郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航

2007年04月17日 | 幕末留学
「団団珍聞」と書いて、「まるまるちんぶん」と読みます。明治10年に創刊された、絵入り風刺週刊誌でした。
明治8年(1875)に布告された新聞紙条例と讒謗律により、政府批判は牢屋入り状態でしたので、当時の新聞は○○(まるまる)という伏せ字だらけで、それを風刺した誌名だったのでしょう。
この「団団珍聞」を発行していたのは、野村文夫。幕末において、安芸(広島)藩でただ一人、密航留学を企て、薩摩や長州、肥前の密航留学生とともに、スコットランドで学んだ人です。

「団団珍聞」(まるまるちんぶん)「驥尾団子」(きびだんご)がゆく

白水社

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今回の参考書は、木本至氏著の上の本と、アンドリュー・コビング氏著『幕末佐賀藩の対外関係の研究』(鍋島報效会発行)、犬塚孝明氏著『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館発行)です。

幕末、最初に密航留学を企てたのは、長州藩士です。文久3年(1863)、イギリスへ向けて、のことでした。
伊藤博文、井上馨の二人は、翌年、四国連合艦隊の長州攻撃を知り、それをとめるために帰国します。
残されたのは、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の三人でした。
これはもちろん、藩の許可を得ての藩費留学だったのですが、攘夷論が渦巻く藩内では秘密にされていましたし、なにしろ長州藩の旗印が攘夷なのですから、幕府の禁制に逆らっているから、というよりも、藩としての事情から、こっそりと行われたものです。したがって、資金も潤沢ではありませんでしたし、横浜から上海まではジャーデン・マセソン商会の貨物船で、上海から先も、小型貨物船に分乗しての渡欧でした。
しかし、この渡欧航海においては、だれも日記を残しておりませんし、伊藤や井上などの後年の回顧談から、事情が知れるのみ、であるようです。

続いた、慶応元年(1865)、薩摩藩のイギリス密航は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、薩摩藩としては、外交使節をも兼ねた特異なものでした。
外交使節であるならば、格式が必用です。新納と五代が滞在していたパリのホテルは、幕府使節団も使っていた超一流ホテルですし、香港からの船旅も、幕府使節団がそうであったように、客船の一等船室です。
しかし、あたりまえなのですが、幕府のご禁制を破っていながら、薩摩藩のように派手に、留学生を送り出した藩は、他にはありません。
この年には、長州藩がさらに、竹田傭次郎(春風)、南貞助、山崎小三郎の三人の密航留学生を、イギリスへ送り出しています。南貞助は高杉晋作の従兄弟で、高杉が中心になって計画した留学だったのですが、ロンドンでの留学生は、学費どころか、生活費にも窮乏していた様子が伝えられていますので、これも、おそらくは貨物船だったでしょう。
慣れない環境で、食事、暖房費にも事欠くような生活がこたえたのでしょう。山崎は、ロンドン到着後、まもなく病死しています。

さて、この慶応元年、薩長のイギリス密航留学を知り、とてもうらやましく思った人物がいました。
肥前鍋島藩の石丸虎五郎です。石丸は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた後、長崎英学伝修生となり、安政6年(1859)から英語を学んで、グラバーと親交がありました。いえ親交といいますか、グラバーと肥前藩との取り引きにも、当然、関係していました。
肥前藩は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、海軍熱心で、洋学を吸収することでは薩摩藩の上をいっていましたが、幕府に協力的でしたので、幕府の欧米使節団に藩士を随行させることもけっこうありました。
とはいえ、長期留学ではありませんし、この時期の幕府の留学は、オランダのみです。
石丸は、オランダ海軍伝習以来、五代友厚と親交がありましたので、すでに五代から直接話を聞いていた可能性もありますが、詳しくはグラバーから、五代の企てが成功したことを聞き、自分も行く! と、決心したようなのですね。
しかし、一人では心細いので、同じ肥前の長崎英学伝修生、馬渡八郎を誘います。馬渡は喜んで応じ、脱藩イギリス密航となったのです。とはいえ、後年のグラバーの回顧談では、「肥前の殿様に頼まれて」となっていて、おそらくは、幕府をはばかった肥前藩が、脱藩の形をとらせて黙認し、ひそかに支援したものでしょう。一応、費用はグラバーの援助となってはいるのですけれども。

