあり、慶応2年のはじめには帰国を決めます。

 なお、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に出てまいりますが、単身、後からイギリスへたどりつきました竹田傭次郎は、スコットランドのアバディーンで、グラバーの実家にめんどうをみてもらうことになったようです。
 長州の遠藤が帰国するころには、山崎は世を去り、薩摩藩留学生も長沢鼎は早くからアバディーンへ行っていましたし、フランスへ行く者あり、帰国するものも多数ありで、UCLに残ったのは、森有礼、鮫島尚信、吉田清成、松村淳蔵、畠山義成の5人です。
 
 つまり、ですね。
 貞ちゃんはロンドンで、実に個性的な、薩摩英国ファイブとでも呼びたくなります5人と、濃くつきあっていた、ということになります。
 5人の中では、有礼が最年少なんですが、貞ちゃんはその有礼と同い年です。
 どのようにつきあっていたのか、その一端は、中井弘(中井桜洲)が書き留めてくれています。

 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の冒頭に、中井の「西洋紀行航海新説 下」から、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練の様子を引用しましたが、鮫ちゃん、ライオン清成、畠山ギムリ、松村校長が参加しましたこの演習で、中井さんは貞ちゃんに出会っているんです。

 「ローバカノハ一帯の高丘に在って海に臨み砲台あり。四方数十里の広原銃隊を以て寸地を見ざるにいたる。たがいに陣列を敷き縦横に隊伍をわかち発砲す。ほとんど実地の戦争を見るが如し。城より発する大砲は、海上の軍隊と対応し、その響き天地を動かせり。余(中井)、マーチンを失い、大いに困迫奔走す。偶然に長人南貞助に原野の間に逢う。あい共に調練の精しきを賞賛し、終に旅宿に投じ一杯を酌し、南に分れ火輪車に乗り、一睡夢覚めれば火輪車は龍動(ロンドン)に達す」

 上の引用、適当にカタカナをひらがなにしたり、漢字を開いたりしていますので、まちがいもあろうかと思います。「西洋紀行航海新説」は近デジにありますから、正確なところは、直接ご覧になってみてください。
 それにいたしましても。
 やっぱり、中井さんは文章がうまいですね。

 海に面したドーバーの野を、歩兵隊が埋めつくしています。
 城壁から大砲が撃たれ、海を埋める戦艦がそれに呼応します。
 中井は、案内してくれていたイギリス人のマーチンとはぐれてしまい、困り果てて右往左往しますが、そこで偶然、若き長州人の南貞助に出会い、大喜びです。
 演習のすばらしさを賞賛しあい、いっしょにパブに入って乾杯し、「南に別れて汽車に乗り、一眠り夢のまにまにロンドンに着いていた」というんです。

 大砲の轟きも白煙も、そんな中での貞ちゃんとの偶然の出会いも、ひとときの夢だったような、そんな不思議な臨場感をかもしだしてくれています。

 貞ちゃんがなんで広野にいたか、なんですけれども、貞ちゃんは別に、中井さんのフェアリーになるために広野にいたわけではなく、貞ちゃんはもともと、イギリスで陸軍の勉強をするつもりで、密航留学したわけだったんです。
 UCLに籍を置きます一方で、貞ちゃんは学費を借金しまして、ウーリッジで退職したイギリス陸軍大尉の家に下宿し、軍関係の私塾に通い、慶応2年の間に、ローレンス・オリファント(広瀬常と森有礼 美女ありき3参照)の尽力により、ウーリッジの王立陸軍士官学校に入学していました。

 ウーリッジの陸軍士官学校は、士官学校といいましても、砲兵及び工兵士官の養成をしていまして、貴族やジェントリーの子弟の希望が多い騎兵や歩兵の士官学校は、サンドハーストにありました。
 砲兵・工兵は、技術職ですから、もともと中産階級の子弟が学校で学ぶものでして、貴族やジェントリーの子弟が望む華やかさには欠けていたんですが、それよりなにより、数学、科学が重要視されていまして、入学試験のハードルがけっこう高かったわけです。

