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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3

2007年03月24日 | モンブラン伯爵
&tagモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2 の続きです。
前回は、五代・寺島夫婦の側から語ってみたわけなのですが、では、モンブランの側から言うならばどうなのか、というお話です。


モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2の時期からなんですが、まず、この内容を補足します。

『社会志林』の宮永氏論文では、池田使節団がパリを訪れていたころ、「モンブランは池田から日本の形勢について聞かされ、そのとき反幕的な諸大名を倒し、政権を一つにするように進言した」と断定され、さらには、幕府に力がないならフランスが助力する、と言ったとしているんですが、モンブランは、最初の来日時にも学術員ですし、フランス外務省員でもなければ、在日フランス公使館の一員でもありません。
いくら池田筑前守がまがぬけていたと仮定しましても、助言ならばともかく、フランス外務省、およびフランス公使の意向と、モンブランの個人的意見との区別もつかないほどまがぬけていたとは、とても思えません。

宮永氏の断定の根拠は、『旧幕府第八号 長防再征の目的』だというので、見てみました。
この小論文の著者は、元越前藩士・佐々木千尋。松平春嶽を中心とする越前藩の幕末記録、『続・再夢記事』の編者です。
で、結局のところ、えらく見当ちがいなことに、『旧幕府第八号 長防再征の目的』は、第二次征長の時点での幕府とフランスの密着、つまりは横須賀製鉄所建設などの話を、『続・再夢記事』に収録された慶応2年7月18日付けの越前藩士の報告書、までさかのぼって結びつけ、「幕府が長州、薩摩を討って中央集権化することを軍事的にフランスが助ける」といったような話になっているんです。

ちょっと、まってください。
『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書には、たしかに、モンブラン伯爵というフランス人が、池田筑前守に言ったこととして、「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とあるんですが、これ、欧州から帰ってきた五代友厚の話を、越前藩士が聞いて、書いたものなのです。

遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際

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また登場しますが、萩原延壽氏の『遠い崖』によりますと、慶応元年 (1865年)、つまり、ちょうど五代が渡欧していた年なんですけれども、モンブラン伯爵はパリで、『日本(Le Japon)』という著作を刊行しています。
おそらく、モンブラン伯の日本観で書きました『モンブランの日本見聞記』が、その訳書なのだと思うのですが、書籍の山に埋もれて出てまいりません。
ともかく、上記、萩原延壽氏によりますと、『日本(Le Japon)』の内容は以下です。
「日本人の国民性の優秀さを説き、積極的に異質の西洋文明から学ぼうとする精神をたたえ、その輝かしい未来を予言した。当時これほど日本の可能性を高く評価した西欧人の日本論はめずらしい。モンブランは日本の政情にもふれ、天皇を擁する勢力と幕府との対立を論じたが、改革と開国の味方として、モンブランが支持したのは幕府の側である。これにたいして、朝廷につらなる勢力は、旧秩序の維持を目論む進歩の敵とみなされた」

それが、五代、寺島との出会いを経て、この年の暮れには、薩摩人を伴ってのヨーロッパ地理学会で、前回記したような「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という考え方に変わり、翌慶応2年には、この講演の内容を、『日本の現状に関する一般的考察(Consideration Generales sur IEtat Actuwl du Japon)』と題して刊行しているんだそうです。
萩原延壽氏も推察されていますが、慶応元年暮れのモンブランの地理学会発表と、慶応2年3月から、イギリス在日公使館員アーネスト・サトウが横浜の週刊英字誌『ジャパン・タイムズ』に連載しはじめました『英国策』は、内容が酷似していまして、あきらかに、五代友厚が介在しているでしょう。
五代、寺島は、モンブラン講演の内容を筆記して持ち帰り、サトウも含む在日イギリス人などに見せてまわった、と考えてもいいのではないでしょうか。

で、越前藩士が五代友厚から聞いた話なのですが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、池田使節団は横浜鎖港交渉にフランスに出向いていたわけでして、さらには、四国連合艦隊の長州討伐問題があったわけなのです。
モンブランが池田に「フランスの力を借り」と話したとしましたら、長州の「攘夷」は瀬戸内海航路の封鎖であり、自由貿易をさまたげる行為でしたから、当然、航路の安全保証は幕府の責任であり、勝手に四国連合艦隊がそれを長州に迫るよりは、幕府がその責任を果たすべきで、幕府にその力が足りないというのなら、フランスは手助けしますよ、というものなのです。
統一国家とはどういうものであるのか、そういう道理を、モンブランが池田に説いた可能性はありますが、元治元年の時点で、「幕府はフランスの軍事力を借りて諸侯を征伐し、中央集権化すべきである」と、モンブランが池田に吹き込んだ、というのは、当時のフランスの思惑とは大きくかけはなれていて、「統一国家のあるべき姿」という一般論と、その当時の状況、つまり四国連合艦隊の長州征伐、におけるフランスの申し出を、故意に混同したものです。
『日本(Le Japon)』において、モンブランは日本を、『天皇をいただく諸侯連合国』だとは、見ていないわけなのですから。

あきらかに五代は、意図的に話を短絡化し、越前藩士に吹き込んだのです。
フランスと幕府の関係に、薩摩藩中枢が危惧を抱くようになったのは、駐日フランス公使がベルクールからロッシュに交代し、横須賀製鉄所建設の話が持ち上がってからです。
たしかに、ロッシュ公使になってから、幕府が陸海の軍備を近代化することに、フランスは手を貸そうとしていたわけですが、それも、かつてオランダが海軍伝習を引き受けたのと同じように、交易の実をあげるためであって、イギリスとの外交関係からいっても、例えばフランス軍が、フランス人の安全に関係のない第二次征長で幕府の味方をするとか、そういう話ではありません。
対外関係に暗い越前藩士に「幕府はフランスの力を借りて諸侯をつぶすつもりだ」というような話をしておけば、春嶽候の耳に入るのは見えています。
薩長連合はなり、第二次征長における長州の勝利も見えてきたこの時期、春嶽を薩摩の味方につけることをねらっての、五代の工作でしょう。

ようやく本題に入ります。
モンブラン伯爵が、フランスの全面援助による横須賀製鉄所建設に反対し、肥田浜五郎に味方しただろう理由なんですが、ひとつには、もちろん、ベルギーを介した利があったでしょう。
しかし、理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。

さらに、なぜモンブランが、密航薩摩藩士に会ったか、という問題なんですが、池田筑前守が、帰国後罷免になったという話は、モンブランの耳にも届いていたと思われます。
池田筑前守に、モンブランが長州を幕府が討つべきだと語ったとして、その時点での話は、瀬戸内海航路安全のために、「攘夷」と称する長州の無法な発砲を咎め、二度とそういうことが起こらないようにするためです。
これは、日本が統一国家として全面的に開国し、自由貿易を促進するべきだ、という見解からの発想なのですから、横浜鎖港に失敗したからといって、池田筑前守を咎め、今度は貿易を独占しようとしているらしい幕府に、モンブランは失望を禁じ得なかったのではないでしょうか。

モンブランが来日していた文久2年(1862)は、生麦事件の起こった年でした。薩摩藩のつもりがどうであったにせよ、薩摩が攘夷の旗頭のように見られた時期に、モンブランは日本にいたのです。
その薩摩藩士が、欧州まで出向いて来ているとなれば、当然、好奇心が起こるでしょう。
モンブランが幕府に失望を感じていたとなれば、なおさらです。
モンブランと五代が実際に出会って、五代は、生麦事件が攘夷ではなかったことを熱弁したでしょうし、当然、薩摩は海外貿易をもっとしたいのだが幕府が邪魔をしているのだと、持論を語ったでしょう。
その弁舌とあいまって、なによりもモンブランを動かしたのは、薩摩藩が現実に、欧州まで留学生と使節団を送ってきている、という事実だったのではないでしょうか。
欧州において、国家の誕生は、戦いと外交交渉の積み重ねによって、可能になっていたわけです。
帝を中心とした新しい日本へ向けて、欧州で外交交渉をしようという薩摩藩の意欲は、高く日本人を評価していたモンブランを、強くゆさぶったでしょう。

結果、五代と寺島、そしてモンブランの合作だと思える日本の現状表現は、『日本は天皇をいただく諸侯連合国』となったわけなのですが、しかしそれはけっして、藩がそれぞれに外交権を持つような独立国である、という認識では、ないでしょう。
なぜならば、先の話ですが、慶応3年(1867)のパリ万博で、薩摩は薩摩国名義ではなく、琉球国名義を使うことにしているからです。
薩摩は、けっして外交権を持つ独立国ではない。しかし、その薩摩が独自に外交をしているのは、帝を中心とする新しい日本を作るためである………。
そういう認識が根底にあったのではないか、ということを、推測できる材料があります。

慶応元年(1865)12月7日、ちょうど、五代がヨーロッパ地理学会出席を果たし、ロンドンの寺島のもとへその報告をもたらし、さらに話し合いを重ねただろう後、ということになりますが、寺島は、薩摩藩の蘭学仲間だった中原猶介のもとへ、手紙を書いています。
「5年前イタリヤに有名の将ガリバルチなる者、このパラガンタ(プロパガンダ)の術をもって国人を説き、王の兵を借らすして義勇の兵を越し、ローマ・リアを撃ち、ついにサルヂニー小国王をしてイタリア全国王となし、功なって郷里に帰り余生を養えり。今年六十ばかり。先日ロントンに参りたるよし。欧にては三歳の児もこの名を知らんものはなし」

ガリバルディは、いうまでもなく、イタリアのリソルジメント(統一戦争)の英雄です。
この手紙から半年後、イタリアはプロシャと同盟してオーストリアと戦い、オーストリア領だったヴェネチアを統合して、統一を完成させています。
プロシャもまた、オーストリアに勝利し、さらに明治維新の2年後にはじまった普仏戦争の勝利によって、ドイツ帝国を成立させます。
近代国家としての発展には、中央集権化が必要なのであり、諸侯連合国から統一国家へという道筋は、当時の欧州に、イタリア、ドイツという現在進行形の見本があったのです。

寺島は、ガリバルディが果たした役割を、島津久光の行動とくらべていますから、その例えでいうならば、サルデーニャ王が帝なわけです。
続けて寺島は、久光が割拠論に傾いていることを憂えていて、目標として統一国家を見る必用を説いているのですが、一応、理想としては「将軍・諸侯・国人相合し」としながら、その直後に、幕府の専横を始皇帝に例えて痛烈に批判していますので、結局のところは、幕藩体制を否定し、帝を中心とする統一国家を提唱しているに等しいのです。
そして、その帝を中心とする統一国家を実現するためには、ガリバルディがしたように「プロパガンダ」、寺島が言う「プロパガンダ」とは「入説」に近いのですが………、ともかく「プロパガンダ」を行うことが大切だ、ということなのですから、イギリス公使館員アーネスト・サトウへの働きかけも、春嶽候を狙った越前藩士へのささやきも、すべては、「帝を中心とする統一国家」実現への「プロパガンダ」なのです。

