郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩スチューデント、路傍に死す

2007年04月15日 | 幕末留学
明治25年10月、神戸の地方新聞に、神戸市役所が小さな死亡広告を出しました。
半月前、神戸の場末で行き倒れた旅人の、身元がわからなかったのです。
付近を巡回していた巡査が、この男が倒れているのを見つけ、警察署へ運んで介抱し、身元を聞きます。男は最初偽名を使っていたのですが、やがて村橋久成という本名と、妻子の名、そして鹿児島の住所を告げます。
市役所に引き取られ、医者が呼ばれますが、病が重く、すでに手遅れで、発見から三日後、男は息を引き取りました。
ところが、問い合わせてみたところ、村橋久成という男が告げた鹿児島の住所に親族はおらず、身元がわからないまま、遺体は仮埋葬され、神戸市の新聞告知が出たわけです。

地方紙のこの小さな記事に、陸羯南が主催する新聞「日本」の記者が目を留め、雑報欄に「英士の末路」という記事を載せました。正岡子規が「日本」に入社する直前のことで、あるいは、陸羯南自身が書いたものかもしれません。
ともかく、新聞「日本」の周辺には、村橋久成の経歴を、かなり詳しく知る人物がいたのです。

「この行倒人、村橋久成とは、そもいかなる人の身の果てなるや。またこれ、当年英豪の士ならんとは、聞くも憐れの物語なり。また新子の語を聞けば、村橋氏は鹿児島藩の士族にして、薩摩一百二郷の内、加治木領主の分家なり。維新前、薩摩藩主が時勢のおもむくところを看破し、藩士中最も俊秀の聞こえある少年十名を選抜して、英京ロンドンに留学せしむべしとて、甲乙と詮索ありし時、村橋氏もその十指の中に数えられ、故の鮫島尚信、森有礼、吉田清成、今の松村淳蔵の諸氏と、串木野の港より船出して、八重の潮路を名誉と勇気に擁護せられ、英国に渡航し、蛍雪苦学の結果も見えて、前途きわめて多望なりしが、留まること一年ばかりにして、不幸にも他の二、三の学友と共に召還せられし」

村橋久成は、薩摩藩密航留学生の一人でした。
使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。村橋久成は天保13年(1842)生まれでしたから、渡欧時、数えの24歳。
しかし、英国で写した薩摩藩留学生の集合写真の中で、村橋はきわだって洋装が似合っています。
きりりと引き締まり、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちで、姿勢がよく、ポーズのつけかたがまた粋です。

これも巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたが、留学生の中で、最初に帰国したのが村橋です。慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島といっしょの帰国で、滞欧一年に満ちていませんでした。
SAPPORO FACTORY 開拓使麦酒醸造所★物語の5.幕末の英国留学生(ここに村橋の写真もあります)、によりますと、帰国の理由は、以下だそうです。

もともと感受性のするどい村橋が、激しいカルチャーショックをうけてふさぎこみ、「留学の続行が危険な状態」にまでおちいったことが、使節として同行した新納刑部の書簡などから明らかになっている。

これを読んで、手持ちの書簡集を見返してみたのですが、その部分を発見することは、できませんでした。
ただ、まったく洋学の素養を持たず、名門の御曹司として薩摩で成長し、突然、藩命で洋行したのだとすれば、たしかに、すさまじいカルチャー・ショックを受けたのでしょう。

SAPPORO FACTORYの村橋のお話は、以下の西村秀樹氏の著作から抜粋されたものです。

夢のサムライ―北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成

文化ジャーナル鹿児島社

このアイテムの詳細を見る


この本では、これまで知られていなかった村橋久成死後の逸話が、ご子孫が大切に保存されていた文書から発掘されていまして、あらためて、村橋の死によって、薩摩開拓使人脈に走った衝撃を、まざまざと甦らせてくれています。
今回は、この本を参考に、書かせてもらっています。