 晋作さんは、ですね。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますように、おそらくは船酔いと、そしてまたおそらくは数学に嫌気がさしまして、海軍に挫折しました後、文久2年(1862年)に上海に行きました折り、「数学啓蒙」など、洋数の漢訳書を買い込んで帰りました。
 きっと、ですね。自分のことは棚の上にあげまして、貞ちゃんに「数学の勉強だけはちゃんとしとけよ。砲術も航海術も、数学が基本だぜい!」と日々、言い聞かせていたにちがいありません。
 貞ちゃん、数学はかなりいけたようです。
 
 中井の「西洋紀行航海新説」には、当然のことながら、カルト教祖さまトーマス・レイク・ハリスも登場いたします。
 薩摩英国ファイブとハリス教団につきましては、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上広瀬常と森有礼 美女ありき3をごらんください。後者の方に、貞ちゃんがはまりかかったことも、書いております。

 小山騰氏の「国際結婚第一号」によりますと、アメリカのコロンビア大学に「ハリス・オリファント・ペーパーズ」という、ハリスとローレンス・オリファントの書簡などを集めました文書コレクションがあるのだそうです。
 その中の1867年(慶応3年)11月26日付、在アメリカのオリファントから在イギリスの親友宛書簡に、「南貞助は、アバディーンでグラバーの実家の世話になっている長州人二人が、渡米してハリス教団に入る許可を得るために、帰国した。青年の一人は、長州世子(Prince of Chosin)の甥である。南は、長州世子本人も説得し、渡米させる予定でいる」というようなことが、書かれているようです。
 小山氏によりますと、アバディーンの青年二人とは、たぶん毛利親直(変名は土肥又一)と服部潜蔵であろうとのことでして、毛利親直は阿川毛利家の出で、若干15歳。前年の長幕戦争(第二次征長)で、芸州方面の諸軍を統帥しているんだそうです。

 このオリファントの手紙につきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき3でご紹介しております林竹二氏の論文、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教にも出てまいりまして、林氏は、以下のように書いておられます。

 オリファントが上記書簡の中で記すところによると、薩摩の留学生と同じ年にロンドン大学に入った長州の南貞助は、当時帰国中であった。帰国の目的は、長州の藩主を説いて藩主自身の渡米を実現させるにあった。ハリスの許で彼に新生の真理を学ばせたいという大望を南は抱いていたのである。明らかに新生を受け容れる一人の藩主を見出す努力とみてよい。オリファントはまた、グラバーにこの計画実現に一役買わせるため、クーパーの影響力の行使を望んだ。さらに南は、当時スコットランドのアバディーンに留学中の長州のDokieとHatoriの渡米を実現するため藩主の許可(命令という言葉をオリファントは使っている)を得ることをも期待していた。この二人は、ハリスの許に来て新生の真理と清浄の生を生きる道を学ぶことを切望して、手紙を新生社によせたのである。オリファントによれば、Dokieは長州藩主の甥であり、Hatoriは「下関のプリンス」の家老の息子であった。

 貞ちゃんの自叙伝によりますと、慶応三年の突然の帰国は、借金がかさんで学費が続かなくなったためということでして、ハリスのハの字も出てこない、ということなのですけれども。
 しかし貞ちゃんの言うことをそのまま信じますと、一千両を、ですね。上海からイギリスへの旅費として使い切ってしまい、借金ばかりで少なくとも一年半はイギリスに滞在し、帰りの旅費はどうしたのか、とにもかくにも日本へ帰り着いた、というわけのわからないことになりまして、とてもじゃないですけれども、私には信じられません。

 とにもかくにも、帰国の途につきました貞ちゃんは、香港で晋作さんの訃報に接しました。
 小山氏の推測では、維新直前に長州へ帰りつきました貞ちゃんは、ハリス教団の影響からすぐに覚めて、世子の渡米はもちろん、二人の長州人の渡米許可を求めることもしなかったのではないか、ということです。
 確かに、学費がない、ということなんでしたら、薩摩英国ファイブ+長沢とともに渡米してハリス教団に入ってしまえばよかったわけでして、洗脳の程度が浅かったのかなあ、という気がしないでもないのですけれども、貞ちゃん本人はぜひそうしたいと思っていましたところが、オリファントとハリスが、貞ちゃん一人ではなく、もっと大きな魚を狙いまして、貞ちゃんを長州に帰したのではないか、と私は思います。