おそらく、モンブランやロニーにとって、五代や寺島が語る「日本の現状」は、プロシャやイタリアを想起すれば、わかりやすかったのでしょう。
そして、日本のリソルジメントをめざす薩摩隼人たちに、モンブラン伯爵は、わくわくしてしまったのではないのかと、私はつい、妄想してしまうのです。

次回に続きます。


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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2

2007年03月18日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1の続きです。
時期的には、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 の続きとなります。

1865年6月21日(慶応元年5月28日)、薩摩藩密航イギリス留学生の一行が、ロンドンに着きました。
しかしこの一行、先にイギリスに密航していた長州ファイブとは趣がちがい、多分に政治的意図を持った、薩摩藩外交団でもありました。
外交の中心にあったのは、随行の五代友厚と寺島宗則(松木弘安)です。
この二人、 花の都で平仮名ノ説で書きましたように、薩英戦争でわざと英艦の捕虜になり、その後、清水卯三郎にかくまわれていたりしたんですね。
で、卯三郎自身の回想では、寺島は古くからの友人だったけれど、五代には英艦で初めて会ったようです。
卯三郎さん、長崎のオランダ海軍伝習を受けたくて、八方手を尽くして長崎まで行った過去があります。結局、町人であるから、というので、勝海舟にも冷たくあしらわれ、望みはかなわなかったのですが、このとき五代にも会ったりしたかな、と思ったんですが、会ってなかったんですね。

卯三郎さんがひらがなで語るところの五代と寺島は………、もうなんといいますか、なにをするかわからない無鉄砲な夫と、心配性の妻、といった趣で、笑えます。
天祐丸艦長だった五代は、船ごと英艦に拿捕されるのですが、無念やる方なく、火薬庫に火をつけようとします。同時に捕まった寺島は、「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふてさまたげたり」。
えー、漢字は勝手に入れましたが、かな文のせいなんでしょうか、なんかこう、楚々とした賢夫人が夫をたしなめている風情がありません?
あー、写真で見る寺島は、かなりの身長があり、顔つきはけっこうごつい上に、五代より三つ上で、30を越えてます。

敵(イギリス)に通じたと疑いをかけられた二人は、卯三郎さんの故郷の親戚、吉田家にかくまわれますが、そこでも、寺島は大人しくしていたのに、五代は落ち着かず、ひそかに江戸へ遊びに出たりしたあげくに、吉田家の次男、吉田二郎をともなって長崎へ行き、グラバーのもとに身をよせ、藩に建白書を出すことになったんです。
一方の寺島は、ひたすら大人しく身をひそめていましたところが、薩摩藩江戸藩邸の岩下方平、大久保利通などが手をつくしてさがしだし、一年ぶりの江戸帰還となったもののようです。
寺島は元が蘭方医で戦嫌い。学者肌です。モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、幕府の蕃書調所教授でもあり、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、福沢諭吉と仲良しでした。
五代の破天荒な欧州行きが受け入れられ、藩命を受けて、江戸から薩摩へ帰ったのですが、思うに、です。卯三郎さん流にゆいますと、「君のさあらんことを知りしかば、われ、うなずけり。こたびは、君につきしたごうて助けん」だったんでしょう。

『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』

朝日新聞社

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上記の本によれば、寺島は、イギリスに着くと同時に、旧知のローレンス・オリファントに会い、イギリス外務省の政務次官レイヤードに、紹介してもらっています。
オリファントは、江戸は極楽であるに詳しく書きましたが、在日経験のある親日家で、帰国後、下院議員になっていました。
このときの寺島の提案は、薩摩藩内に外国貿易のための港を開きたい、ということでした。
それを、です。寺島はイギリス外務省に直接交渉しようとしているのですから、薩摩藩はすでにこのとき、独立国気分です。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3において、「肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し」と書いたのですが、おそらく、肥田浜五郎とモンブラン、モンブランと五代を結びつけるのに介在したのは、オランダの貿易会社代理人で、長崎駐在領事だったアルベルト・ボードウィンではなかったでしょうか。
というのも、維新直後の事ですが、ボードウィンを通じて、薩摩藩はオランダ系金融機関から多額の融資を受け、グラバーなどからのそれまでの借金を、一気に返しているからです。もっとも、そのオランダ系金融機関からの借金も、廃藩置県までには、ほぼ返し終えているそうですが。

1865年8月9日(慶応元年6月18日)、モンブラン伯の使者であっただろうジェラールド・ケンは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!のレオン・ド・ロニーとともに、ロンドンの五代や寺島のもとに姿を現します。
ロニーは文久2年(1862)の竹内使節団の接待役で、寺島は使節団の随行員だったわけですから、二人は知り合いです。ロニーが紹介役を務めたわけなんでしょうね。
ケンはもちろん、すでにフランスで、肥田浜五郎に会っています。

そして、五代は、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)とともに、7月25日(旧暦9月14日)、ロンドンを発って、モンブランの待つベルギーへ向かいます。
この日から、五代の日記が残っているのですが、昨日の花冠の会津武士、パリへ。の海老名日記にくらべますと、そりゃあもう、気分は一国の外交官ですから、趣がちがいます。
一行はベルギー、プロシャ、オランダをかけめぐり、再びベルギーにもどった後、パリへ赴くんですが、五代もそれぞれの国情や産業に関する観察は、端的に記しています。
しかし、しっかりと遊んだ様子も書いていまして、パリでは美味を堪能し、オペラや芝居も見物し、モンブランに案内されて、遊女も買っております。

話が先走りました。
五代一行は、まずインゲルムンステル城に迎えられ、モンブラン家の狩猟場で鳥打ちに興じ、五代は「欧羅巴(ヨーロッパ)行以来にて、始て快愉に思う」と記しています。
そうでしょうねえ。
なにしろ薩摩藩士は、狩りが好きです。桐野の日記でも、滞京中、藩士仲間で誘い合わせて山へ猪狩りにいっていたりしまして、ロンドンの町中で2ヶ月も閉じこもったあと、ひろびろとした私猟地で駆け回るのは、楽しかったでしょう。
そしてブリュッセルでは、ベルギー王子に面会していますし、モンブラン個人ではなく、ベルギー政府そのものと、交渉していたわけなのです。

五代のパリ滞在はけっこう長く、11月13日(和暦9月24日)から12月20日(和暦11月3日)まで、一ヶ月を超えます。
その間、モンブランとはもちろん幾度も会っていますし、5日間ほどは、ロンドンから寺島も来ていて、その間に、ロニーも顔を出しますし、なぜか「新聞屋」の接待も受け、「ケンが肥田浜五郎に会った」と記されていたりします。
ベルギーとの貿易の件や、パリ万博参加の件は、すでに話終わった時点ですので、いったいなにを話あっているのかと思われるのですが、寺島がロンドンへ帰ってまもなく、今度は、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で書きましたように、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が姿を現します。
わざわざ、津田、西と知り合いの寺島が時期をずらしたのはなぜか、考えてみたんですけど、寺島は知り合いだからこそ、つまり幕府の蕃書調所にも属していながらの密航ですので、とりあえず、やはり、顔を合わすのはまずい、ということだったのではないんでしょうか。

津田と西がオランダに留学していることは、当然、寺島は知っています。
フリーメーソンのネットワーク、ライデン大学との交流を考えれば、当然、ロニーも知っていたでしょう。
モンブラン、あるいはロニーが、津田と西を呼んだのではないかと思うのです。
なんのためかといえば、五代と新納に、欧州各国の政体や歴史、法律などの詳しい説明をしてもらうためです。
もちろん、そんなことは、モンブランやロニーの方がよく知っているわけなのですが、言葉の壁があります。
どうも、ケンはそれほど学問があったようではないですし、薩摩側通訳の堀にしても、日本で語学の勉強をしただけです。欧州の歴史や政治制度を詳細に日本語で説明するには、訳語を作る必要もあり、漢学や国学にも詳しくなければなりません。
津田と西は、幕臣である前に学者ですから、知識を乞われるならば、喜んで応じたでしょう。
五代は、津田と西の解説を受けて、薩摩が描くところの日本のあるべき姿を、西洋人、つまりモンブランやロニーにわかりやすい形で、説明することができたのではないでしょうか。

五代と新納がなぜ、長期にわたってパリに滞在したか。
12月19日(和暦11月2日)、パリで開催されたヨーロッパ地理学会に出席するためです。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際』によれば、この地理学会で、モンブランは、日本の現状について講演しています。その内容を引用すれば、こういうことです。
「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない。諸外国がこの将軍と条約を結んでいるところに諸悪の根源があり、幕府は諸外国から中央政府とみなされることを利用して、外国貿易の利益を独占し、他の諸侯を抑圧している。諸侯はこの幕府の独占体制を打破しようとしているのであって、その本心は、西欧諸国との友好関係を切望している。その証拠に諸侯は使節団や留学生をヨーロッパに派遣し、西欧諸国との接触をふかめる努力をつづけている」
その使節団や留学生として、五代と新納、堀、そしてどうも、このときロンドンから幾人か呼んでいたのではないか、という節もうかがえ、数人の薩摩人が出席し、挨拶をしたのでしょう。

あきれてものが言えません。
慶応元年11月2日です。薩長連合もまだ成立していません。
密航留学生を送り出しているのは薩摩と長州だけですし、使節団って……、密航使節団を送ろうなどと思いついて実行しているのは、薩摩だけです。
この時点で、「幕府の独占体制を打破しようとしている」諸侯の数など、しれていたでしょう。積極的なのは、薩摩と長州のみではなかったでしょうか。
一致した「諸侯」の意志なぞ、ありえようはずもないわけですから、これはもうすでに、武力倒幕を視野に入れた認識です。
それでいて五代は、柴田使節団に随行していた幕臣には、「密航留学生を出すのは、日本がヨーロッパに劣らないようにとのみ思ってのこと。日本のためは幕府のため。幕府に異心など毛頭無い」と語ったんだそうです。

五代たちは、「新聞屋」にも紹介してもらっています。
すでにもうこの時、慶応3年(1867)のパリ万博において、薩摩藩が琉球国名義で、独立国であるかのように参加し、それを新聞に書かせて宣伝する協議は、なされていたと思われます。
その点に関しては、モンブランがフランス人であったことは幸いでした。
フランスは、この時期からおよそ20年ほど前、7月王制期に、琉球に軍艦を派遣し、通商貿易とカトリック布教を迫っていたのです。薩摩藩はそのとき、警備隊を派遣しますが、結局、通商のみを許可し、布教は禁じます。とはいえ、ひそかにフランス人神父が滞在して、布教を試みたりもしていたのです。
前藩主・島津斉彬が、藩の軍制改革、近代化に力をそそぐ、きっかけになった事件でした。
当然、新納も五代もそれは知っていますし、一方、日本通のフランス人であるならば、琉球に詳しくて当然でもあったのです。

五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます。
ロンドンに残った寺島は、それから一ヶ月して、イギリスのクレランドン外相との面会に成功します。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』によれば、クレランドン外相に寺島が語ったことは、こうです。
「大名たちは、日本と条約を締結した諸国が、天皇に対して、御三家、十八の国持大名、それに天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たちの招集をおこなうよう要請することを希望している。(それが実現すれば)、大名たちは京都で会合し、そして、天皇はすでに批准した条約に対する大名たちの署名をとりつけることになるであろう」