これを聞きつけ、自分も混ぜてくれ! と申し出た安芸藩士がいました。野村文夫です。
野村は、安芸(広島)藩の藩医の家に生まれ、安政2年(1855)から、大阪にあった緒方洪庵の適塾で、蘭学を学びました。
同時期の適塾には、野村より二つ年上の福澤諭吉がいます。
福沢は、幕府の最初の遣米使節団にもぐりこみ、その後、幕府外国方に傭われて、文久2年(1862)、第一回遣欧使節団にも参加していました。薩摩の寺島宗則も随従していたものです。
福沢が、そうした経験をもとに、『西洋事情』を出版したのは慶応2年のことで、ベストセラーになるのですが、あるいは適塾のつながりから、野村はすでに、そのような話を、伝え聞いていたかもしれません。

話がとびましたが、文久2年(1862)、適塾が江戸へ移ったのをきっかけに、野村は藩へ帰り、安芸藩では数少ない洋学者として、重用されるようになりました。この年、安芸藩は、長崎で蒸気船を購入することになり、野村は、その購入を任されます。元治元年(1864)、この蒸気船修理のため、野村は再び長崎を訪れ、そのまま英学修行に励んでいて、五代友厚とも親交を持ちましたし、石丸とも知り合ったのです。

石丸虎五郎、31歳。馬渡の年齢はわかりませんが、野村は29際。数えでいうならば30です。薩摩藩留学生にくらべると、けっこう年がいったトリオです。
野村の場合も、脱藩の形をとりましたが、おそらくはこれも、藩の黙認を得ていたものなのでしょう。
ともあれ、石丸、馬渡、野村の貨物船密航航海の様子が詳細に知れるのは、野村のおかげです。筆が立った野村が、日記をつけていたのです。
そうです。この三人も当然、費用節約、グラバーの所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドン直行の船旅です。

なにしろ長崎は幕府の天領ですから、三人は日が暮れてから密かに船に乗り込み、出帆まで、船底に隠れていました。
それから後も、三人の密航の旅は苛酷です。客船とちがって、寄港地での上陸、見物はいっさいありません。途中で、食料積み込みもあるのですが、その際も短時間ですませ、下船はなし、なのです。
しかし、脱藩辞せずの覚悟で密航したこの三人、さすがに勉強熱心です。
船長室において、航海術、語学、算術の学習をはじめたのですが、算術では、水夫の中に、フレデリックという名で、非常に優れた少年がいて、毎夜のように、講義をしてもらったようです。
野村は、フレデリックの資質に驚き、船長に聞くと、船長は「ミンストル(執政職にしておよそわが幕府の大老中にあたれり)の子なり」と答えた、というのですが、ミンストルはさておき、船長をめざすような、けっこういい家の息子で、航海実習をしていたのかもしれないですね。

野村にとって、洋食は苦にならなかったようなのですが、なにしろ貨物船ですから、食べ物の種類が少なく、飽きてしまいますし、そこへ船酔いが加わり、病気になったそうです。しかし、石丸、馬渡の肥前ペアーは、食欲旺盛で、元気でした。
なによりも苦痛だったのは、入浴ができないことで、野村によれば、三人とも牢屋の囚人のような汚さで、「浴湯で結髪して更衣するのほか欲願なし」でした。

スマトラ島の近くには、危険な暗礁がありました。文久2年(1862)10月ですから、3年前、幕府オランダ留学生を乗せたオランダ船カリプソ号は、ここで座礁していました。
船長は、その危険を避けるため、遠回りしてバンカ海峡を通ることにしましたが、ここには海賊がいます。船の砲が引き出されて、火薬が用意され、現地司令官から、日本人三人にも、帯刀してくれと、要請がありました。幸いにも無事、なにごともなく通過しましたが、貨物船の旅は、スリリングです。