 あー、で、とにもかくにも貞ちゃんは帰国しまして、世子だけではなく、伊藤や木戸などもつかまえて、えー、ぜひ新生のために世子さまの渡米をーだとかなんとか言ってみたんだと思うのですが、いったい貞ちゃんがなにを言っているのか、世子にもだれにもさっぱりわからず、まったく相手にされなかっただけの話ではないんでしょうか。

 貞ちゃんは、鳥羽伏見の戦いがはじまるまで、長州諸隊から選ばれましたエリート軍団に、英国式調練をほどこしたりしていましたが、どうも鳥羽伏見の直後から上方へ行き、外国官権判事になりました。
 えーと。一方、渡米して洗脳覚めやらぬ鮫ちゃんと有礼は、しかし憂慮しました薩摩藩政庁が、ハリスに二人の帰国旅費を送りましたことで、教祖様の祝福を受けて帰国。明治元年6月、大久保か小松かに呼び寄せられたのでしょう。京都に姿を見せます。
 貞ちゃんによりますと、「先に帰国していた自分が、鮫ちゃんと有礼くんを、三条実美、岩倉具視に紹介して、自分と同じ外国官権判事にしてもらった」ということなんですけれども。

 なんか……、私、二十歳そこそこの有礼と貞ちゃんと、それより二つ上なだけの鮫ちゃんと、それぞれにけっこうな美形の三人のこのときの会話を想像しますと、エキセントリックで濃すぎまして、そのまわりから浮きました三人だけの世界が……、怖いっ!です。

 前年(慶応3年)のパリで、おそらく貞ちゃんも含めまして、面識がありましたはずのモンブラン伯爵がこのとき上方にいまして、少なくとも貞ちゃんは会ったはずです。
 しかし、このときのモンブラン伯爵につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上に書いておりますが、私は、以下のようなことを推測しております。

 鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。
 
 モンブランのせいだったかどうかは置いておきまして、長州陸軍はフランス兵制を採用しましたから、ここで貞ちゃんは、陸軍とは縁切りです。
 それはまあ、悪いことではなかったかもしれないのですが、その後、明治3年、箱館府判事に任官しまして、思わぬところで貞ちゃんの名前が見受けられます。
 ガルトネル開墾条約事件の後始末です。

 えーと。この事件もちょこっと明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てくるんですけれども、幕府から蝦夷地を引き継ぎました薩摩の井上石見が、幕府のころからのつながりで、リヒャルト・ガトネルを雇い入れ、七飯を開墾して模範農場を作ろう、というようなことを計画していたのですが、志半ばに船舶事故で行方不明となり、そうこうしますうちに、榎本武揚を中心とします旧幕府軍が上陸してきまして蝦夷地を占領し、300万坪という広大な土地を99年間リヒャルト・ガルトネルに貸すという、とんでもない契約を結んでしまいます。
 北方資料データベースで、蝦夷地七重村開墾條約書が公開されておりまして、19ページには永井玄番と中島三郎助、20ページには榎本武揚の署名があります。

 その後始末を、最初に担当しましたのが、箱館府判事の貞ちゃんでして、これはfhさまから教えていただいたのですが、国立公文書館のデジタルアーカイブで、孛国商人カルトネルヘ貸与セシ箱館七重村地所取戻始末(太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五十九巻・外国交際・開港市二)を見ることができまして、このときの貞ちゃんがまた、え、え、えええええっ???という感じだったことがわかります。

 要するに外務省は、えー、外務省って、おそらくは外務大輔になっていました寺島宗則が、だと思うのですが、箱館府が勝手に新しくガルトネルと条約を結んでしまいましたことに疑問を持ち、問いただすんですね。
 箱館府知事・清水谷公考は、「南に丸投げしましたよって、知りませんのや」といい、当時はまだ藩が存在しまして、貞ちゃんへの問い合わせの答えは、山口県公用人の手を経て出されています。

 まあ、結論からいいまして、300万坪という広大な土地ではなくなっていますが、7万坪なのか10町四方なのか、ともかく、ガルトネルを雇う話ではなく、土地を貸し出す話になってしまっているんですね。
 結局、この事件は外務省が引き取って決着をつけますが、貞ちゃん、けっこうなうかつさ、です。

 というところで、破天荒な貞ちゃんの物語は、次回に続きます。
 次回で終わります。

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