村橋と寺島の帰国の航海は、ロンドンから上海までが定期客船、そして上海から、おそらくはトーマス・グラバーが関係していただろう、イギリスの帆船に乗ります。この船で二人は、陸奥宗光と出会うのです。
またいつものお方が、寺島宗則自叙伝のコピーを送ってくださいまして、以下、そこからの引用です。
「該船に、陸奥宗光および薩人林多助あり。なぜ乗船す、と問えば、帆船の使用を学ばんがためなりと」
帆船の操作を学んでいたんですね。
陸奥宗光は、村橋より二歳若く、実のところは、紀州藩の重臣の息子でした。子供の頃に父親が政争に敗れ、藩を飛び出していたのです。勝海舟の神戸海軍操練所に入っていましたが、これが閉鎖となり、坂本龍馬とともに、薩摩藩の保護下、長崎にいたころのことで、薩長同盟締結の三ヶ月後です。
年が近いだけに、村橋と陸奥は、船旅の開放感も加わり、うち解けて話し合ったのではないでしょうか。
後に書きますが、陸奥にとって、この出会いは、30年近い年月を経てなお、忘れがたいものであったようです。

さて、冒頭の新聞「日本」の記事の続きです。

「(帰国後)いくばくもなく戊辰の戦争となり、村橋は当時参謀長たる黒田清隆氏の手に属し、調所廣丈、安田定則両氏らと、奥羽函館に出軍し、勇名を官賊の間にとどろかし、ことに黒田氏に厚遇せられしが、乱平いでのち、特に軍功を賞せられ、物を賜う等の事あり」

黒田清隆は、村橋より二つ年上ですが、わずか4石の下級士族でした。西郷隆盛、大久保利通と同じ郷中で、薩長同盟のころから頭角を現し、戊辰戦争の活躍で、はっきりと門閥の上に立ったのです。
門閥の御曹司だった村橋が、4石の下級武士「黒田氏に厚遇せられ」という一言は、明治維新が革命であったことを、如実に語っています。
そして、黒田のもと、軍監として、越後口から函館へ転戦した村橋は、どうやら、榎本軍へ降伏を勧めた中心人物だったようです。
幕府最後の遣欧使節団のメンバーで、軍医として榎本軍に参加していた高松凌雲は、欧州で学んだ赤十字の精神を、函館病院に反映させ、敵味方の区別なく傷病兵を見ていましたが、そこへ講和交渉を持ち込んだのは、薩摩の池田次郎兵衛です。
この池田次郎兵衛の直接の上司が、村橋久成でした。

「黒田氏の開拓使長官となるにおよんで、調所廣丈、堀基、小牧昌業諸氏と肩を並べて奏任官たりしが、氏はその後、何事に感じてや不図遁世の志を抱き、盟友親族の切に留むるをもきかで、官を捨てて飄然行脚の身となり、身のなる果てを朋友知己にも知らせたり」

村橋が開拓使に入ったのは、明治4年のことです。
開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス で、少々触れましたが、黒田を中心に、多くの薩摩人がかかわり、西部開拓に習って、北海道を開拓しようとしたものです。洋式農園を開き、農作物、果実も洋種の導入が試みられました。
開拓使において、村橋久成が、もっとも情熱を傾けたのが、札幌におけるビール醸造所建設です。
しかし、そのビール醸造所が完成し、さまざまな試行錯誤、苦心の末、りっぱなビールを出荷するまでになったころ、西南戦争が起こりました。

明治6年政変の後、黒田清隆は大久保宛書簡に、「今日に立ち至り、退いてとくと我が心事追懐つかまつり候に、大いに西郷君に恥じ入る次第」と述べていて、すでに、西郷を陥れたことへの心痛を語っていました。結果、西南戦争となり、故郷を討伐せざるをえない立場となって、西郷を殺したのです。
深酒におぼれるようになった黒田は、泥酔して、妻を斬り殺した、という噂をたてられもしました。いえ………、どうも根も葉もないことではなく、斬り殺したわけではないのですが、酔いにまかせて、蹴ったか殴ったか、殺すつもりはなく、打ち所が悪かったのでしょうけれども、ほんとうに殺したのであったようなのです。
そして、大久保利通が暗殺されます。暗殺者は、西郷軍に心をよせた他県人でした。
親戚が、いえ、兄弟親子が、敵味方にわかれて戦い、結果、西郷、大久保の両巨頭を失い、残された明治政府中枢の薩摩人たちの多くは、虚脱状態にありました。わけても黒田は………、といえるでしょう。