チャンティクリーア号は、喜望峰をまわりました。
野村は、世界地誌を熱心に読んでいたようで、喜望峰を知っていました。その風景を見ることを熱望していたようなのですが、残念ながら、沖合の航路で、まったく見えなかったようです。
ここで野村は、文久の遣欧使節団がスエズを通ったことを指摘し、………スエズといっても運河はまだ完成していませんから、一度上陸して陸行するんですが、いえねえ、使節団は豪華客船なのですからスエズ経由があたりまえで………、喜望峰を通ったのは、「一、二の脱走、あるいは漂流の輩あるのみ」と、自負を持って記しています。
「脱走」は、長州藩士の密航留学でしょう。
しかし、アンドリュー・コビング氏は、ポウハタン号でアメリカに渡った幕府遣米使節団が、アメリカからの帰路、ナイアガラ号で、大西洋から喜望峰をまわって帰国したことと、先にも述べました幕府オランダ留学生たちも、喜望峰まわりであったことを、述べられています。両方とも、いわばチャーター船でした。
ところで、福沢諭吉は遣米使節団に参加していますが、正使に随行したわけではなく、護衛船の咸臨丸乗り組みで、サンフランシスコから太平洋を引き返しましたので、喜望峰はまわっていません。
かんぐりすぎかもしれませんが、野村が、文久の遣欧使節団をわざわざあげているのは、もしかすると、福沢諭吉を意識してのことではないか、と、感じます。
ちなみに野村は、帰国後の明治2年『西洋聞耳録』を出版していて、ベストセラーとなっていますが、これも、福沢の『西洋事情』を意識したものではなかったか、と思えるのです。

百日にあまる航海の末、1866年(慶応2年)陽暦3月下旬、チャンティクリーア号はロンドンに入港しました。
三人の留学生は、スコットランド・アバディーンのグラバーの実家の世話で留学生活を送ることが決まっていましたが、船長が連絡をとりましたところ、直接来るようにとのことで、ロンドン滞在は二日間のみ、アバディーン行きの客船に乗り換えることとなりました。
三人のロンドン到着は夜でしたが、その翌日には新聞記事となり、野村たちがチャンティクリーア号の甲板に出ると、岸辺には、見物人が鈴なり、だったと言います。
その新聞記事を読んだのでしょう。当時、ロンドンにいた薩摩藩留学生たちも、野村たちのことは知っていました。
後年の回想ですが、海軍中将松村淳蔵洋行談では、「カラバの世話にて肥前人、石川虎五郎、馬渡八郎の二人来りしが、スコットランドの方へ赴きたり」となっていて、野村の名はぬけ落ちているのですが。

たった一日でしたが、三人はロンドンに上陸し、見物しました。
野村は、肥前の二人と別れ、一人きりの見物です。
薩摩留学生たちのように、洋服を買う機会も、仕立てる暇もありませんでしたから、和装です。両刀をさしています。
野村は、疲れると、道端で煙草を一服したらしいのですが、そのたびに見物人にとりかこまれました。わけても腰の刀が、注目の的だったようです。
ロンドン塔を見物しようとして、門番の衛兵に追い出されましたが、野村はまだ、風呂に入っていません。どろどろの牢屋の囚人のような状態では、仕方がなかったかもしれませんね。

さて、その日の夕方、三人は、アバディーン行きの客船に乗り込みました。
まずは、客船の豪華さに驚きます。いや、まあ、なにしろずっと、貨物船でしたから。
野村は、アバディーンに住む三人の子連れのご夫人と、すっかり仲良くなり、話し込みます。
えーと、まだ風呂に入っていませんで、私としましては、それが気になるんですが。
アバディーンに到着してすぐ、グラバー(長崎のグラバーの兄)は三人に古着を買ってくれまして、着替えて洋装になるとまもなく、長州の竹田傭次郎がやって来ました。学費に困っていた竹田も、グラバーの世話になっていたのです。竹田は、勝海舟の門人で、野村と共通の知り合いがいたようです。
続いて三人は断髪し、そして、ようやく風呂に入りました。