あきらかに、モンブランの地理学会講演を、下敷きにしています。
しかし賢夫人、思いきったことをしますよねえ。
密航の身で、イギリス外務省に交渉とは。
あー、あのね、孝明天皇はご健在です。
「天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たち」って、会津や桑名も入るんですかね。
この時点で、朝廷に外交権があるかのように語ることには、あきらかに無理があります。
したがって、寺島の提案は、そうなるようイギリスから圧力をかけてくれ、というに等しいのですが、この提案を、本国から知らされた駐日イギリス公使パークスは、さすがに、「これは日本の現状ではなく、薩摩の政策にすぎない」と鋭く見抜いています。

とはいえ、この寺島の提案は、けっして無駄ではなかったのです。
先に帰国した五代は、グラバーの仲買で、イギリスから多量の武器、機械類を買って帰っていましたし、その中には、紡績機械もありました。ここで雇った技師たちも、グラバーの世話でしょう。
紡績所の立ち上げもあって、グラバーは薩摩藩に招かれます。
そしてグラバーは、パークスに、薩摩藩訪問を要請していたのです。
思いきった寺島の提案とグラバーの要請と、その二つがあいまって、慶応2年の夏、パークスの薩摩訪問は実現します。

無鉄砲な夫と賢夫人。
「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふて君とともにあらん」と。
ある意味、賢夫人の方が大胆ですよね。

ということで、このお話、さらに次回に続きます。


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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1

2007年03月16日 | モンブラン伯爵
あー、やっと確定申告がすみました。で、いきなり、なんですが。
もしかしてモンブラン伯爵は、明治大帝が初めてあった外国人であったのか?
と、思えてきたりしまして。
確証はありません。ありませんがしかし……。

『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』

講談社

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リーズデイル卿、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、幕末の日本に駐在したイギリスの外交官です。
幕末の駐日イギリス公使は、オールコックからパークスに引き継がれまして、維新当時はパークスです。
ミットフォードは、そのパークスの下にいまして、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)、京都の御所で、パークスとともに、明治天皇にお目にかかっているのです。

そもそも、です。王政復古のクーデター(慶応3年12月9日)は、兵庫(神戸)開港式典(12月7日)の二日後です。
兵庫(神戸)開港と同時に、大阪にも外国人居留地を設ける、という話になっていまして、大阪城のそばに居留地ができようとしていました。
つまり、駐日外交官は神戸に集結していまして、その目の前で、維新回天の動乱はくりひろげられたわけです。
鳥羽伏見の戦いの後、これまで一度も外国人と接したことがなかった西日本各藩の軍が関西に集結し、外国人殺傷事件が多々起こるんですが、維新政権としましては、です。それをふせぐ意味からも、また、欧米各国に新しい政権を承認させる必要からも、明治天皇の各国公使接見が急務となったんですね。

しかし、京の公家たちはもめました。それはそうでしょう。外国人を京都に近づけたくないと、兵庫開港もなかなか実現しなかったんです。それが、「禽獣のような」外国人が千年の都へ押し入り、帝のおそばに近づこうというのです。いったい、なんのための維新だったのか、と、いうことになるんです。わけても、宮中の女性たちにとっては。
もっとも強く反対したのは、明治天皇のご生母、中山慶子であったといいます。

そんな反対をねじふせて、明治元年3月23日(慶応4年2月30日)、フランス、イギリス、オランダ3公使の接見となるんですが、鹿鳴館と伯爵夫人に書きましたように、イギリス公使パークスは暴漢に襲われまして……、いえ、暴漢ではなく志士ですね。維新回天がなったかと思えば帝が「禽獣のような」外国人に会われるとは、政治的ではなかった、純粋な尊攘檄派の志士にとっては、裏切り行為です。

まあ、ともかく、その日の接見は、フランス、オランダ公使のみとなり、パークス公使とミッドフォードは、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)に改めて接見、となったような次第です。
フランス、オランダ公使の感想については、中山和芳著『ミカドの外交儀礼?明治天皇の時代』で、見ることができます。
次いで、パークス公使の接見は、冒頭の『リーズデイル卿回想録』に詳しいんですが、ともかく、それらを総合しますと、風俗は朝廷風でありながら、西洋の王族の接見と、大きくかけ離れたものではなかったようなのです。


会場は、京都御所の紫宸殿です。
控えの間には、赤と黒の漆塗りの小型の円卓が並べられ、待つ間、茶と菓子(カステラ)とタバコが供されます。
そして、どこからともなく雅楽の演奏が聞こえます。
時間になりますと、衣冠束帯(だと思うんですが)姿の案内人が、公使たちを案内します。
雅楽の演奏は、紫宸殿の縁側に並んだ楽人たちによるもので、ずっと続いています。
紫宸殿の部屋そのものは、とても簡素なのですが、中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、天蓋の中、左右には木彫りの獅子の像、そして中央、「ゴシック風の椅子」に、明治天皇は腰掛けておられました。

少年帝は、お歯黒、化粧をされていて、白い上位に赤くて長い袴姿、とありますから、お引き直衣でおられたんですね。
ミッドフォードによれば、「このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並たいていのわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた」のだそうです。
公使たちが入場すると帝は立ち上がられます。
「彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった」
日本側の廷臣はみな「ひざまずいて」いましたが、公使たちは立ったままで、深々と礼をします。
公使の挨拶を受けられると、帝が一言二言話されて、おそばの山階宮に文書を渡される。山階宮がそれを読み上げ、通訳の伊藤博文が英語でその内容を伝える、という順序だったようです。
しかし……、今気づいたんですけど、お引き直衣って……、帝は普段着でおられってことなんでしょうか。うーん。
平安時代のお引き直衣は普段着なんですけど、幕末にはどうだったのか、よくは知らないんですが。

ともかく、です。帝が公式に外国の使節に会われるって、いったい、何百年ぶりでしょうか。
渤海使の接見は、いつが最後なんでしょう? 詳しい方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、あまりにも大昔のことで、前例もなにもないわけでして、とりあえず、各国公使側の希望としては西洋風でしょうけれども、では実際に欧州の皇室、王室は、どのように接見を行っているのか、日本側には、だれ一人見たことのある者はいないんです。
幕府側には、わずかながら経験のある者もあったわけですが、なにしろ、まだ東海道軍が江戸に到達していませんで、戦争はこれから、状態。
公使側に聞くといっても、公使を捕まえて「で、お国ではどんなもんで?」とか、詳しく聞いたら、それだけ相手のペースにまきこまれて、交渉になりませんよね。かろうじて、例えば、イギリス公使館のアーネスト・サトウをつかまえて、さりげなく聞き出す、とか、一応考えられなくもない感じがするんですが、これが、だめなんです。
長く日本にいて、日本語の達者なサトウが、なぜ帝に謁見できなかったか、といえば、自国の宮廷で謁見の経験がなかったからなんですね。
そういう欧州外交官の風習なども、だれから聞き出したものか、と思うのです。

そこで、モンブラン伯爵の登場です。フランスの伯爵にして、ベルギーの男爵。
彼がこの時期、新政府の外交にアドバイスをしていたことについては、かなりの証拠があります。
だったとすれば、「世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎ」で、御簾の中の半神だった少年帝が、西洋風の接見をなさるにあたっても、当然、アドバイスをしたものと考えられるでしょう。
しかし、公使を接見する以前に、モンブラン伯爵が謁見したかどうかについては、まあ、妄想の領域になってしまうんですけどね。ありえたのではないか、と、つい、思ってしまうわけなのです。
で、なぜモンブラン伯爵は、この動乱期の新政府に食い込んでいたのか。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 に続く時期から、順を追ってお話していこうかと思います。

というわけで、次回に続きます。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4

2007年03月09日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3 の続きです。

少々話が先走りますが、横須賀製鉄所建設に、もっとも猛烈に反発したのはイギリスで、その結果、建設推進の中心になっていたフランス駐日公使レオン・ロッシュは、海軍伝習をイギリスに譲ります。
本来、海軍造船所である横須賀製鉄所と海軍伝習は、セットになってしかるべきものだったのですが、造船、つまり機関関係の伝習のみがフランスで、兵科は、イギリスとなったのです。
イギリス海軍伝習教師団の日本到着は、慶応3年(1867)の暮れで、年が明けてすぐに鳥羽伏見の戦いが起こりますので、実質、ほとんどなにもできませんでしたが、イギリスはなにも、幕府を見放していたわけではないですし、幕府はかならずしも、フランスのみに頼っていたわけでもありません。

当時のオランダは、すでに、イギリスのような世界の海軍強国ではありません。
したがって、イギリスのように、真正面から強引に、幕府に迫ることはできなかったでしょう。
しかし、自国に機材を買い付けにきていた肥田浜五郎が、不満を訴えたとしますならば、からめてからの手助けは、喜んでしただろうと思うのです。

さて、慶応元年(1865)7月、フランスに姿を現した柴田使節団です。vol2で書きましたが、この使節団の目的は、横須賀製鉄所に必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入することです。

『日本・ベルギー関係史』

白水社

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この本によりますと、柴田日向守剛中は、香港で、在日経験のあるドイツ人から、ベルギー政府が日本と通商条約を結ぶ用意をしていると、知らされています。
使節の派遣は、すでに前年の暮れに決まっていて、オーギュスト・トキント・ド・ローデンベークが全権公使に任命されていたのですが、実際に来日したのは、この年の暮れです。
このトキントが来日するにあたっては、以前に日本公使を務め、当時は中国公使だったイギリスのラザフォード・オールコックが幕府に斡旋し、また横浜に到着したトキントを江戸に案内して、幕府に条約提携を口添えしたのは、オランダ公使だったのです。

シャルル・ド・モンブラン伯爵の両親は、フランス人です。
そして、モンブラン自身も、この本によれば、生涯、フランス国籍であったようです。しかし、彼の弟二人はベルギー国籍をとっていますし、6000人の領民がいたという領地インゲルムンステルは、ベルギーにあります。

はっきりはしないのですが、モンブラン家は、南フランスの旧家だったようです。
モンブラン伯爵の父親は、1835年に、ベルギーのインゲルムンステル城と男爵の称号を譲りうけ、フランスにおいてはモンブラン伯爵、ベルギーにおいてはインゲルムンステル男爵という二つの称号を持ち、1861年(文久元年)死去。同時に、長男のシャルル・ド・モンブランが、双方を受け継いでいるのです。

ところで、ベルギー王国は新しい国です。
歴史的経緯はいろいろとあるのですが、成立は1831年。つまり、モンブラン家がインゲルムンステル城主となる、わずか4年前のことなのです。
それでいったい、シャルル・ド・モンブラン伯爵の帰属意識がどうであったのか、私にはちょっと想像がつき辛いのですが、モンブラン家の伯爵の称号は、あるいは、自由主義的な7月王制(オルレアン家。この当時、オルレアン家はイギリスに亡命)期に受けたものではないか、という情報をいただいたりもしていまして、だとするならば、ナポレオン三世の宮廷に帰属意識は薄かったのではないか、とも思ってみたりします。
宮廷はともかく、どちらの国に、ということなのですが、フランス人としての意識は、強かったでしょう。両親がフランス人で、パリで生まれたわけですし、もちろんパリに邸宅を持ち、おそらくは教育も、パリで受けているのですから。
しかし、国家となるとどうなんでしょうか。経済的な基盤はベルギーにあるわけです。
おそらく、国籍はほとんど意識していなかったのではないのでしょうか。
そしてまた、モンブランと親交のあったロニーが共和主義者で、父親を追放した帝政に反感をもっていたらしいことは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で見ました。
フランス人であるという意識と、時のフランス政府の対日政策を支持するかどうかは、また別の問題でしょう。