そして、西南戦争に莫大な戦費を使ったことで、政府の財政は極度に苦しくなり、やがて、開拓使の廃止が決定されるのです。
もともと、開拓使は10年後に見直されることになっていて、それが、明治14年だったのですが、もはや黒田に、開拓使を存続させる気概も気力も、なくなっていました。
開拓使の数多い事業は、民間に払いさげられることになり、札幌のビール醸造所も、もちろんそうでした。
その払い下げの多くを、黒田は、破格の安価で、大阪を中心にはばびろく事業を展開していた五代友厚に任せようとしたのです。
村橋久成は、どうやら、そのことに深くかかわっていたようです。
それはそうでしょう。五代は、薩摩藩英国密航留学の主導者です。
新聞が、黒田の払い下げ計画をすっぱぬき、スキャンダルが巻き起こる2ヶ月ほど前に、村橋は辞表を提出し、開拓史を辞めました。
その理由は、わかりません。スキャンダルになるとは、わかっていなかった段階での辞表です。

ただ、その後の村橋は、世間にまじわることなく、いつからのことなのか、妻子を捨てて、病の身で漂白するのです。
それを思えば、村橋が虚しさを………、これまで自分がしてきたことはいったいなにだったのかと、やるせない思いを抱いて、官職を辞したことだけは確かでしょう。

自分が心血をそそいだ事業が、放り出されることへの怒りを感じていたのだとすれば、あるいは、辞職した上で、新聞にそのことをすっぱ抜いたのは村橋だった、という想像も、成り立ちはしないでしょうか。
しかし、そのスキャンダルを、大隈重信が利用して薩摩閥を追い落とそうとし、結局はまたしても薩長が手をにぎり直して、大隈を政権から遠ざける、という明治14年政変は、けっして村橋が望んだものではなかったでしょうし、そういったすべてが、あまりにも虚しく思えたのだとすれば、どうでしょうか。
村橋が神戸で行き倒れたのは、辞職から、11年の歳月が流れた後のことでした。

「定めなきが浮き世の常とはいえ、さりとははかなき最期かなと、揚升庵いわく。青史幾行名姓、北*無数荒丘、前人田地後人収、説其龍争虎闘。観し来たれば栄枯盛衰は夢のごとく、功名富貴は幻に似たり。村橋氏の感するなにのために感せしやは知らされとも、その末路を見て、うたた凄然たるものあり」

新聞「日本」のその日の記事は、そうしめくくられているのですが、翌日、哀悼の歌が載ります。

「村橋久成氏を弔う。はかなしみ君もはかなくなりにけり はかなきものはさても浮き世か。路傍の斃死、君にありては九品の浄室に寂を遂げたりといわんか。隻岡の法師かつて歌うを聞けば、ここもまた浮世なりけり。よそながら思ひしままの山水もかなと。さては浮世ながらの浄境なきを観ぜしならん。さるとても当年十秀才の一人、英京の留学生」

いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか。西村英樹氏も疑問を投げつつ、答えを出してはおられません。
ただ、この記事を目にした元開拓使の薩摩人たちに、衝撃が走ります。
最初に動いたのは、愛知県知事になっていた時任為基でした。時任は、鹿児島出身で、神戸警察署長だった野間口兼一に問い合わせます。野間口は、ずっと警察畑だったためか、村橋の経歴を知らなかったのです。
そして、このとき逓信大臣だった黒田清隆も知るところとなり、村橋の遺族をさがし、弔うために人脈が動きはじめました。香典を集め、東京で盛大に葬儀を行い、青山墓地に墓を建てようというのです。

外務大臣となっていた陸奥宗光は、自ら黒田に「外航をともにした知遇があるので、弔意を表したい」と申し出たようです。
陸奥の脳裏には、外洋を走る帆船のデッキで、ふるような星空の下、潮風に吹かれて、村橋と語り合った青春のひとときが、あざやかに甦っていたのでしょう。

香典をよせた人々の中には、維新前、新撰組、高台寺党だった加納道広(鷲雄)、阿部隆明(十郎)の二人もいました。どちらも薩摩人脈に連なり、維新後は、開拓使にいたのです。
かつて近藤勇を狙撃し、首実検をした加納は、村橋の遺児を伴い、神戸まで、村橋の遺体を引き取りに行く役を引き受けました。
あるいは加納の胸にも、動乱の中で夢中に生きた青春の日々が、よぎったでしょうか。

