杉浦 ひとみの瞳

弁護士杉浦ひとみの視点から、出会った人やできごとについて、感じたままに。

・「私は誰か」と突然感じた体験

2007-10-14 21:13:07 | Weblog
それは、幼稚園にはいるかはいらないかくらい、5才くらいの頃だったと思うのですが、夕暮れどきに、部屋の中で、座卓が立てかけてあるそばで一人で遊んでいたとき、
突然「私は誰なんだろう」
と頭に浮かんできたことを覚えています。
私は、私のことはわかるのに、人の気持ちはそれをみることができない。私は誰だろう。私は誰かつながっているような気がするのだけど、それが神様みたいなものなのか、何なのか分からない。それは、私は、私であって他人ではないのだ、というとても衝撃的で忘れられない、でもどう説明していいのか分からないような不思議な体験でした。
 でも、そのことはその後ずっと覚えていたのではなく、ある時そんなことがあったことを思い出したのでした。

  ところが、同じような体験している人はいるのだということが分かりました。
「エミリーの秘密」(「思春期 その行動と発達のすべて」B・D・マッキャンドルズ/R・H・クープ著 )という題名で、まったく同じ体験が書かれていたのでした。
【子どもたちは静かに成長し始めていた。
そんなある日一つのできごとが起きた。エミリーにとって少なからず重要な出来事が。
 突然彼女は自分が誰かということに気付いた。なぜ5年早くそのことが起きなかったのか、なぜ5年あとではないのかということに理由らしい理由はなくそしてなぜその日の午後に限って起きたのか知る者もいなかった。ドアノッカーのつもりでツノコマを彼女がかけていた巻きあげ機のうしろ、舳先の右の奥まった所で彼女はままごと遊びをしていた。そしてままごとにも飽きて蜂と妖精の女王のことをぼんやりと考えながら所在なさげに船尾に向かって歩いていた。彼女の心に自分は「自分」だということがひらめいたのはその時だった。】

こんなことがあって、
女子大で非常勤講師をしたときに、この体験について話して見て、同じような体験があるかを質問したところ、クラスの2割近くの学生が同じ体験を、同じ頃にしていました。

読んでくださっている方の中でも、このような体験をされた方がおありでしょうか?

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4 コメント

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あります! (クレヨン伯爵)
2007-10-15 14:01:50
杉浦さん、こんにちは。
私は参院選前の最後の土曜日?だったかに吉祥寺駅前で声をかけさせていただいたところの者です。

選挙は残念でしたが立候補されなければ杉浦さんのお話を聞く機会もなかった訳なのでまあその点は良かったかな、などと、一度メールさせて頂きたいと思いつつそのままになってしまつていたのですが、本日のお題が鋭かったのでお邪魔させて頂きました。

私も子供のころからずっとそれを考えつづけておるのですね。四十になっていまだに(笑)。
他にもそういう方がいらした、というのは発見で面白い(笑)。

「自分」が存在しているのが、
何故、21世紀の今であって、江戸時代や平安時代や氷河時代ではないのか?
何故、アジアの東端のニッポンのトーキョーのここなのか?
そもそも何故広い宇宙の中でけしつぶほどの太陽系のそのまた地球を選んだのか?

…等々考え始めると、非常に広大な…永遠の時間と空間の中で、ぽつねんと点のように存在していることの得がたさ、ありがたさ、一方でハカナさ、心細さを思わざるを得ず、おのれの卑小を感じて謙虚にならざるを得ないのであります。

(これは多分、「私は誰なんだろう」の方には皆まで言わず判っていただけるのでは。)

以下は脱線ですが、その得がたさ、ありがたさ、ハカナさを思うとき、「国家」がどーした、ですとか、「教育」と称して他人の子供らにつまらん優劣をつけおまえらはダメだダメだと烙印を押したがるシステムですとか…、

くだらん(笑)。

という思いが、これまでの私の人生を支配してこんにちに至るのでした。

憶測ですけれども、山歩きなどされ自然の中で物思われることと「私は誰なんだろう」を感じることの間にも(ニワトリと卵ですが)通ずる部分があるかも知れませぬ。

また、小説ですが、中島敦さんの作品でやや似た自問をしている場面が多いと思っておりましたので、昭和の初めにも同様の感じ方をする方はやはりあったろうと思います。

長文失礼致しました。
また機会がございましたらお話しさせていただきとうございます。
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Unknown (志村建世)
2007-10-15 14:44:29
私の場合はちょっと違って、特定の時ではなく、小学2年生から自分の命ということを考え始めました。死ねば全部終るという、やや厭世的な気分だったと思います。だから12月に戦争が始まっても、死ぬのは怖くないと思っていました。
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同じかどうかわからないですが (ももりんご)
2007-10-15 15:52:07
杉浦さんこんにちは。
杉浦さんと同じ体験かどうかはわからないのですが、私は「私は一体なんでここにこうしているんだろう?私が今こうして生きていることは現実なのだろうか?」と考えたことがあります。ただ、そのときは精神的に不安定なときだったので杉浦さんの体験とは違うかもしれません。
この「私は誰かと突然感じた体験」を読んで改めて自分自身の存在について考えさせられました。答えは私にはまだまだ出そうにありません。
最近の杉浦さんのブログは政治的内容が多いな・・と思っていたので久しぶりにこういう内容のブログで嬉しかったです。
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体験談ありがとうございます (杉浦ひとみ)
2007-10-15 22:54:59
ももりんごさん、お久しぶりです。同じ体験があったのですね。おもしろいのは、みんな、とても不思議な体験として記憶していることです。
政治ネタ以外も、もっと書いていきますね。

クレオン伯爵さん、最後の吉祥寺でお声をおかけいただいたのですね。あのときも、私自身は今にして思えばかなり特殊な精神状態だったかも知れません。
人間不思議なものです。
そして、おっしゃるように、自然と向き合うときにも、とても不思議な身体感覚を感じます。
深い山の中であったり、夜の海であったり、そんなものと対峙すると、それこそ私は何なんだろうと思います。この悠久の時間を相手にしてきた自然にとって、私など芥子粒ほども砂浜の砂粒ほどもない、とてもおかしな感覚に襲われるものです。

志村さんの感覚は、想像できないものです。きっと戦争という人の死と隣り合わせの異常な日常野中で培われたものなのでしょうね。
でもその中で、すごいと思うのは、今東京大空襲の裁判の代理人をしていて、大勢の当時を生きた方、士と同居した方たちとお目に掛かるのですが、志村さんのように詩を捉えていた方があまりないように感じるのです。
あまりの凄絶さに、命と向き合うことを回避して(体が回避させて?)しまっているような印象を受けるのです。
志村さんがそれを見つめることができていたのはなぜだろうと思うのです。
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