ともかく、柴田日向守に近づいたモンブランは、まず、ベルギーとの通商条約締結を勧めます。
この時点で、柴田がモンブランに怒りを覚えた様子はないのですが、9月22日(「仏英行」8月3日)になって、突然、柴田はモンブランに怒りを覚え、「このベルギー貴族は愚物でイカサマ師」であると思ったようなことを、日記に記しているのです。
この時期、五代友厚と薩摩藩家老・新納刑部などの一行は、すでにモンブランのベルギーの居城を訪れていて、引き続きブリュッセルに滞在し、ベルギーと薩摩の商社設立契約などを話あっています。
その一行を置いて、モンブランはパリの柴田のもとを訪れているわけで、柴田がいったい、なにを言われて激怒したのかわからないのですが、私にはどうしても、横須賀製鉄所に関係することだと思われてならないのです。
といいますのも、肥田浜五郎は当時、柴田のもとで技術者雇い入れ、機材買い入れの責任者となっていたフランス人のヴェルニーと、機材の選択や造船所の設置場所で、激しく言い争っていたのです。
横須賀製鉄所の所長がフランス人ではなく、日本人の肥田浜五郎であれば、技術者にしろ機材にしろ、オランダ、イギリスの食い込む余地は、出てくるでしょう。
日本人・肥田に指揮をとらせるべきである、そうでなければ、例えば横浜の英字紙が書いたように、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」ようになる、と、モンブランが力説したのだとすれば、どうでしょうか。
五代や新納にしましても、とりあえずフランスの幕府支援がくずれるならば、果たしてオランダとイギリスが幕府の製鉄所建設にどれほどの援助をするかは未知数ですし、それにこしたことはなかったでしょう。

オランダ、イギリスの思惑は、あわよくば、フランスの融資をはずし、計画をのっとることも、視野に入っていた可能性があります。
しかし、両国が前面に出て邪魔をしたのでは、外交問題になります。これに、ベルギーも一枚かませるということで、モンブラン伯爵に交渉がもちかけられたのでは、なかったのでしょうか。
モンブラン伯爵はフランス人なのですから、いい隠れみのです。
しかし、ヴェルニーは非常に誠実な人柄の技術者であったらしく、柴田日向守は、深く信頼をよせていました。
さらに、フランス側では、銀行家で富豪のフリューリ・エラールが、対日貿易を取り仕切ることになり、全面的な金融協力を形で見せていたのですから、端からモンブランが口を出せば、詐欺師にも見えかねません。現実には、モンブランの陰にオランダ、イギリスがいて、融資が可能だったのだとしても、です。
またフランス政府が、モンブランの策動に気づいていたとすれば、当然、モンブランに対する非難を、柴田日向守の耳に入れるでしょう。

が、この問題にオランダとイギリスが噛んでいたのだとすれば、五代はもう一枚、したたかだったのではないでしょうか。
この時点で、グラバーやオリファントなど、イギリス人は個人として、薩摩藩に好意的な動きをしています。しかし、イギリス政府そのものが、交易相手として、幕府よりも薩摩藩に好意的だったわけではなく、フランスにいたっては、まったく相手にしていません。
ベルギー人にしてフランス人、というモンブラン伯爵は、薩摩にとって、願ってもない味方になりうる、と、五代は踏んだのでしょう。
2年の後、このとき五代が打った布石は見事に生き、パリで薩摩藩は独立国であるかのようにふるまうことに成功し、小栗上野介が企てた起債をつぶします。

ちなみに、明治新政府の最初の大仕事は、横須賀製鉄所の接収でした。
資金は結局、イギリス系のオリエンタルバンクからの融資でまかなわれますが、利子が高かったため、次いでオランダ系銀行の融資があてられます。
そして、所長には、長州からの密航イギリス留学生だった山尾庸三が、ただちに座るのです。
山尾は、伊藤博文や井上馨とともにイギリスへ渡った、いわゆる長州ファイブの一人です。四国連合艦隊が長州を攻撃するという話を聞き、伊藤と井上が慌てて帰国した後も、山尾を含む三人の長州人が残っていたのですが、馨薩摩藩留学生がイギリスに到着したことを知り、訪れて友好を暖めます。いまだ薩長連合はなっていませんが、密航ですし、異国の地で、心細い思いを噛みしめていたのでしょう。薩摩留学生たちとちがって、ろくに留学費をもらっていなかったのです。
やがて山尾は、グラスゴーへ造船を学びに行くことになります。旅費にも窮し、薩摩留学生のカンパによって、やっと旅立つことができました。
おそらくは、薩摩留学生とともに横須賀製鉄所設立の話を聞き、造船を実地に学ぶ決意をしただろう山尾にとって、横須賀製鉄所接収と所長就任は、宿願が実った瞬間では、なかったでしょうか。

しかし、ヴェルニーと技術者の多くは、当面、そのまま留まりましたし、そのおかげで、フランスの海軍造船学校へ、優秀な留学生を送り出すこともできました。
つまり、山尾が上にかぶさってみても、フランス人が主導した横須賀製鉄所の運営と伝習は見事で、口を出す余地は、あまりなかったのです。
横須賀鉄工所は、やがて横須賀海軍工廠となり、日本海軍の造船技術を育み、花咲かせたのです。
幕末、フランスの造船技術が体系的に伝えられたことは、近代日本の造船に多大な貢献をしたわけでして、小栗上野介の英断は称えられてしかるべきでしょう。

現在、横須賀にあるヴェルニー記念館には、ヴェルニーと小栗上野介の像が建てられているそうです。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3

2007年03月08日 | モンブラン伯爵
一日あきましたが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2 の続きです。

島津久光は、勤王家で、開国論者です。
開国論者なら、なぜ生麦事件を起こしたか、ということなんですが、これは久光にしてみれば、攘夷を実行したわけではないのです。
日本では大名行列に敬意を表することになっているのだから、郷にいらば郷に従えよ、無礼者! ということなのです。
実際、アメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、友人への手紙にこう記しています。(『古き日本の暼見』有隣新書)

その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです。

また、幕府のイギリス留学生で、後に駐英大使になった林董の『後は昔の記 他 林董回顧録』によれば、こうです。

友人等は、「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」という。四人は聞き入れずして、「否、此等アジア人の取扱方は、予能く心得おれり。心配なし」とて、8月21日、東海道に出で、終に生麦の騒動を引き起こせり。
予が知れるヴァンリードという米人は、日本語を解し、頗る日本通を以て自任したるが、リチャードソン等よりも前に島津の行列に逢い、直に下馬して馬の口をとり、道の傍らにたたずみ、駕籠の通るとき脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後、リチャードソンの生麦事件を聞き、「日本の風を知らずして驕傲無礼のためにわざわいを被りたるは、これ自業自得なり」

結局、薩摩藩は生麦事件の犯人を罰していませんし、これは、久光の命令だったから、と見た方がいいでしょう。
他の攘夷事件とは、ちょっといっしょにできない面があります。

ま、ともかく、薩摩藩は薩英戦争を余儀なくされ、受けて立つんですが、実は、その準備に、アームストロング砲を購入しようとしているんです。自藩の大砲がすでに旧式であることは、認識していたんですね。
それを知った駐日イギリス公使館は、慌てて輸入を差し止め、結局、薩摩はアームストロング砲を買うことができなかったのですが、もうなんといいますか、オランダに据え付けてもらった砲でオランダ船を攻撃した長州といい、なにを考えていたのか、という気がします。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、薩摩は島津斉彬の時代から、造船には非常に力を入れ、帆船ですが軍艦を幕府に献上したり、蒸気船の建造にも成功していたのですが、当時の欧米の造船は日進月歩。
莫大な費用をかけ、手探りで造船に取り組んでも、一つの藩でできることは限られていますし、欧米の軍艦に太刀打ちできるようなものは、できなかったのです。
佐賀藩もまた、熱心に造船に取り組んでいましたが、自藩での造船をあきらめ、造船のためにオランダから買い込んだ機材を、幕府に献上したため、それをどう使うか、ということで、石川島や横須賀の新しい製鉄所の話が持ち上がっていたようなわけでも、ありました。

つまり、結局、です。
自国の独立を守るため、海軍力、軍事力を強化するには、開国通商により、当面、欧米から軍艦、武器を輸入し、大々的に技術導入をはかるしかない、ということが、はっきりしてきていたんですね。それも、一藩でできることは、限られています。
佐賀藩は、とりあえず自藩の技術力、軍事力を高めることに全力を尽くし、対外的な軍事力増強という面に関しては、幕府に協力する姿勢を示していました。
国内的なもめごとは、外国を利するだけと見て、さけて通ることにしていたかのようです。

それで薩摩は………、なのですが、久光が主導していた間、積極的に幕府の改革に乗り出し、また、とりあえずは、朝廷の下に幕府と雄藩が協議する機構を設け、かなり朝廷に重心を移した公武合体をめざしていた、でしょう。
慶喜公と天璋院vol2に書いたのですが、薩英戦争後ただちにイギリスと和睦し、8.18クーデターで、朝廷における長州の主導権をひっくりかえし、参与会議の開催にこぎつけます。
で、参与会議が紛糾したのは、攘夷か開国か、ということでして、行きがかり上、幕府が横浜鎖港を唱えていて、本来開国派の一橋慶喜が、横浜鎖港に固執し、島津久光を筆頭とする開国派諸侯と、衝突したんです。
しかし、一つだけ、決まっていたことがありました。長州藩に制裁を加える、ということです。
慶喜の暴言に怒った久光は、ついに西郷隆盛の復権を認めて、幕府と一線を画すことに決め、薩摩へ帰りますが、なんのために帰ったかといいますと……、長州処分の派兵準備をするためです。長州処分には、幕府以上に熱心だったんです。
原因は、加徳丸事件です。

『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』

中央公論新社

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以前にもご紹介したことのある、一坂太郎氏の著作ですが、『第3章 堕落する「志士」』に、詳しい事件の経緯が載っています。
グラバーは坂本龍馬の黒幕か? では、グラバーの求めに応じて、「薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件」と書いたのですが、一坂氏によれば、義勇隊員がしたことかどうか、はっきりしているわけではなく、しかも、実は8.18クーデターを怨んでのことで、攘夷気分に乗って、薩摩藩を悪者に仕立てたのは、久坂玄瑞を中心とする長州の「志士」たちの策略であった、ということなのです。