自分たちは、なにに命をかけたのか。維新とは、いったいなにだったのか。
幕末維新から西南戦争にかけての動乱を生き延びた誰もが、日々の営みにまぎれて、奥深く封殺していただろう自問を、村橋久成の路傍の死は、苦くも、浮かびあがらせずにはいなかったのでは、なかったでしょうか。


追記 
fhさまが調べてくださったこと。『日本建築学会論文報告集』201(1972年)、小野木論文「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑および回答より。質問者は遠藤明久氏(「小野木重勝氏の論文 : 「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑」)。
小野木氏が回答(「遠藤明久博士のご質疑に対する回答」)のなかで、村橋久成について補足説明。)

村橋久成(鹿児島県士族・天保13年10月21日生・旧名直衛)は、明治4年11月開拓使十等出仕を振出しに、九等出仕権大主典・大主典・七等出仕・権少書記官に昇進、七重村官園詰・北海道物産縦観所・物産局製練課・東京出張所勧業課長・同農業試験所長などを歴任し、明治14年5月本官を免じられ、明治16年2月皇居造営事務局准判任御用掛として建築課兼監材課勤務を命じられ、同年12月1日付で建築課専任となり、明治17年4月に御用掛を免じられております。1年2箇月の短期間の在職ですが、基準4)および5)によって監材関係技術者中に包含いたしました。「皇居御造営誌・職員進退並賞与」によりますと、監材課では准判任御用掛林糾四郎と名前を並べて記載されており、その存在を無視することもできません。開拓使時代の農業試験場長などの経験をかわれて監材関係業務に従事したと考えられます。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 巴里にさようなら、薩摩貴公... | トップ | 団団珍聞社主のスリリングな... »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
才子不幸ですね (乱読おばさん)
2007-04-16 15:47:42
 洋風に傾いて挫折したり、東奔西走したのにだめだったり・・。明治は、勝ち組であるはずの薩摩〔長州でもですが)でも多くの犠牲を出して転がっていったのですよね。その象徴のような話です。ビール生産に関わったとあれば、ますます気の毒です(あ・・別にビールだけじゃあないですが、一時、ミュンフェン・サッポロ・ミルウォーキー・・なんてコマーシャルありましたよね。
返信する
長州の留学生にも (郎女)
2007-04-17 16:01:15
若くして世を去った、貴公子がいます。
明治初期ならば、洋行はエリートの証で、しかも勝者の薩長。それでも、運命はかならずしも優しくはなく、天の下の平等を感じてみたり。えー、私はお酒がまるでだめで、札幌を訪れたときも、サッポロファクトリーへ行かなかったのですが、残念なことをしました。いえ、身元不明で死んだ密航留学生村橋のことは、昔から知っていたのですが、その村橋がビール製造に情熱を傾けていたことを、知りませんで。
返信する
苦いビールの味のような、 (のり坊)
2007-04-17 23:04:47
村橋さんのことは、なんとも、辛いお話ですね。
ぼくは、あのあかるい開放的な札幌にかなりの回数行き
長い滞在もしましたが、あの町は人もおおらかでとても好きです。
札幌ビール園やジンギスカン...しかし、こういうことも、昔あったのですね。

幕末の貧しい日本から行って石造りのヨーロッパを目のあたりにすれば衝撃は誰でも大きい、まして感受性が豊かな20代ではショックは大変なものでしょう。
平然とプラスに活かし爵位まで得た人と、背を向けたような人。
岩倉使節団で米欧回った村田新八や、小倉処平は英国で、島津啓次郎は7年の米国・アナポリスに学ぶ、
かれらは西洋を肌で見聞し勉学もしながらも、西郷の軍に投じた...
しかし、こちらは西郷さんの魔力もありますか。

村橋さんという人も、黒田の元にいなければ違っていたのでしょうか...
いったんは、箱館戦争での官軍幹部としての働きもあったのですから、素直に伸びれば別な人生があったのでしょう。
苦いビールの味のような、なんともいえぬ想いがしました。

