ハンセン病活動の神美知宏(こう・みちひろ)さん(80才)が亡くなられました。
神さんは、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長。
9日午後6時15分、群馬県の病院で亡くなられたということです。
ハンセン病患者がどのような扱いを受けていたかは、様々な文献でも分かりますが
想像を絶するような人権蹂躙の中におかれてきました。
松本清張の「砂の器」もこの病気をテーマにしています。
また、映画ベン・ハーでベン・ハーの母と妹が罹患したのも「業病」と訳されたこの病気でした。
ハンセン病に罹患した患者を伝染のおそれがあるとして隔離することを認めたらい予防法が、
日本国憲法に違反するとして、
1998年(平成10年)7月31日、熊本地方裁判所に提訴され、
2001年(平成13年)5月11日に原告全面勝訴の判決が下されました。
判決は、らい予防法は日本国憲法に明らかに違反する、
遅くとも1960年(昭和35年)以降は厚生大臣(当時、現厚生労働大臣)の患者隔離政策が、
また、1965年(昭和40年)以降は国会議員の立法不作為が、
不法行為にあたるとされました。
当時の小泉純一郎内閣総理大臣が控訴を断念し、判決が確定したことは記憶に残るできごとでした。
ところで、神さんについて、私が強く印象に残っていることがあります。
それは、熊本判決が出て間もない頃に、東京弁護士会で行ったハンセン病についてのシンポジウムでのことでした。
ハンセン病の悲劇を繰り返さないために、人権侵害を行いあるいは荷担して来た者が
その事実を振り返り反省し,今後に生かしたいという意図で、
医師,マスコミ、宗教家,学者がパネラーとして並び、これに当事者として神さんにも参加していただきました。
2人の弁護士でコーディネーターをつとめたのですが
そのとき、私はそれぞれの責任を考える中で、
当事者の方には当事者の責任という視点で語ってもらえないだろうかと、ふと考えました。
でも、それまで当事者の方が置かれた立場はあまりにも過酷で、
権利侵害を訴えることなど思い及ぶような状況ではない上に
それを訴えることは,すなわち,激しい差別におかれるまさにその患者であることを自ら明らかにすることですから
考えるべくもない,と思ったのでした。
ところが、最初のパネラーとして神さんをご紹介したあと、神さんが語られたのは
なんと、
「まさにその事実をもっともよく知っていながら,それを訴えてこなかった当事者としての責任がある」
と言われたのでした。
神さんは、ご自分の悲劇を自分自身の問題から引き離して客観化し、
そのような人権侵害を受けた真実を最も語れる証人として,責任ある者として捉えておられたことに
驚くとともに、その崇高な視点・姿勢に打ちのめされるような思いでした。
本当に素晴らしいお人柄でした。
心残りは、そのときの登壇者にお出しした飲み物が、どういうわけか缶コーヒーで
そのプルトップを開けて差し上げる気遣いができず,お隣の方に手伝っていただかれていたことでした。
「しまった」という思いとともに、お話や立ち居振る舞いからは何の病気も感じることはできなかったのですが
手先に現れる症状を、そのときに感じたのでした。
当時、重く暗い歴史を刻んだ収容施設を開放し、
「健常」の市民がそこに軒を借りるような施設にできたら
差別は少なくなるのではと思っていましたが
昨今そのような利用方法も考えられてきたことに、差別が減ったような、
その分、差別と人権侵害の歴史が風化してきているような、相反する思いです。
神さんのことについては、大阪府人権協会のリレーエッセイに掲載されているのを見つけました。
その冒頭部分です
http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol27.html
「療養所で死んでもらう」という宣告
17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、
自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。
高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。
まず名前を変えることを勧められました。
ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、
解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。
「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。
その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、
「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました・・・
この世に大変な責任を負って生まれ、その責任を全うして亡くなられた神さんのご冥福をお祈りします。
神さんは、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長。
9日午後6時15分、群馬県の病院で亡くなられたということです。
ハンセン病患者がどのような扱いを受けていたかは、様々な文献でも分かりますが
想像を絶するような人権蹂躙の中におかれてきました。
松本清張の「砂の器」もこの病気をテーマにしています。
また、映画ベン・ハーでベン・ハーの母と妹が罹患したのも「業病」と訳されたこの病気でした。
ハンセン病に罹患した患者を伝染のおそれがあるとして隔離することを認めたらい予防法が、