薩摩藩の船に対する長州尊攘檄派の攻撃は、加徳丸が最初ではありません。
政変があった後の文久3年(1863)暮れ、薩摩藩が幕府から借用して交易に使っていた長崎丸が、下関で砲撃されています。美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きましたが、前田正名の兄は、長崎丸の釜焚をしていて、殺されました。
このときは、長州藩が慌てて薩摩に使者を送り、丁寧に詫びたので、島津久光は、むしろ激高する藩士をおさめる側にまわりました。
ところが、それから2ヶ月もたたないうちに、上関で加徳丸事件が起こったのです。
そこで、長州藩の策謀なのですが、一坂氏のご解説では、こうです。
「先手を打って、できるだけ人目につくところで犯人に派手に責任をとらせ、世間の同情を先に長州藩に集めてしまう。さらにその際、焼き討ちの理由を、薩摩藩が行っていた密貿易に対する義憤だったと公表する。そうなると、今度は薩摩藩が苦しい立場に置かれ、一石二鳥である」
実は、犯人はわかっていなかったようなのですが、「だれか名乗り出て藩の窮状を救え」ということで、義勇隊士二人を選び、時山直八、杉山松介、野村靖の三人が、自殺を強要したのだというのです。二人はびっくりして、「それなら薩摩藩邸に身柄を引き渡してくれ」というのですが、切腹しないのならば殺す、とまで迫られ、逃げるのですが、品川弥二郎と野村靖に追いかけられ、つかまったあげくに、二人の自決は藩政庁の命令とされてしまい、やむなく従います。

なんともやりきれない話ですが、この長州の工作は、大成功をおさめるのです。
薩摩商人の首が斬奸状とともにさらされ、その前で、二人が切腹しているところを見て、攘夷気分にひたっていた当時の人々は、二人の正義感を信じ、殺された薩摩商人に同情しようとは思わなかったのです。
これは、島津久光が怒るのも無理はないでしょう。
しかし、参与会議では、一橋慶喜が攘夷よりの姿勢を見せ、しかも、この時点において、幕府は長州処分に消極的だったんですね。
とりあえずの久光の気分は、割拠、だったのではないでしょうか。

禁門の変、四国連合艦隊による下関砲撃、双方の敗北で、長州藩は、藩としての単純攘夷は捨てます。
第一次長州征討があって、そして高杉晋作の功山寺挙兵で、長州も割拠の趣を見せるようになります。
なにより、長州が単純攘夷を捨てたことで、薩摩は長州との提携を視野に入れるようになりました。
ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。

横須賀製鉄所建設を決めたのは、幕府勘定奉行の小栗上野介ですが、その下には、勝とともにオランダ海軍伝習を受け、咸臨丸の太平洋横断時には、実質艦長の役目を務めた小野友五郎がいました。
この人は陪審の出身で、もともとの身分が勝より低かったため、当初は勝の下に立たされましたけれども、もとが天文方で、総合的な近代海軍技術導入については、勝つよりもすぐれた見識を持ち、それだけに勝とは対立していました。
咸臨丸渡米後、小野が海軍に残り、勝ははずされるのですが、勝が海軍に帰った時点で、小野は勘定方にまわったような次第だったのです。

そんなわけで、勝海舟周辺から、横須賀製鉄所建設の話は、薩摩に入った可能性もあり、イギリス、オランダにしろ、勝にしろ、「フランスの野望」を強調した情報となっていたと、推測できるのです。
後年の回想なのですが、「横須賀のことか何かで、ついにイギリスとフランスといくさをしかかったというようなこともありました」と、グラバーは述べています。
また、横浜で刊行されていたイギリス系の風刺雑誌には、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」といったような記事が、載るようになろうとしていたのです。
その情報を受けた薩摩としては、一方に、思うにまかせない自藩海軍力の増強、という現実があるわけでして、あるいは薩摩藩首脳部の一部は、将来に、朝廷のもとでの中央集権までも、想定したのではなかったでしょうか。
対外を考えるならば、なによりも増強すべきは海軍なのです。
しかし、海軍には莫大な費用がかかり、また技術導入も一藩では容易に進まず、幕府海軍との格差は、ひらくばかりでした。

薩摩藩が、五代友厚の献策を入れて、イギリスへ密航留学生を送り出すことにしたのも、幕府の大がかりな、横須賀製鉄所建設を知ったことによるものと思われます。
現実に、薩摩密航留学生の中で、海軍関係の勉学を積んだのは、アメリカに渡って、維新後にアナポリス海軍兵学校に入ることができた松村淳蔵のみですが、それは結果論であって、最初は大多数が、海軍関係の勉学を志していたのです。
そんな薩摩が、オランダにいる肥田浜五郎や、幕府の留学生に、連絡をとろうとしなかったとは、ちょっと思えません。前回書きましたように、五代にしろ、寺島宗則にしろ、知り合いは多いのです。
といいますか、オランダの海軍大臣カッテンディーケは、在日時、当時の藩主、島津斉彬に招かれて、薩摩を訪問しています。

つまり、肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し、フランスの全面協力による横須賀製鉄所建設反対、という点においては、五代と肥田は一致しますので、肥田浜五郎から、あるいはオランダ海軍関係者から、五代に、モンブラン伯爵が紹介されたのではなかったでしょうか。

というわけで、さらに続きます。おそらく、次回で終わるでしょう。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2

2007年03月06日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 の続きです。

モンブラン伯爵は、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きましたように、安政5年(1858年)、フランス全権使節団の一員として、来日します。学術調査(おそらくは地理学)員でした。このときの在日期間は、40日間ほどだったのですが、文久2年(1862)、今度は一旅行者として、横浜を訪れました。
宮永孝氏の論文では、同年のうちにフランスへ帰国、となっているのですが、これは、帰国時にモンブランが伴った日本人、斉藤健次郎(ジラール・ド・ケン)が、文久2年にフランスへ来たと話していたと、記録に残ったりしているからでしょう。
斉藤健次郎の写真は、東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 4.幕府オランダ留学生 で見ることができます。
って、オランダ留学生じゃあ、ないんですけどね。ほかに分類できなかったので、ここに入ったみたいです。

ただ、これはどうなんでしょう。密航ですし、かならずしも、ケンが正確なところをしゃべったとも思えないんですね。
といいますのも、文久2年(1862)3月(陽暦4月)、フランス入りした日本初の遣欧使節団の前に、モンブラン伯もケンも、姿を現していないのです。奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で書きましたように、モンブラン伯と親交の深かったロニーが、接待役を務めていたにもかかわらず、です。
したがって、モンブラン伯がケンを伴って帰国したのは、もし文久2年だったにしても、使節団が欧州を離れた9月以降のことではないか、と考えられます。

さて、モンブラン伯とケンが日本人の前に姿を現すのは、元治元年(1864)3月、池田使節団がフランスを訪れたときです。
この池田使節団、そもそもの渡欧目的が、横浜鎖港を交渉する、という実現不可能なものでして、幕府の役人にもそれくらいのことはわかっておりましたので、一応交渉はしました、と、朝廷に言い訳するための生け贄のような、気の毒な使節団でした。
さらに、前年に横浜でフランス士官が浪人に斬り殺された事件や、長州藩が下関でフランス船を砲撃して水兵4人を殺した事件や、ともかくそんな、言い訳もしづらい事件を謝罪しつつ………、なのですから、気の毒もいいところ、です。

で、この池田使節団なのですが、フランスで「秘密条約」なるものを結んでいまして、それが「下関における長州の外国船砲撃を防ぐため、幕府が航路を警備するのであれば、フランス海軍はそれを助ける」というものでした。これを後世、尾佐竹猛氏が「フランス海軍の指揮下に幕府が長州征伐をする」というような文脈で解釈なさり、昭和初期の排外思想の中で、「外国軍隊を引き入れて植民地化の道をひらく危険な条約だった」ということになったのですが、どんなものでしょう。

現実問題、この時期、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊が、報復のため下関を攻撃する、という話が持ち上がっていました。池田使節団帰国後、現実にそうなるのですが。
長州藩が勝手に外国艦船を攻撃したこと自体、対外的な幕府の威信が地に落ちた事件でしたが、その報復のために、外国艦船が勝手に長州藩を攻撃するとなりますと、今度は国内的に、幕府の威信は底をつくわけです。
長州藩は、外国艦船だけではなく、外国と交易しているという理由で、薩摩の交易船、長崎丸、加徳丸も攻撃して、乗組員を殺傷していたのですから、日本が統一国家だというのならば、瀬戸内海航路の安全確保は、時の政府である幕府の役目です。
したがって、むしろフランスの提案は、「日本政府に役目を果たす気があるのならば、顔を立てて、われわれは支援にまわりますよ」というものであって、植民地化がどうの、という話ではありません。
むしろ、幕府が動かないのならばと、四国連合艦隊が下関を攻撃した結果、伊藤博文の後年の談話では、ですが、イギリスが彦島租借を持ち出した、というような話にもなっているのです。

筋道から言うならば、幕府は四国連合艦隊の出動を押さえて、自ら長州を攻撃するべきだったでしょう。
ただ、日本国中で攘夷気分が盛り上がっていましたし、長州の宣伝工作は巧みでもありましたので、実際問題としては、幕府がコーストガードにせいを出すにしても、フランスのいうように外国船の力を借りたのでは、反幕気分を高める材料にしかなりません。
そんなわけで、帰国した使節団の主立った面々は、蟄居、閉門、免職などの処分を受け、幕府は使節団がパリで結んできた条約を破棄しました。
それまで、下関攻撃参加を見合わせていたフランスも、これによって、イギリスの主導に従い、攻撃に参加することを決めたのです。

で、ですね、昭和初期の講談では、大筋、日本の植民地化をねらったフランスの野望に従い、モンブラン伯爵が横浜で暗躍して幕府の役人をたらしこんだ、というようなことなのですが。
池田使節団を送り出すについては、ときの駐日フランス公使ベルクールが幕府に助言したようですし、モンブラン伯は、このベルクールとは関係がよかったのではないか、という感じがするにはするのですが、当時、モンブラン伯は日本にいません。
あるいは、書簡でベルクールからの依頼を受けて、「秘密条約」提携を、説得したのかもしれないんですけれども、統一国家の政府として幕府が果たすべき義務を説いたのだとしましたら、「暗躍」というようなものなんでしょうか。

さて、あきらかにモンブラン伯の「暗躍」があったのが、翌慶応元年(1865)7月、フランスに現れた柴田使節団にからんで、です。
柴田使節団渡仏の目的は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1において書きましたように、前年の暮れに横須賀製鉄所の建設が決まりましたので、これに必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入すること、でした。
その柴田使節団がリヨンに到着したとき、オランダから駆けつけた肥田浜五郎が出迎えたのですが、そのそばには、ジラール・ド・ケンがいました。
これは、です。肥田浜五郎は、使節団を出迎える前に、モンブラン伯爵と会っていたのではないか、と、考える方が自然でしょう。