わたくしこと、陸奥宗光を追いかけておりましたが、途中、どうにも粘着質なところが気になり、西郷さんからサトウさんへと横道にそれておりました。

ついでで恐縮ですが、野口先生の書かれたものは、精密な上にユーモアがあって楽しいですね。
ボクは、西洋史の藤沢道郎先生にもある、余裕がある知性がすきなのです。
自分を棚に上げて言うのもなんですが、ネット上には半可通が書きなぐったゴミばかりあふれ出した。1ページぐらい見ると、二度と見る気もしないものか多く、うんざりしております。
いえいえ、郎女さんのはいつも楽しみに見ておりますよ。1万字の長文は、読むのたいへんですけど!
返信する
陸奥さんも (郎女)
2007-04-18 23:58:01
性格が悪そうですよねえ(笑) しかし、なんとなく、あの少々おっちょこちょいで、激しやすいところが、かわいげがありますわ。
村橋さんは、ほんとうに育ちがよく、純粋な方だったみたいですから、きっと、陸奥さんもなごんだと思います。
私は、不器用な生き方をする人物が、けっこう好みでして。
続きを楽しみにしております。

野口先生は、ほんとうにすばらしい書き手でおられます。先生の手にっかると、勝さんも実に魅力的だったり。私もまたまた脱線して、これから野口氏の本の感想でも書こうかなと。今回は短く、です(笑)
返信する
札幌から (田中和夫)
2009-04-18 10:06:48
札幌の時計台が札幌市立図書館だった1955年ごろ、書架から何気なく取り出した「北海道史人名辞典」。ぱらぱらとページをめくっているとき目に入ったのが「村橋久成」でした。200字ほどの記述の最後に「退官後は頗る失意の日を送り、帰国の途中病のため死んだ」とありました。この一文が私の心を揺るがせたのです。開拓使長官は村橋と同郷の黒田清隆。それなのになぜ? 北海道の開拓政策をめぐって意見の相違があり、そのために北海道から追われた?豪放磊落ではあるが、独断専横の振る舞いがあったといわれる黒田ならやりかねない…。村橋久成を掘り起こし、光を当てたいと思う私の気持ちの始まりでした。志半ばで世を去った村橋の無念を「残響」のタイトルで札幌の同人雑誌に連載し、のちに自費出版しました。再販にもなりました。27年前です。北海道の産業の礎を築いた薩摩の男、村橋久成をこうして多くの方に知っていただき、感激です。3年前、多くの方々のご協力で知事公館前庭に彼の胸像が建ちました。
返信する
ようこそ、お越しくださいました! (郎女)
2009-04-19 01:32:34
田中さま。こういうとき、インターネットって、つくづくありがたい存在だと思います。
私が村橋久成を知ったのは、もしかしますと、ご著書の出版と前後するころではなかったかと思うのですが、犬塚孝明氏の「薩摩藩英国留学生」(中公新書)によって、でした。
若かった当時の私は、人生の成功者よりも挫折者に心惹かれ、共感を持っていまして、村橋は高見弥一とともに、もっとも気にかかった薩摩藩の密航留学生だったのですが、それ以上に調べるすべを知らず、また、追究するだけの余裕もなく、深く印象にとどめながら、現在にいたりました。
西村秀樹氏の著書もアマゾンで検索をかけて知り、購入しましたもので、これにより、はるか以前に、ご著書「残響」が出版されていたことを初めて知りまして、愕然といたしました。ああ、ずっと調べていた方がおられたんだ、と感慨深く、昔、村橋に関する新書の短いの記述をあかず読み返して、思いをはせた自分を、懐かしく思い出しもしていました。できることならば、お目にかかってお話をうかがいたい、とまで思っていましたので、私の方こそ感激です。
団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6723e89d5d251bf907833c21a04d2fc3の最後に書いておりますが、私、なんとなく、「日本」に情報をよせて村橋を悼んだのは、山尾庸三ではなかったかと思っております。

今度、北海道へいったときには、かならずや村橋の胸像の前に立ちたいと思います。コメント、ほんとうにありがとうございました。



返信する

コメントを投稿

幕末留学」カテゴリの最新記事