〈wikipediaより転載)
明治4年(1871)元旦、汽船ジャパン号は健次郎を乗せ横浜港を出発、同月23日、サンフランシスコに入港します。さらにアメリカ大陸を横断し、ニューヨークの近くのニューブランズウィックに一旦落着き、そこからさらにノールウィッチに移り、その町のハイスクールに入学します。
このハイスクールで基礎を学び、翌明治5年にエール大学付属シェフィールド理学校(現在の理学部)に入学します。
健次郎は17歳まで九九を知らなかったそうです。当時の武士の学問は、四書五経など文系の学問が主流で、数学などの算盤勘定は武士がやるものではないとして、一段下に見られていたんですね。
健次郎は東京にいたころ、旧幕臣の沼間守一という人物に師事し、その沼間のもとで初めて理数系の学問に触れ、分数の計算等で相当頭を悩ませたらしいです。なんだか親近感を感じる…(笑)
そんな健次郎でしたが、大自然の理を知ることが、社会を知り、政治を知り、国を良くしていく基となるとして、自然を知るには自然科学、つまり理数系の学問を身に付けなければならない。そう考え、理数系の学部を選んだわけです。国のためになるには、どのような学問を目指すべきか、という発想から選択しているところに、健次郎の意欲を感じます。
シェフィールド理学校の受験科目は「算術」「代数」「幾何」「三角関数」「英語」「ラテン語」「合衆国の歴史」「地理」等々で、健次郎はラテン語なんてものが存在することすらしらなかったでしょう。合衆国の歴史や地理などわかるわけがない。そこでラテン語の方はなんとか免除してもらって、歴史と地理は問題集を丸暗記。数学と英語はハイスクールの校長に直接指導を受けました。
そうして翌明治5年に理学校を受験、「大体の成績は良かったが、三角法だけ悪かったから、夏休みに勉強するなら入れてやる」との連絡を受け、健次郎は入学します。
それにしても、僅か一年ほどでこれほどの学問を身に着けるとは、どれほどの努力をしたのでしょう。本当に頭が下がりますね。
健次郎は国から学費を援助してもらっていたわけですが、明治7年に至って、突然その学費の援助が停止されてしまいます。
当時アメリカに留学していた官費留学生は約500人。国はこの中から成績優秀者だけを残し、後の者たちは帰国させるという方針に切り替えました。当時の留学生は“コネ”でなったものが多く、成績必ずしも芳しからずな者達が多かった。こんなものに金はかけていられないというわけです。健次郎もこの枠に引っかかってしまい、このままでは帰国する他なくなってしまいました。
そんな時、健次郎はアメリカ人の同級生から、金持ちの伯母を紹介されます。その伯母・ハンドマン夫人は、気の毒だから学費を出してあげてもいい。その代り証文が欲しい。と言います。健次郎は
「私の良心の許す限りなんでも書きます」
と答えました。ハンドマン夫人の求めた証文とは
「あなたが学校を卒業して国に帰ったら、一生懸命国のために尽くすと誓いなさい」
というものでした。
もとより国に尽くすは会津武士道の目指すところ。健次郎に依存あるはずもなく、健次郎は証文を書き、明治8年に無事卒業、バチェラー・オブ・フィロソフィーの学位を得、帰国に至るのです。
このハンドマン夫人というのも、粋な方ですね。
その後の健次郎は東京開成学校(後の東京帝国大学)の教授となり、教育に身を捧げます。明治34年、46歳で東京帝大総長に就任、明治38年に辞任した後、九州帝大総長、大正2年(1913)60歳で再び東京帝大総長に就任。白虎隊に入隊していた経験から「白虎隊総長」と称されました。
健次郎の家には、会津出身者の若者達が、書生として大勢雇われており、健次郎はよく面倒を見てあげました。当時、ある程度成功した会津人は皆、後輩達の面倒をよく見てやったようで、各家に書生がおりました。中でも山川家の書生になることは大変な栄誉だったらしく、「あなたはどちらの家の書生か」と訊ねられると、「山川先生の書生です」と誇らしげに答えたそうです。
会津人は酒好きが多い、書生の一人が家の酒を盗み飲みしていると告げ口されると、
「飲みたい盛りだろうから飲ませておけ」と答えたとか。
その一方では大変厳格な面もあって、特に子供達への教育は厳しかった。健次郎が子供達に常に言い聞かせていたことは、目上の人には従うこと、弱いものをいたわること、そして卑怯なまねをするなということでした。
卑怯なこと、特に反撃する力のないものを攻撃することは、絶対にしてはならない。かつての「什の誓い」会津武士道の継承です。