肥田浜五郎は、石川島造船所のために、オランダで機械類の買い付けをしていたわけなのですが、石川島造船所整備計画が中止となったことを知らされ、さらに、すでに買った機械類を持ってフランスへ行き、柴田使節団を補佐するよう、幕府からの命令を受け取っていたのです。
これが、肥田浜五郎にとって、不満でなかったはずがないでしょう。
横須賀製鉄所の所長は、すでにフランス人のヴェルニーに決まっていましたし、その下の技師たちも、みなフランス人を雇う予定です。この大がかりな横須賀製鉄所計画において、オランダ人から学んだ肥田は、よそ者になるのが目に見えています。
石川島のこじんまりとした造船所で、肥田は所長として、すべてを取り仕切る予定だったのです。
そして、滞在先のオランダ政府も、フランスのこの計画に反発しています。
当時オランダは、榎本武揚を中心とする海軍関係者のほか、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?に出てきます、政治学を志した西周や津田真道など、幕臣の留学を受け入れていました。
このときのオランダの海軍大臣は、海軍伝習の教授として来日した経験のある、カッテンディーケで、彼は一時、外務大臣もかねていました。つまり彼は、教え子たちと日本に、親近感と期待を持っていたと察せられるのです。

この時点で、そんなことが可能だったかどうかはわかりませんが、フランスの提案を変更させ、日本人を所長にし、フランスからの技術提供は部分的なものにできないか、というような画策を、オランダが考え、肥田に持ちかけた、あるいは肥田からカッテンディーケに持ちかけた、としたら、どうでしょうか。
その画策のために、肥田をモンブランに紹介したのは、オランダ海軍関係者であったのではないか、と思うのです。おそらくはモンブラン伯爵はフリーメーソンか? で書きましたような、フリーメーソンのネットワークを使って、です。

ところで、柴田使節団がフランスに姿を現す2ヶ月ほど前、イギリスのロンドンに、薩摩藩密航留学生の一行が、到着していました。そして1ヶ月後、ロニーとケンが、一行に会うため、ロンドンへ姿を現します。これは従来、モンブラン伯爵の方から、薩摩藩への接近を試みて派遣したもの、とされているのですが、果たしてどうでしょうか。
一行の中心にいたのは、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)でした。
そして、五代は長崎のオランダ海軍伝習に参加していて、肥田浜五郎や幕府のオランダ留学生とも知り合いでしたし、寺島は、幕府の蕃書調所教授でしたので、やはり蕃書調所にいた西周、津田真道と知り合いですし、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、ロニーとはすでに懇意だった上、柴田使節団のメンバーにも、けっこう知己がいたのです。といいますか、柴田日向守自身、文久2年の使節団に加わっていた人です。
オランダとともに、フランスの横須賀製鉄所計画を快く思っていなかったイギリス。
薩摩藩密航留学は、イギリス商人グラバーの手助けでなされているわけでして、これまで、幕府に武器や中古蒸気船を売っていたグラバーにとっても、当然、快くはなかったわけでしょう。
それではいったい、五代友厚と薩摩藩はなにを考えていたのか………。

ということで、また、明日に続きます。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1

2007年03月05日 | モンブラン伯爵
今日はちょっと覚え書きに近いんですが、幕末のさまざまな動きに、「海軍」というキーワードを持ってくると、けっこう話が見えてきたりします。

幕末の黒船騒動で、最初に敏感に反応したのは、雄藩大名だったんですけれども、水戸斉昭、島津斉彬、鍋島閑叟などは、まっさきに、造船に取り組んでいます。
すでに、それぞれの藩で、海軍力のなさを痛感した事件があったからです。
水戸の場合は、大津浜事件。文政八年(1824)、常陸大津浜に、イギリスの捕鯨船員が勝手に上陸し、食料や薪水を要求した事件で、大騒ぎになりました。
薩摩は、支配下の琉球に、天保15年(1844)、フランス軍艦が現れ、開国要求をして以来、琉球や西南諸島で、たびたび黒船騒動が起こっています。
佐賀の場合は、少々古いんですが、文化5年(1808)のフェートン号事件でしょう。
佐賀藩は、幕府から長崎警備を任されていたのですが、イギリスのフェートン号がオランダ国旗をあげて長崎に入港し、オランダ商館員を拿捕して、食料薪水を要求。しかし、港内の船を焼き払う、というイギリス船の脅しに、警備の鍋島藩はなすすべもなく、長崎奉行は要求を呑み、責任をとって鍋島藩家老は切腹しました。

こういった事件を自藩で経験していた雄藩は、海軍力増強、西洋近代兵器導入の必要を痛感し、それぞれに取り組んでいたのですが、幕府、そして藩内保守派が、なかなか動こうとしなかったところへ、ペリー来航です。
さすがの幕府も海軍の必要を痛感し、雄藩の取り組みを奨励するとともに(たとえば水戸藩の石川島造船所)、最初に頼ったのが、古くからつきあってきたオランダです。

まずオランダに、新造機帆小型コルベット2隻(咸臨丸、朝陽丸)を注文し、その軍艦の乗組員を育てるため、安政2年(1855)、長崎オランダ海軍伝習所を開くことになります。
ところで、軍艦を持つということは、その整備、修理を国内でする必要もある、ということです。幕府は2年後に、長崎製鉄所(名前が製鉄所なんですが船舶修理所です)を起工し、文久元年(1861)には完成させていますが、ここの設備機械なども、オランダ製を主としていました。
その後、幕府はいろいろな国の中古蒸気船を買いはするのですが、新造軍艦としては、元治元年(1864)アメリカに富士山丸、そして再びオランダに、フリゲート艦開陽丸発注です。
幕府は、長崎オランダ海軍伝習所において、諸藩からの希望者受講を許しましたので、主に西南雄藩から、多くの受講生が集いましたが、もっとも人数が多かったのは、佐賀藩です。
その佐賀は、オランダに、電流丸(咸臨丸と同型)、日進丸(開陽丸より一足遅くに注文。受取が明治維新後となったため、明治海軍の主力艦となる)という新造軍艦を注文しています。
つまり、佐賀、薩摩など、海軍に力をそそいだ雄藩は、イギリス製造の軍艦をも買いましたが、これらは中古品で、最初から発注して、という形では、オランダのみだったんですね。
これは、オランダにとって、最初に一隻、幕府に軍艦を贈った上で、海軍伝習を引き受けた成果だった、といえるでしょう。
だとすれば、幕府がフランスに横須賀製鉄所(これも製鉄所と言われていますが、海軍船舶整備修理、造船所です)建設をゆだねたことは、オランダにとって、大きな脅威だったはずです。

『横須賀製鉄所の人びと 花ひらくフランス文化』

有隣堂

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あらま、現在すごい値段になってますねえ。暴利です。普通に古書店でさがせば、こんな値段はしないはずです。

えーと、その横須賀製鉄所のお話に入る前に、なぜ、フランスが幕府支援に力を入れたか、です。
フランスは、ちょうどこの時期、ベトナムを植民地支配しようとしていますが、日本への関心は、それとはちょっと、趣がちがうんです。
生糸、シルクです。
横浜開港以来、日本からの輸出の大半は、生糸でした。これには、理由があります。
欧州における生糸の産地は、フランスとイタリアだったんですが、蚕の病気が流行り、生産高が激減してしまったんです。石井孝著『港都横浜の誕生』によれば、嘉永6年(1853 ペリー来航の年)から慶応元年(1865)までに、フランスの生糸生産は、4300万斤から160~170万斤ほどにまで、落ち込んだんだそうです。
フランスにおいて、ファッション産業は、大きな比率をしめています。リヨンではさまざまな絹織物が作られ、その絹織物はパリで最先端のファッションとなり、欧米各国に輸出されていたのです。
フランスにとって、生糸の安定的な輸入は、とても重要なことだったんです。
横浜が開港するまで、欧州に生糸を輸出していたのは、主に中国だったのですが、ちょうど太平天国の乱が起こり、上海の交易が中止となり、開港した横浜の生糸が注目されました。非常に品質もいい、ということで、日本からの生糸の輸出は、フランスにとって、貴重なものとなったのです。

ところが、この生糸輸出、国内的には、いろいろと問題が生じました。なにしろ、輸出生糸の価格は、国内相場よりはるかに高かったものですから、西陣など、日本の絹織物産地に生糸が入らなくなってしまったんですね。
京都の攘夷気分には、そんなことも影響していたため、幕府はさまざまな輸出制限を試みます。
フランスなどは、日本の蚕ならば病気にやられないのでは、というので、蚕種の輸入もはじめるのですが、これにも、一時幕府は制限をかけます。
イギリスなどの商人は、日本の生糸や蚕種をフランスに仲買して、中間利益を得るだけですから、個々の商人の利害でしかなく、あまり政府がかかわるような問題でもなかったのですが、フランスの場合、国内産業の死活問題でした。
そんなわけで、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? のアラビア馬なぞ、フランス皇室秘蔵の種馬だったりなんぞしたのですが、ナポレオン三世は、幕府が蚕種紙を贈ったお礼として、奮発したりもしたわけなのです。

ところで、幕府は、築地に軍艦所を設けていましたが、その軍艦を整備する造船所は、浦賀にありました。しかし、これは設備の整っていないものだったので、水戸藩にまかせていた石川島(現在の豊洲)の造船所を充実させ、本格的なものにしようと、元治元年(1864)8月ころ、軍艦操練所教授方頭取だった肥田浜五郎を、オランダへ工作機械の購入と、その使い方の伝習に、行かせました。
肥田浜五郎は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた幕臣で、機関方で非常に優秀だったと、オランダ人も誉めています。咸臨丸のアメリカ渡航時にも、機関方の主任となり、帰国後、蒸気機関の製造にも成功をおさめていました。

ところが、です。ちょうどそのころ、か、あるいはそれ以前でしょうか、この年、新しく日本に赴任してきたフランス公使レオン・ロッシュが、幕府が造船所を作りたがっていると知り、横須賀にフランスが造船所を作り、そこで造船に関する伝習も行う、という案を、小栗上野介に提案していたのです。その支払いには幕府領の生糸の売り上げをあてる、というようなことで、非常に具体的な建設案であり、しかも、幕府の見積もりよりもはるかに安い建設費でした。
造船所がフランスの技術によるもので、そこで伝習も行われるとなりますと、将来、フランスへの軍艦注文も期待できます。生糸の安定的輸入とともに一石二鳥で、現実に、フランスは、かなり良心的な建設案を提示したのでしょう。
そこで、幕府は、その年の11月10日、正式にフランスの提案を受け入れたのです。
ただ、支払いには生糸の売り上げをあてる、という話は、自由貿易に反する、というイギリスとオランダの反対で、とりやめになり、フランスの会社が融資の保証に立った、という話もあるのですが、さて、イギリスとオランダの反対って、生糸の売り上げ云々のみの話でしょうか? 