翌日の午後には、最年少の薩摩密航留学生で、グラバーの実家の世話になっていた長沢鼎が訪ねて来ました。
野村たちは、長沢から、イギリスにいる薩摩、長州の密航留学生の話を聞きます。山崎小三郎の死と、そして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、清蔵少年がその経緯を語っておりますが、山尾庸三がグラスゴーにいる、という話も、です。
野村は、わずか13歳の長沢が、あまりに流暢に英語を話すことに、驚きもしました。

アバディーンにおいて、野村は一人で部屋を借りて住みますが、勉強は、石丸、馬渡の肥前ペアといっしょでした。
肥前ペアは、慶応三年、パリ万博に参加した肥前藩に手伝いを命じられ、フランスへ渡りますが、野村は、同年の9月までアバディーンに滞在し、ひと月の間に、イギリス各地を見て回ったあと、ロンドンからパリに渡りって博覧会見物。再びイギリスに帰って、10月18日、帰国の途につきました。
復路は、ゆっくりと方々を見物してまわったのでしょうか。半年にあまる旅で、長崎帰着は慶応4年(明治元年)の4月27日。すでに、幕府は倒れようとしていました。

帰国後の野村は、安芸藩でますます重用され、藩の洋学校教官も務めますが、明治3年、明治政府から出仕要請があり、東京へ出ます。当初は民部省でしたが、翌年廃止となるとともに、工部省(当初は工務省)に転じ、明治8年までいるんですが、工部省は、グラスゴーにいた長州の山尾庸三の提唱でできたわけでして、竹田傭次郎も所属しています。長州閥スコットランド仲間の引きだったんですね。
明治8年、内務省に転じた野村は、明治10年に退職し、団団社を創立します。
官吏時代の高給で、東京都内の土地を数千坪にわたって購入し、蓄財はできていました。

それで、というわけでもないのでしょうけれども、団団珍聞の風刺は、薩摩閥に向けられたものが多かったようです。
やがて長州閥への風刺へも向かうのですが、なんといっても、団団珍聞が精彩を放ったのが、薩摩スチューデント、路傍に死すで書きました、黒田清隆妻殺しの話なのです。なにしろ絵入りですから、読者への訴えも強烈です。
木本至氏は、後年の千坂高雅の証言をあげられ、「団団珍聞は相当深く真相を知っていて」、狂画を載せたのではないか、とされていますが、当時、内務省の高官だった千坂の家が、黒田の家に近く、千坂の娘が、黒田の妻の妹の親友だったと聞けば、「蹴殺した」という千坂の証言も信憑性を帯びてきます。
野村文夫は、内務省で、千坂高雅の同僚だったのです。

さらに、薩摩スチューデント、路傍に死すで出ました、「いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか」という疑問なのですが、実は新聞「日本」は、野村文夫の奔走による援助で、明治22年に創刊されたものなのです。
ただ、村橋久成の追悼記事が出た明治25年10月の、ちょうど一年前、野村文夫は、すでに世を去っていました。
とはいえ、援助してもらった陸羯南が、野村文夫の人脈と、関係がなかったとは思えません。
山尾庸三ではなかったでしょうか。
山尾庸三は、あきらかに、ロンドンで村橋久成に会っています。町田清蔵少年の後年の回想がまちがっていなければ、山尾のグラスゴーまでの旅費を出した薩摩留学生の中に、村橋もいます。
青春の日の異国での出会いは、山尾にとっても忘れがたいもので、陸羯南に感慨を語り、陸羯南が記事にしたのではないかと、そんな気がしてなりません。


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2 コメント

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桐野さんでつなげました。 (乱読おばさん)
2007-04-18 21:17:41
こんばんわ~♪
桐野さんをUPして、こちらの桐野コーナー?にリンクはりました。
返信する
もう、なんと言えばいいのか! (郎女)
2007-04-19 00:02:15
言葉を失う美しさで、感激です!!!
青と赤のフランス式軍服でも、きっと、描いていただいたように、すばらしく着こなしていたんですねえ。呆然。。。

トラックバック、させていただきますねえ。
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