昭和3年(1928)健次郎75歳の時、松平容保公の孫にあたる勢津子と、秩父宮雍仁親王との婚儀が行われ、会津の人々は、これで朝敵の汚名は晴らされたと喜びました。健次郎はこの時、武蔵高校の校長に就任しており、婚儀の当日には答礼使という大役を果たしています。
武蔵高校の校長室で祝意を述べられた時、健次郎は「ハア」と答えるのみで、あとはただただ机の上に涙を零すばかりだったとか。
奥平謙輔、前原一誠、黒田清隆、ハンドマン夫人と、実に多彩な人々の援助を受けながら歩んだ健次郎の人生は、なんとも数奇なものでした。健次郎の人柄もあるでしょうし、なにより健次郎自身の努力の賜物なのでしょう。それとともに、
御先祖様の助けもあったかな。
目に見えるものたちと、目に見えぬものたちと。多くの援助を受け、教育を通して国に尽くすことで、その恩を返し続けた、そんな人生だったように思います。星亮一氏いわく「聖者のような生涯」でした。
昭和6年(1931)、胃潰瘍を拗らせたのがもとで、同年6月26日、その聖者のごとき生涯を閉じました。
享年78歳。
参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫
『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
PHP文庫
『会津維新銘々伝 歴史の敗者が立ち上がる時』
星亮一著
河出書房新社
(やはり、宇宙は実践的・活動的でありましょうね。さすがは宇・宙。。。宇宙開発と聞いては、ツッコみたかったですが野生の直観?で危険を感じ、踏みとどまりました。)
健次郎の人生を見てると、この世の不思議さ、有難さ、面白さが全部あるような気がしてね。この人、面白いなあって思うんだよねえ。
前しか向いてなかったんだろうね、きっと。
あの”北越潜硬の詩”も、秋月さんの私的な部分な全くないし。あれね・・・お酒飲んでうたえる詩じゃないですよ。学がないので、ネットでちょっと調べたんですが、あんな悲しい詩ないです(泣)だから、大河見ると、それだけでもう泣けてくる感じです。
それと、バルトの楽園、観ました!私、第九歌った事あるんです~日本人の第九好きは、世界的にみて異常なんですよ。あの忙しい年末に、怒涛のように日本列島でプロの方からド素人が歌ったり、楽器を演奏するんです。普通、ド素人が演奏会なんかしませんよね~素直に感動しました。斗南藩の事・・・想像以上でした。あの環境から、松江さんのような方になるなんて、信じられないです。ドイツさんたちは、坂東から旅立っても、自分の周りの人々に笑顔と勇気を与えられたのではないでしょうか。
薫風亭さん、教えて頂いてありがとうございました。まとめてコメント、失礼しました。
斗南のシーンで、警官みたいな連中が監視していましたが、あんなことはありませんでした。おそらく俘虜収容所との対比を描こうとしたのでしょうけど、史実ではありません。ただ、木の根を掘って食べたのは本当です。それくらい、食べるものがなかった。家には障子も襖もなく、布団もなく藁を被って寝たとか。冬場の寒さは言語を絶するものだったでしょう。
豊寿の父親を演じたのは三船史郎さん。かの三船敏郎の長男で、三船美佳さんの母親違いの兄になります。普段は会社員だったかな?極たまにこうやって映画に出ることもあるようです。
三船さんを殴っていたのは、斬られ役一筋ン十年の福本清三さん。福本さんが映るだけで、なんか、嬉しい(笑)
少年のように澄んでいますね。
この時代に教鞭をとった方々は本当に「先生」と心から言いたくなる方ばかり。
国や社会の為に尽くすことが軍国主義に使われてから現代では少なくなったけど、母性の塊としての行為なんでしょうね。
健次郎さんは他人を助けたいと真っ直ぐな思いがあったからこそ、応援する方々ばかりになっていったのですよね。
会津の思いが脈々と歴史に残っている。
私達のご先祖様は皆さん強かった。その因子も自分の心にあるとしたら色々頑張れそうです。
いつも良いお話を有り難う、薫風亭さん!
兄・浩は陸軍に籍を置きながら東京高等師範学校の校長を務めてます。兄弟で編纂した「京都守護職始末」「会津戊辰戦史」は、会津側からみた戊辰戦争を記述した第一級資料です。兄の浩も、土佐の谷干城(たにたてき)に引き立てられて陸軍に入って、陸軍少将まで出世してます。兄弟そろってスゴイですね。
この時の陸軍の実力者、長州人山県有朋が知らない間に少将になっちゃったので、有朋は「山川は会津ではないか!」と激怒し、以後会津者は少将以上には昇進させないと言ったとか。もっともその後、やはり会津人の柴五郎が陸軍大将まで昇進してますから、有朋の発言にどれほどの影響力があったのものか、わかりませんが。