軍艦に武器。日本の輸入品の中で、これは大きな割合をしめていますし、オランダとイギリスは、幕府への軍艦、武器の売り込みで、これまでは、フランスより優位に立っていたのです。
ほんの一年前、長州は下関で外国艦船を砲撃しましたし、薩摩は薩英戦争に至りました。まだこの時点では、欧州各国、売った軍艦や武器が攘夷に使われることを警戒していましたし、取引相手として信頼できるのは、幕府のみです。
このフランスの幕府接近に、イギリス商人たちが猛烈な反発をしめしていたことは、当時、横浜で発行されていた英字新聞にも見られるようですが、国を挙げて軍艦を売り込んできたオランダだとて、そうでしょう。
そして、舞台はフランスに移ります。

というところで、続きは明日。


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白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理

2007年01月14日 | モンブラン伯爵
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『フランス人の幕末維新』

有隣堂

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この本、『フランス人の幕末維新』を買ったのは、実は、函館戦争に参加したフランス人、ウージェヌ・コラシュの手記が収録されていると、最近知ったからです。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)で書いたのですが、コラシュの手記は、鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』に要約が、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光 知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』に挿絵が載っています。
しかし、この本を買うまで、1860年にパリで創刊された旅行専門誌『世界周遊』の28号(明治7年・1874年発行)に載せられたものだとは、知りませんでした。
この本には、コラシュの手記だけではなく、『世界周遊』に載せられた他の二編の日本旅行記も収録されています。
最後の一編は、明治7年の富士登山記で、現在の私の関心から少しはずれるのですが、嬉しかったのは、最初の一編です。
安政5年(1858年)、ペリー来航からおよそ3年の後、国交を求めてやってきたフランス全権使節団の一員だった、M・ド・モージュ侯爵のものだったんです。

私がこのブログでモンブラン伯爵のことを書かなくなったのには、わけがあります。
検索をかけていて、法政大学が出している『社会志林』という雑誌に、宮永孝氏がモンブラン伯爵のことを書いているらしい、とはわかっていたのですが、近くの大学の図書館にはその号がなく、どこにあるものやらと思いまどっているうちに、ご親切に、コピーを送ってくださった方がいたんです。
これがもう、予想もしていなかったほどに詳しく、調べることもなくなりました。
それでわかったのですが、モンブラン伯爵が、グロ男爵を団長とするこのフランス全権使節団に加わっていたということは、本当だったんですね。

つまり、この旅行記の著者、M・ド・モージュ侯爵は、モンブラン伯とまったく同じ経験をしているのです。解説によりますと、侯爵の経歴はまったくわかっていないそうで、まさか、とは思うのですが、モンブラン伯の変名か? と勘ぐりたくなるほど、深く日本について勉強した旅行記です。例えば、以下のような部分。

日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。
 大君は最初は宰相、つまり、失墜したので生来の力を剥奪された王朝の一等役人にすぎなかった。日本のメロヴィンガ朝ともいえる、その末裔を断髪した後も僧院に閉じこめないで豪奢な寺院に幽閉し、この半神(ミカド)および全国民にこの境遇こそが神々しい出自に一段とふさわしいと説得し、この半神を偶像にしあげたのだ。したがって、新王朝は玉座の上に樹立され、かつての支配者への尊敬を主張し、古の支配者のうちに日本列島の絶対的主権者を認め続けながら、政権を簒奪したのだ。日本の政治構造の全体系はこのようなフィクションの上に依存しているのだ。

ええっ!!! どびっくりしました。
アラゴルンは明治大帝かで、私はこう書きました。「このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします」
百数十年も前に、はじめて日本を訪れたフランス貴族が、同じようなことを考えていたなんて!!!
かなり歴史を省略してはいますが、外国人の解釈として、驚くほど的確ではないでしょうか。洞察がまた、すぐれています。

そもそも、江戸の住民は将軍の存在に煩わされることはめったにないのだ。彼は年に五、六回、宮廷の敷地から乗り物で外出するだけで、町から一里に位置する寺院へ祖先の御霊を崇めに行くからだ。彼は礼儀作法に縛られ、生活はいろいろな祭儀でがんじがらめになっているので、人の目にはますます見えにくい半神のようなものになり、あまりにも高位に奉られているので現世の所業に手を染めることもない。したがって、政体を司るのは宰相、つまり大老と摂政会議なのだ。(中略)今日では大君はしだいに第二のミカドになっているのだ。

あー、よくおわかりで。
ただ、例えば日本の身分制度については、非常に強固なカースト制度のように書いてあったり、モンブラン伯の日本観幕末版『明日は舞踏会』で書きましたように、『モンブランの日本見聞録』が「階級は区別されてはいるが、カースト制度を作っているのではない」というような理解に至っているのにはかなわないところがあるのですが、モンブラン伯はその後も日本を訪れ、日本人と深くつきあって後に見聞録を書いたわけでして、モージュ侯のものは初来日の印象記なのですから、それにしては出色です。

最後に、フランス貴族ってみんな、お料理の描写が細かいですねえ。宮廷料理と装飾菓子で、明治維新の直前、リュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵が記した日本式「ピエスモンテ」のことを書きましたが、それと似たような話がありました。

がいして、日本料理は中国料理によく似ているが、料理の出し方、盛りつけや清潔さの点では、はるかにまさっているようだ。給仕人自身も大小を差しており、新たな料理を出すたびに、驚きや豪奢や品のよさのうちにも中国人の文官の食卓ではついぞお目にかかれないちょっとした洗練されたものが感じられた。そこに配されたものといえば、まずは花々や動物の姿に刈り込んだ盆栽であり、海や海藻を模した皿に盛られたばかでかい魚や、伊勢えびやかぶを切り刻んでつくった目を見張るような花々だった。これらの花々は外国奉行の手になるものだ、と奉行は自慢げに、ほほえみながら説明した。この点で役人たちのお手並みがいかに高度なものかを知らしめてくれはしたが、彼らの仕事の中身と重要性については、それほどのものではないと納得させるものでもあった。すべてがこのようにうまく秩序だっており、社会機構がこのように簡単に機能していて、主たる役人たちが、かぶ、人参や伊勢えびの切り身で素敵な花束をつくるのに日々を費やすことができるような国民とは幸せなるかな! というものだ。

いや、もう、笑いました。笑ったんですけど、いくらなんでも、ほんとうに下田のお奉行さまが、日本式ピエスモンテを作っていたんでしょうか。
その部屋に飾られていた盆栽か生け花を、お奉行さまが作った、飾ったと説明されたのを聞きまちがえたんじゃないんでしょうかしらん。盆栽ならば作ってそうですし、生け花は武士のたしなみです。
あー、料理にしましても、氏家幹人氏の『小石川御家人物語』を見ていますと、幕府の御家人が日記に南蛮漬(ピクルスです)のレシピを書いていたりしまして、漬け物は男が漬けるもののようでしたけど、いくらなんでも手の込んだ細工料理をねえ。ペリーのときと同じく、料亭の仕出し料理のはずです。
お奉行さまは、中村出羽守となっているんですが、ちょっとフランス人をからかってみたのでしょうか。それとも、やはり盆栽か生け花か。なんにしても、フランス人もあきれるのんきなことではあるんですが。
なお、デザートはカステラで、「えもいえぬほどおいしく、見事な切り口で出されたサヴォア菓子」と記され、昔スペインから伝わったもの、と、ちゃんと説明されています。

忘れていました。書き加えます。
幕府には、ちゃんと料理人がいて、彼らももちろん武士ですよねえ。
「幕府料理方頭取・石井治兵衛家」というのがあって、明治維新後、代々宮中の御厨子所預だった高橋家が、石井家に職をゆずったって、ありました。慶応義塾図書館の貴重書、『中原忠兼料理式伝書』の解説です。検索をかければpdf書類で出てきます。
手持ちの『江戸幕府役職集成』を見てみたんですが、石井治兵衛家が務めていたという料理方がどの役職なんだか、よくわかりません。しかし、御膳奉行というのがあって、御膳所御台所頭、なんていうのもあります。ここらあたりなんでしょうか。
場所が下田なので、江戸の料亭の仕出しを頼むのも不便で、江戸城から料理方が出張したとか、なんでしょうか。それで、料理方の役人が調理した、というのを、もてなされたグロ男爵、モージュ侯爵たちフランス人は、下田の外国奉行が調理した、と勘違いした、とか。
それが一番、可能性が高そうですね。


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モンブラン伯の明治維新

2006年01月21日 | モンブラン伯爵
先日から続けてご紹介しています、クリスチャン・ポラック著『絹と光 日仏交流の黄金期』には、もちろん、陸軍伝習のフランス人について、のみだけではなく、幕末から明治にかけての広範な日仏交流史が取り上げられています。
そこで、やはりモンブラン伯も登場するわけなのですが、評判の悪い人物であったためか、あるいは、もしかすると国籍がベルギーらしいためか、鉱山開発のところでちょっと触れられているだけで、疑問のつく記述もあります。
五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いているのですが、資料が明記されてないんですよねえ。

モンブラン伯爵は大山師か

上の記事で、名倉予何人の日記によれば、「パリのモンブラン伯邸は、「チボリ街」にあるというのですね。これが現在のパリのどこらあたりなのか、さっぱりわかりません」と書きまして、下の記事にありますように、個人サイトのBBSの方で、「サン・ラザール駅のそば」と、お教えいただいております。

モンブラン伯とグラバー

名倉予何人の日記と、上記の記事でははぶきましたが、さらに三宅復一の日記にも、モンブラン伯邸はチボリ街とされているのですが、双方、鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリー)の260ページに引用されています。

元治元年 (1864)3月25日
名倉
「午後、四、五名相伴テ、館(ホテル)ヲ出テ、チボリ街ノモンブラン家ニ至ル」
三宅
「十二時頃より、チボリ町に至り、ケンに逢ふ。並にコント(伯爵)及び其れの母、又姉に逢ふ」

五代友厚の渡欧は、この翌年、元治元年(1865)なんですが、日記を見ても、パリのモンブラン邸の場所は、書いていないんです。第一、五代は、ベルギーのインゲルムンステル城には泊まりましたが、パリではモンブラン邸に宿泊したわけではなく、ホテルに泊まり、訪れているだけです。
さらに明治2年、モンブラン伯爵は、駐仏日本公使代理となって、パリではじめての日本公使館を「ティボリ街」に置くんですが、これは、自宅を提供した、と考えるのが自然ではないでしょうか。
ポラック氏の書く「サンジェルマン・デプレ」は、学生街ですから、おそらく、モンブラン伯があずかっていた二人の薩摩留学生、田中靜洲(朝倉盛明)、中村宗見(博愛)の下宿だったんじゃないんでしょうか。
ここらあたりの事情については、詳しいサイトさんを見つけました。
意外なところに、といいますか、地質学の学者さんのサイトです。

応用地質雑文 実践的地質学の源流としての薩摩
同年6月21日(慶応元年5月28日)ロンドンに到着したが,朝倉は,11月には中村宗見(博愛:外務大書記官, 1843-1902)と共にフランスに渡り,パリでモンブラン伯(Charles Comte de MONTBLANC, 1832-1893)のところに寄寓,フランス語・殖産・鉱山学を修めた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会では,薩摩藩出品文物の説明にも当たっている。
 同年7月帰国し,再び開成所で訓導師として勤務した。帰国後も変名の朝倉省吾(靜吾)を名乗っていた。藩に迷惑をかけない便法として用いた変名であったが,主君の命名ということで,その後も変名をそのまま用いた人も多い。11月8日薩摩藩の政治顧問格となったモンブランが,鉱山技師コワニー夫妻・坑夫1名と共に来薩したが,朝倉は五代と共に上海まで出迎えている。政治情勢が風雲急を告げ,出兵した茂久の後を追ってモンブランが五代らと兵庫へ向かった後も,コワニーは薩摩に残った。

