風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

白虎隊総長・山川健次郎(前編)

2013-03-28 22:00:04 | 会津藩



戊辰戦争後、会津藩士達は東京へと護送されますが、その途上、猪苗代の謹慎所にてしばらく留め置かれることとなります。
その猪苗代にて謹慎する秋月悌次郎のもとに、河井善順と名乗る僧侶が訪ねてきました。
この河井善順、もと長州藩士で、かの禁門の変の際、敗走する長州軍が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩は西本願寺を焼き討ちにしようとします。その時に、西本願寺がわの使者として会津藩との交渉にあたったのが、この善順でした。交渉の結果、会津藩は西本願寺焼き討ちを取りやめにしました。

その善順が、秋月悌次郎に会いに来たのです。彼は一通の手紙を携えていました。
それは、長州藩士・奥平謙輔から秋月悌次郎に宛てた手紙でした。
秋月は若い頃、学問修行と称して西国諸藩を遍歴したことがあり、薩摩や長州にも知己の間柄の人物が大勢いました。奥平謙輔もその一人で、その手紙の内容は、「さすがは会津藩、見事な戦いぶりでした」という内容だったようです。
秋月は会津藩への寛大な処置と、容保公の助命嘆願を図るため、猪苗代の謹慎所を脱出、善順とともに奥平のいる越後へ向かいます。
奥平と再会した秋月は先の事案を奥平に申し入れ、奥平からの紹介で前原一誠に会い、前原からさらに広沢真臣、大村益次郎などとも面会して了解を求め、結果会津藩への処置は大分緩やかなものとなったようです。
この時秋月は、奥平に二名の少年を預かってくれるように頼みます。会津の未来を、この有能なる子弟に託したいが、そのためにはまず勉学の機会を与えなければならない。しかし今の会津にはそれができない。そこで奥平にこの少年たちを託そうと思ったのです。
「成る程承知した。いつでもお引取申す」奥平は即断します。

秋月は再び猪苗代へ取って返し、二人の少年、山川健次郎と小川亮(若くして病死)を善順に託して、奥平のいる越後へと向かわせました。

越後から猪苗代へと戻る途次、秋月は一編の漢詩を賦しています。



行くに輿なく帰るに家なし
匡破れて孤城雀鴉乱る
治、功を奏せず戦ひに略なし
微臣罪あり又何を嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が君の貫日至誠より発す
恩賜の赦書は応に遠きに非ざるなし
幾度か手を額にして京城を望む
之を思ひ之を思へば夕、晨に達す
愁ひは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん



後に「北越潜行の詩」と呼ばれる、秋月悌次郎の絶唱です



山川健次郎は父を早くに亡くし、兄の大蔵(維新後、浩と改名、以後浩で通します)が家督を継ぎます。男は浩と健次郎のみで、母、姉妹と女性たちに囲まれて育ちました。
姉妹は皆勝気で、特にに長女の二葉には、「健次郎、男のくせになんですか、しっかりしなさい」と、いつも叱られていたとか。健次郎は幼い頃は病弱で身体も小さく、姉妹からは「青びょうたん」などと呼ばれてからかわれていたようです。
そんな健次郎ですが、藩校日新館の成績は優秀で、会津武士の誇りをしっかりと胸に刻んで成長します。白虎隊にも一時入隊しますが、15歳という年齢とまだ未発達の肉体から除隊させられてしまう。鶴ヶ城籠城戦の際には、母、姉妹共々入城し、健次郎は幼年隊に所属して、主に武器弾薬の供給にあたりました。
兄・浩が軍事総督に就任すると、健次郎も鉄砲を持って城外に出て敵と交戦します。命からがら城へ戻ると、浩に「何故生きて戻ってきた、死んでこい!」と叱責され、これを見かねた母親に「生きてがんばるのです」と慰められた、なんてエピソードもあるようですね。

奮戦むなしく会津藩は降伏します。降伏交渉に奔走した秋月悌次郎は、以前より健次郎の才を見抜き、目に掛けていたようです。会津の将来を託すに足る男であると見込んだのでしょうね。

健次郎と小川亮二名の少年を預かった奥平謙輔は、二人を書生とし、越後の旧家遠藤家に住まわせます。遠藤家の蔵には古今の書物が多量に所蔵されており、それを好きなだけ読ませて勉強させようということでした。健次郎は猛勉強に励みます。
その後、謙輔が同郷の前原一誠に健次郎を紹介したのがきっかけとなり、健次郎は前原一誠の書生に雇われ、東京に移ります。その頃の健次郎は鶴ヶ城での一か月に及ぶ籠城中、ロクなものを食べておらず、栄養不足からひどい鳥目に罹っていました。そのため前原家で名前を呼ばれて、慌てて階段を降りようとしたところ、階段がみえずに二階から転げ落ちたこともありました。

やがて、健次郎にさらなる転機が訪れます。
北海道開拓支庁の長官、薩摩藩士・黒田清隆は、北海道開拓に際し、アメリカ式の大農方式を本格的に取り入れようと考えます。当時の留学生は薩摩や長州にほとんど独占されており、他は閉め出されていました。しかし黒田は、北国の開拓にはむしろ寒さに慣れており、負けじ魂の強い賊徒から選んだ方が懸命であると考えました。当時としては、非常に大胆な政策であったと思われ、細かいことに拘らない黒田の開明性が窺われます。
こうして、庄内藩と会津藩から各一名づつ選ばれることとなり、健次郎が留学生としてアメリカに派遣されることになったのです。

