風の向くまま薫るまま

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会津藩士列伝・山本覚馬(中編)

2013-03-05 22:32:33 | 会津藩
容保が会津藩士約一千人を率いて京都入りしたのは、文久2年(1862)12月24日のことです。京都守護職の邸宅はまだ完成しておらず、会津藩は京都に藩邸を所有していなかったので、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えます。
京都において、会津藩の動向を実質的に仕切っていたのは「公用方」です。公用方とは国元はむろんのこと、他藩や朝廷、幕府などを相手に折衝する重職でした。この公用方に抜擢されていたのは、実力はあっても軽輩であるために藩内では大きな役職につけなかった者達があたりました。藩外で多くのことを学んだ若手達をあてることで、薩摩藩や長州藩に対抗しようとしたわけですね。
公用方の決定を容保が覆すことはほとんどなかったため、京都での会津藩を動かしていたのは実質公用方でした。彼らの決定は、国元の家老に諮って許可を得るのが建前でしたが、緊急の事項は事後承諾が許されていました。ですから公用方の発言力は、かなり大きく、それが国元との軋轢を生む元にもなっていったようです。
この公用方に抜擢されたことによって頭角を現してきたのが、秋月悌次郎です。秋月は覚馬より4歳年上で、やはり日新館の秀才で江戸遊学を許され、また学問修行の名目で西国各地を巡り、幕臣や他藩の藩士達に多くの人脈を持っていました。そうした秋月の人脈が、後の「8月18日の政変」の際に、会薩同盟を結ぶ原動力となるのです。
覚馬は砲術方として京都に来ており、公用方ではありません。しかしながら、秋月と似たような経歴を持ち、江戸遊学の経験からやはり他藩や幕臣に人脈がある。そうしたところから、いきおい政治的発言力を持つようになっていきます。元々「国家のために働く」という大望を抱いていた覚馬のこと、政局に関われるのは、覚馬としても望むところだったでしょう。
どうやらこの頃に、西郷吉之助(後の西郷隆盛)とも知遇を得たようです。

京都に勤めてまもなく、覚馬は藩当局に『守四問両戸之策』という上書を提出しています。
京都や大阪に通じる瀬戸内海の防衛について論じたもので、この中で覚馬は、外国人を軽蔑するだけの攘夷主義者を批判し、一方で海外ばかりを贔屓する洋学者をも批判します。どちらにも偏らず、海外から学ぶべきものは学び、その上で国家の防衛を論じる、非常にバランスのとれた内容だったようです。
海軍力の増強と、そのために瀬戸内の各藩から石高に合わせて軍艦の建造費を拠出させる、つまり挙国一致で海防に務めるべきだと提言していたのです。藩という枠を超えて、「日本国」という視点から考えた防衛策でした。
この当時は藩は藩、幕府は幕府という枠で考えるのが主流でしたから、覚馬のこのような発想は、大変先進的でした。このような人物が会津にいたということは、残念ながら幕末史であまり語られたことがありません。
それだけ、薩長中心史観というものが、現在に至るまでの幕末史を支配していた、ということでしょう。
まことに、歴史とは「視点」です。

当時の京都では、天皇の意志とは関係のない偽物の詔勅「偽勅」が乱発されており、時の孝明天皇は大変お心を痛めておられました。その発信元は長州藩及び長州贔屓の公卿達であり、その長州一派を京都から追い出したクーデターが「8月18日の政変」です。夜陰に乗じて会津藩と薩摩藩が御所の門を固め、長州藩には御門守護の解任の詔が発せられます。長州側はこれを聞き入れず、薩摩藩は攻撃を主張、一時は一触即発の状態となりますが容保がこれを諌め、長州一派は京都から落ちていきました。
出来る限り戦争を起こさず、穏便に済ませる。これが会津藩の基本姿勢でした。この政変はそれが見事に成功した例だと言えます。会津藩は基本、平和主義であり非戦派でした。
しかし、戦うことを決した上は、全員玉砕覚悟で戦う。それが会津武士道たるもの。

この政変の後も長州藩士達は秘かに京都に潜入し、巻き返しの機会を狙っていました。とにかく天皇さえ手に入れてしまえば、あとはなんとでもなる。長州及び長州支持の浪士達は、天皇の奪取計画、もっとはっきり言えば拉致計画を立て始めます。こうなってはもはや尊皇などと呼べるものではありません。天皇はテロリズムを正当化するための「玉」にすぎない。会津のような純粋な尊皇派から見れば、長州はまさしく、皇道を犯す逆賊でした。
秋月や覚馬達は、謹慎の解かれた佐久間象山と共に秘策を練ります。それは孝明天皇を京都から彦根に御動座いただく、というものでした。彦根はかの井伊直弼が藩主だった譜代の藩で、徳川側です。彦根に御動座いただけば、長州も簡単に手出しは出来なくなる。向こうが天皇を「玉」の如くに扱うなら、こちらも「玉」の如くに動かす。出来る限り血を流さず、平和裏に事を進める、まことに見事な秘策と言えますが、この計画が何処からか漏れてしまう。佐久間象山は攘夷派の浪士に暗殺され、計画は立ち消えになってしまう。
これと相前後するかのタイミングで、長州藩士達が密議を行っていた池田屋を新撰組が襲撃、多くの長州藩士及び長州支持派の浪士達が捕縛、殺害されました。
これに激怒した長州藩は軍勢を京都に差し向け、会津藩や薩摩藩に戦争を仕掛けます。この「禁門の変」において覚馬は砲兵隊を指揮して応戦、長州軍を撃退します。この戦争で長州藩は、御所に向けて発砲した件で賊軍の指定を受けます。会津藩は朝廷を守り貫きました。
言わばこの時が、会津藩がもっとも輝いていた時、といえるでしょう。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。

薩摩藩が長州藩と秘かに同盟を組み、薩摩藩は討幕への道を選びます。会津藩はこれを察知することが遅れ、事が露見した頃には、もはや関係修復は不可能な状態となっていました。会薩同盟締結に奔走した秋月悌次郎はこの頃、蝦夷地に左遷されていたのです。どうやら軽輩の秋月の活躍を妬んだ者達による策謀だったようです。もしこの時秋月が、公用方の役職に就いていたなら、その後の展開は違ったものになっていたかも知れない。歴史にifはありませんが、つまらない「男の嫉妬」によって、会津藩の運命が転変したとも言えるわけで、なんとも残念ではあります。

この頃から、覚馬の身に異変が生じます。原因は不明ですが、視力が急激に衰えて行く病に蝕まれていたのです。

まるで会津藩の転落と軌を一にするかのように。
(続く)



参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