生野銀山の開発に尽力したコワニーについては、ポラック氏も書いておられるんですが、招聘の事情は簡略で、朝倉省吾については、触れられてないんですね。
資料にあたってみないといけないんですが、風雲急を告げる慶応3年末の関西に、モンブラン伯がいたことは確かのようですね。

モンブラン伯王政復古黒幕説

上記の記事に書きました、王政復古の薩摩の政略にモンブラン伯がからんでいた可能性、まったくの妄想ではなくなってきました。
鳥羽伏見直後の神戸事件、堺事件を扱った、こちらのサイトさんの論文にも、モンブラン伯が登場していました。

明治維新期の公家外交について~東久世通禧を中心に~
この二つの事件はまだ、新政府が三職制であったときに起きたものであり、ここで外交団を急造し、これが正式に外交団となっていく。東久世は当時の外交担当者を「其時の外国掛は山階宮が総裁と云ふ名義であって(12)、併し名義は色々に変わりました能く覚えても居らぬ(13)、其次は宇和島伊豫守(中略)其次は私、其次は後藤象二郎、其次は岩下佐次右衛門即ち方平、寺島宗則、五代友厚、中井弘、伊藤博文などあった」と語っている。(14)その他、この時期の外交に携わった人物としては小松帯刀なども居る。
(中略)
五代は主に大坂で外交に当たることが多く、堺事件で活躍した。「後年朝廷より君に勲章を賜はるの栄ありしは、他に功少なからずと雖、多くは本件(堺事件)の功績を思召出されてならんと聞く」(20)と五代がよく活躍したことを表している。
 小松は薩摩藩城代家老であったが、上京を命じられ、その後、二月に入ってから、大坂に出張し外交問題に携わった。
 吉井は大坂に居たが、神戸事件の知らせを受け、寺島と共に兵庫に出向き、事件解決に尽力した。(21)
(中略)
また、外交官達の一人である中井は幕末に薩摩藩を脱藩し、後藤に拾われ、彼の出仕で渡英。その後、伊達に招かれて、宇和島の周旋方として京都で活躍した。(66)さらに、この時期の伊達の日記にもかなりの頻度で登場し、伊達との絆の強さを思わせる。伊達は五代とも強いつながりを持っており、十七日にはモンブランを紹介してもらっている。(67)一般に考えても、公家である東久世よりは宇和島藩主である伊達の方が、下の外交官達とのつながりは強いと言えるだろう。

どちらもフランス水兵が被害者となった事件で、この時期、モンブラン伯が確実に関西にいたのならば、おそらく薩摩は、モンブラン伯に斡旋を頼んだだろう、と思ってはいたのですが、上記サイトによれば、『伊達宗城在京日記』七〇九頁に、伊達城が五代にモンブランを紹介してもらっている旨、載っているそうですから、まちがいはないでしょう。
写真は、鹿児島・磯の異人館です。慶応三年、日本初の様式紡績工場建設と操業のため、招いた技師たちのための宿舎でした。これはイギリスの機械で、イギリス人だったといわれているのですが、モンブラン伯がらみだったという話も、ちょっと読んだような気がしまして、ちょっと調べてみないといけないのですけれども、とりあえず、モンブラン伯が訪れた頃の鹿児島をしのびまして、載せました。

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函館戦争のフランス人vol1
鹿鳴館と伯爵夫人



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モンブラン伯とグラバー

2006年01月11日 | モンブラン伯爵
桐野の資料をひっくり返していて、どびっくりの発見がありました。防長史談会雑誌のコピーを持っていたのですね。高杉と桐野の接点がないものかと、薩長連合のあたりを調べていて、山口の図書館から取り寄せていたもののようです。
その一つが、明治45年2月に、中原邦平がグラバーから話を聞きだしているものだったんですが、なんとグラバーは、モンブラン伯のことをしゃべっているではありませんか。
なにしろ、五十年前のことですから、高杉を木戸とまちがえていたり、話が思い込みになってしまっているのですが、「徳川幕府の謀反人の中では、自分が最も大きな謀反人でありました」としめくくっている、有名な述懐です。
モンブラン伯については、「非常に嫌な奴でありました。自分は大分彼の邪魔をしてやりました。西洋の言葉で申すと棺に釘を打ってやったのです」って言ってます。
すごいな、グラバー。さすがスコットランド人。
幕府とフランスの提携については、グラバーのようなイギリス人がたきつけたためもありますが、木戸、高杉、伊藤、井上と、みんな気に病んでいるんですね。
慶応2年の2月に高杉が長崎へ行ったのは、ひとつには、グラバーの手を借りて欧州に渡り、対フランス工作をしようとしたのですね。しかし、横浜に出かけていたグラバーを待つ間にお金を使い果たしてしまい、結局、オテントー丸を買って帰った、というわけです。
薩長連合提携直後で、長州人はだれも知らなかったでしょうけれども、すでに欧州では、五代友厚がモンブラン伯に近づいています。
薩摩のフランス工作は、始まっていたんですね。つくづく用意周到といいますか、ぬかりのないことです。

ところで、以下のページでご教授をお願いしていたことに、個人サイトの掲示板の方で、答えてくださる方がおられました。
掲示板は流れますので、以下にメモっておきます。

モンブラン伯爵は大山師か
19世紀の舞踏会とお城
アラゴルンは明治大帝か

◆チボリ街はどこらあたりなのか◆

チヴォリ庭園は現在のパリのサン・ラザール駅のあたり(パリの中心北寄り)になります。

下記サイトによると、元チヴォリ庭園(入り口は現在のサン・ラザール通りにあった)を横切る形で現在チヴォリ通りがあり、その一部がpassage tivoliと呼ばれていたようです。
多分tivoli通りの端にあたると思います。それが現在はpassage de Budapestと呼ばれているのではないかと。。
http://www.paris-pittoresque.com/cafes/32b.htm

http://www.faget-benard.com/petit%20bout%20du%20monde/textes/chap2/tivoli.htm
上掲載の地図、赤字でemplacement de la future..が現在のサン・ラザール駅の位置です。

詳細地図が出てきたので場所が判明しました。
アムステルダム、サン・ラザール、クリシー、アテネ各通りに囲まれた地区、つまり現在サン・ラザール駅とサン・トリニテ教会に挟まれるかたちになる台形の一帯がチヴォリ庭園だったようです。
・・Cet ensemble comprendrait, aujourd'hui, un rectangle d四imit par la rue d'Amsterdam, Saint-Lazare, Clichy et d'Ath熟es・・ (11/20のサイト2パラグラフ参照)
今はSNCF(国鉄)の施設が建っています。
そしてその台形の端を突っ切る形でブダペスト通りあります。passage Tivoliの写真、キャプションを勘案するとほぼここにあたると思います。(Rue de Budapest)
ただここは所謂貴族街ではないので、ここに家があったとすればモンブラン伯は生粋の貴族でなく新興ブルジョワっぽい気がしますなー

◆モンブラン伯家について◆
郎女の質問
「モンブラン伯家については、これも鹿島茂氏が小説で、南仏の貴族だった、としているんです。小説なのがちょっと不安なんですが、おそらく田舎貴族で、王政期にパリに邸宅をかまえたような金持ちではなかったのではないか、それが革命でベルギーに亡命したんじゃないか、という風に考えていたのですが、いかがなものでしょう?
第1帝政期の新興貴族、という線も考えたのですが、それだったらもっと羽振りがよさそうな気がしまして。ナポレオン三世の宮廷に、入り込めてない感じなんです。
チボリ街って、どうなんでしょう? 駅の側なら、弟2帝政期における場末、ってことはないですよね?」

モンブラン伯について。
まず、ググってる最中にヨーロッパの家名事典の宣伝ページにあたりまして、Descantons家について"Monarchie de Juillet, en 1841(1841年 7月王政)"と書かれていました。家名事典ということで、"7月王政、1841年叙位"を意味すると思うのですが(宣伝ページなのでこれしか情報がない)。。
もともとチヴォリ庭園が銀行家のBoutinの企画であったこともあり、個人的に7月王政で財力に物を言わせて叙位されたブルジョワを想像してましたが、羽振りが良くないのか。。うーむ。
ただインゲル城の相続がPlotho(だっけ?)家絡みの話なので、ドイツ貴族と姻戚関係があるとすると結構古い家系orその分家なのかもしれません。
チヴォリ庭園はカジノや劇場も入ったアミューズメントパークの走りで1825年閉園、翌年Boutinの子孫によってHagermannとMignonへ売却されています(by11/20のサイト、売却対象は庭園を含む更に広い地域)。ということはパリは貸家?
少し後近くで鉄道の建設は始まるし、更に後でデパートは出来るで商業地域といった感じでしょうか、いずれにせよ高級住宅街ではないです。

◆モンブラン伯の家族など◆
郎女の質問 
「19世紀の半ば、Charles Alb駻ic Descantons - モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵が、インゲルムンステル城を相続した。Plotho家のドイツの分家が抗議したが、しかし、城の所有者であったPlotho家9世代目、Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinandには、男系の相続人がなかったので、彼らはフランス人に城を任せることにした。
最初に出てくる人名、「Charles Alb駻ic Descantons」、シャルルの後のAlb駻icが文字化けしています。読めないんですけど、人名なのは確かでしょう。わからないのはDescantonsなんですが、Descantonsでぐぐってみると、「Descantons de Montblanc」という名が上位をしめるので、これはモンブラン家に固有の名ででもあるんでしょうか」

まずDescantonsは家名です。(~伯/公は通常土地の名前 ex.バイエルン公ヴィッテルスバッハ家)
子孫はいますが本人のかわかりません。1896年生まれのAlb屍ic Jules氏が子供か甥・・?
http://www.ping.be/~jos81/link/philippides/phzyj.htm
因みに父上?はCharles Alberic Clementという名らしいです(第2パラグラフ参照)。  http://www.nieuwsbank.nl/inp/2002/02/14/y146.htm?fmt=INPPRINT
ここはインゲルムンステルの歴史遺産保護の呼びかけページで、(Yahooの仏訳機能だと所々文法が変+オランダ語混合で確信はないのですが)そのお城の場所は今のブリュージュ近郊、1859年に彼がチャペルの周りにお墓を建設、1885年に拡大されたことが書かれてます。

郎女の質問
「Descantonsは家名でしたか。なんとカタカナ表記すればいいものなんでしょう。
Charles Alberic Clementは、シャルル・アルベリック・クレマンでいいんですよね?
鹿島茂氏の小説では、日本にいたモンブラン伯が1861年に父親の遺産相続のためベルギーへ帰国、としていましたので、1859年に自分の墓所を作って死去したとすれば、話はあうように思います」

Descantonsはcantonの複数形から派生してるっぽいのでデカントンでしょうか。シャルルの方はその通りです。
あと、ぐぐり途中でインゲル城の火事の際、肖像画等も全て焼けてしまった、という記述を読みました。残念ですね。

荷葉さま、ありがとうございました。また、どうぞよろしくお願い申し上げます。


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コメント (6)
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