長州人に預けられ、今度は薩摩人に引き立てられた。真に数奇な運命、という他ありません。
(続く)



参考文献
『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津維新銘々伝 歴史の敗者が立ち上がる時』
星亮一
河出書房新社








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8 コメント

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何も知りませんが、イメージは大きく心に湧きます。 (よしの@)
2013-03-29 02:32:06
私は学無しで、理解は難しいですが、人生観を感じます。本当の原点の生きるとは、人とは?
私はそれだけしか、考えて来なかったので、自分の事のように、そこに、いるかのように、心境、思い、痛み、願い、絆いろいろをイメージします。生きるを真剣に必死になれば成るほどに、自分が無いのですね。無我夢中の出来事の人類の流れを観ます。生かされるとは、その、有り難さと、全ての犠牲を見る、知る事と思いましたです。不安すら考えられなかったんじゃないかな~?現実に戻れば、必死の人は、必死の人を知れます。野生の感?りきみのない、深い悲しみか、ほほえみがありますょね!人が人みたら、自分の瞳に何が写る?それは、私が写るですょ。コニカなんちゃて。言葉の要らない世界が大好きです。ビリビリと伝わってくる。
真剣勝負です。薫風亭さん、ビリビリと伝わってきます。ありがとう御座います。お疲れ様です。私が大好きな絵、お話しです。そこがいい、Pスポットライトです。m(__)m。
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Unknown (ツクル)
2013-03-29 11:10:57
日本人の良心的な部分が現れていて、心に染み入るお話ですね。
それと同時に将来の日本の為に若い世代を育てようとする気持ち、薩長も会津も変わりません。素晴らし過ぎて己の小ささに落ち込みました。
いや私ね、地元の農家で若手なんですが、近所のおじさんに言われたんですよ。
「お前がリーダーになってより若手の農家を引っ張っていけ!俺の息子も農家になるって始めたから」って。
言われた瞬間に頭の中で「いやいや無理だよ!だってウザいと思われちゃうじゃん」ってそんなことを思いながら「私だって勉強中の身ですよ」なんて謙遜してみてね。
ほら小さいでしょ、私。もう恥ずかしいですわ。
でも地域で農業技術指導の人と縁があったり、自分なりの勉強をしているので、私が知っていることで出来ることがあれば、ってぐらいで充分かな?とも。
いやはやでも本当にこの当時の方々の「志」は感服です。
もう私はとっくに腹切りもんです。
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Unknown (カイロミ)
2013-03-29 13:29:11
”北越潜行の詩”グッときました。秋月さんも、また凄い方ですね~私なんか足元にも及びません。自分の小ささが、身に沁みます。健次郎さん、二葉姉さんに、叱られてましたね~微笑ましく大河みてました。今後も楽しみです。
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Unknown (薫風亭)
2013-03-29 22:25:13
よしの@さん、ホントに必死だったと思います。
この時代の人達には、頭が下がる。
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Unknown (薫風亭)
2013-03-29 22:37:59
ツクルさん、ハハハ、わかるなあ、そういうの。
私も、リーダーだとか、他人を指導するとかいうのが、大の苦手で、学校のクラスの班長すら嫌で、させられそうになると逃げ回ってましたもん。ホント嫌でしたねえ。
未だに集団行動は苦手だし、ましてやリーダーなんて…あー、寒気があ~~。
人には向き不向きがあります。無理なものは無理!そうやって悩むだけツクルさんは偉いです。私は最初からひたすら逃げの一手(笑)
腹なんか斬っちゃダメですよ(笑)できることから始めましょ。
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Unknown (薫風亭)
2013-03-29 22:58:54
カイロミさん、「北越潜行の詩」は、旧会津藩士たちにとても愛され、酒の席などでよく吟じられたようです。ただ最後まで吟じられる者は誰もおらず、みんな途中で涙が滂沱と流れ、最後まで吟じられなかったそうです。
会津人の心情を見事に表した詩なのですね。
秋月悌次郎は70歳近くになってから、熊本の旧制第五高等学校(現・熊本大学)で教鞭を執ります。伝統的な四書五経などを教授できる人が誰もおらず、にわかに白羽の矢が立ったのだとか。よっぽど人材不足だったのでしょうね。
同僚にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がおり、悌次郎を「神のような人」と呼んだとか。
どれほどの苦労をしたのでしょうねえ…。
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奥平 (世良 康雄)
2015-04-06 16:25:53
奥平謙輔は、奥平伯爵と同じ一族ですか?子孫はどうしていますか?

mixi RAMBO日記
Gree RAMBO日記
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Unknown (薫風亭奥大道)
2015-04-06 18:31:07
世良さん、初めまして、コメントありがとうございます。奥平伯爵とは、豊前中津藩主だった方ですよね?奥平謙輔とその方とは、特に繋がりがあるようには思われませんが、なにぶんその点については不勉強で、はっきりとは分かりません。子孫の方々の消息も寡聞にして存じ上げません。
お役に立てず、申し訳ありません。
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