日本国憲法に違反するとして、
1998年(平成10年)7月31日、熊本地方裁判所に提訴され、
2001年(平成13年)5月11日に原告全面勝訴の判決が下されました。
判決は、らい予防法は日本国憲法に明らかに違反する、
遅くとも1960年(昭和35年)以降は厚生大臣(当時、現厚生労働大臣)の患者隔離政策が、
また、1965年(昭和40年)以降は国会議員の立法不作為が、
不法行為にあたるとされました。
当時の小泉純一郎内閣総理大臣が控訴を断念し、判決が確定したことは記憶に残るできごとでした。
ところで、神さんについて、私が強く印象に残っていることがあります。
それは、熊本判決が出て間もない頃に、東京弁護士会で行ったハンセン病についてのシンポジウムでのことでした。
ハンセン病の悲劇を繰り返さないために、人権侵害を行いあるいは荷担して来た者が
その事実を振り返り反省し,今後に生かしたいという意図で、
医師,マスコミ、宗教家,学者がパネラーとして並び、これに当事者として神さんにも参加していただきました。
2人の弁護士でコーディネーターをつとめたのですが
そのとき、私はそれぞれの責任を考える中で、
当事者の方には当事者の責任という視点で語ってもらえないだろうかと、ふと考えました。
でも、それまで当事者の方が置かれた立場はあまりにも過酷で、
権利侵害を訴えることなど思い及ぶような状況ではない上に
それを訴えることは,すなわち,激しい差別におかれるまさにその患者であることを自ら明らかにすることですから
考えるべくもない,と思ったのでした。
ところが、最初のパネラーとして神さんをご紹介したあと、神さんが語られたのは
なんと、
「まさにその事実をもっともよく知っていながら,それを訴えてこなかった当事者としての責任がある」
と言われたのでした。
神さんは、ご自分の悲劇を自分自身の問題から引き離して客観化し、
そのような人権侵害を受けた真実を最も語れる証人として,責任ある者として捉えておられたことに
驚くとともに、その崇高な視点・姿勢に打ちのめされるような思いでした。
本当に素晴らしいお人柄でした。
心残りは、そのときの登壇者にお出しした飲み物が、どういうわけか缶コーヒーで
そのプルトップを開けて差し上げる気遣いができず,お隣の方に手伝っていただかれていたことでした。
「しまった」という思いとともに、お話や立ち居振る舞いからは何の病気も感じることはできなかったのですが
手先に現れる症状を、そのときに感じたのでした。
当時、重く暗い歴史を刻んだ収容施設を開放し、
「健常」の市民がそこに軒を借りるような施設にできたら
差別は少なくなるのではと思っていましたが
昨今そのような利用方法も考えられてきたことに、差別が減ったような、
その分、差別と人権侵害の歴史が風化してきているような、相反する思いです。
神さんのことについては、大阪府人権協会のリレーエッセイに掲載されているのを見つけました。
その冒頭部分です
http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol27.html
「療養所で死んでもらう」という宣告
17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、
自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。
高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。
まず名前を変えることを勧められました。
ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、
解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。
「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。
その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、
「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました・・・
この世に大変な責任を負って生まれ、その責任を全うして亡くなられた神さんのご冥福をお祈りします。
神さんに続いての谺さんの悲報もショックですね。
ハンセン病は、治療薬が見つかり伝染性が極めて低い病気であるという解決ができているのに、不当な人権侵害を続けた点が大きく責められています。
放射線被爆がこれと同じ問題と言えるかは、慎重に考えるべきではないでしょうか。
ハンセン療養所の地域解放 ~ 通常国会に法案提出へ
>「当事者の責任」と語られた元ハンセン病患者の方
ハンセン病の悲劇は、現代でも無知と偏見で差別を受けるということがあるんだと教えてくれました。そして科学的な調査と正しい知識・誠実な報道は、そのような偏見・差別を解消することができることも。
それなのにまた、放射線被曝という新しい「ハンセン病」が新たな差別を生み出そうとしています。
鼻血が出るのは被曝したためだの、福島に住んではいけないだの、瓦礫処理をした大阪でも疾患が出ているだの。
思い込みと伝聞で「善意」を広めていく人々の姿は、数十年前にハンセン病患者を強制隔離し、断種手術を進めていった関係者の姿を思い起こさせます。
谺雄二さんも十一日に亡くなられました。
神さんや谺さんは今の放射能ヒステリーをどう思ってらっしゃったでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。