風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

会津藩士列伝・山本覚馬(結)

2013-03-12 23:12:42 | 会津藩
覚馬の弟・三郎は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、帰還する船の中で死亡。これと共に、覚馬は薩摩に捕えられ、薩摩によって処刑された、という風聞が会津には届いていました。

慶応4年(明治元年・1868)8月、会津戦争は籠城戦に突入します。覚馬の妹・八重は断髪し、戦死した弟・三郎の軍装を身に着けて鶴ヶ城に入城。愛用のスペンサー銃を手に、獅子奮迅の活躍をします。スペンサー銃は覚馬が八重に送ったもので、当時の会津にはわずか数丁しかない最新式のライフルでした。
このスペンサー銃で敵の将兵を精確に撃ち倒していく八重。父・権八も戦死し、この時の八重の心情いかばかりであったか。
籠城戦は1ヶ月に及びましたが、ついに刀折れ、矢尽き、会津藩は降伏します。会津側の戦死者およそ3千。その遺体は埋葬することを許されず、山野に、街中に放置されたまま朽ちていきました。
この時の新政府軍の指揮官の一人、土佐藩士板垣退助と八重は、後に新島襄の仲介で面会しています。八重は目にいっぱいの涙を溜めながら。
「埋葬を許さなかったのはあなたの差し金か!」
と問いただしました。その時板垣は負傷療養中でしたが、傷の痛みも顧みず
「あれは長州の意見じゃった。申し訳なかった!」
と土下座したとか。土佐は大政奉還を建白した藩でもあり、元々穏健派でしたから、会津戦争には忸怩たる思いがあったのかもしれません。

覚馬が釈放されたのは明治2年(1969)になってからのこと、同明治2年、会津藩は松平容保の嫡子・容大(かたはる)による家名存続が許され、下北半島斗南の地に、新たに領地を与えられます。八重とその家族は会津に残ることを選択しますが、八重の夫・川崎尚之助は斗南へ移り、これを機に二人は離縁します。二人の間になにがあったのか、詳細は判然としません。
覚馬は明治3年に入ると、京都府の勧業御用掛に登用されます。かれを登用するよう尽力したのは、当時の京都権大参事で、鳥取藩士の川田佐久馬でした。二人は幕末以来の知り合いだったようです。
当時の京都は、明治政府による東京遷都によって産業が停滞し人口が激減、このままでは千年の古都が寂れてしまう。これを食い止め、再び京都を盛り返すために、覚馬の学識、見識を生かしたいということでした。この背景には、覚馬が建白した「管見」が新政府の上層部に知られていたから、ということがあるでしょう。こうして覚馬は、お雇いというかたちで京都府に採用され、ここから覚馬の第二の人生が始まるのです。
川田はすぐに京都を離れてしまいますが、後を継いだ長州藩士・槇村正直を信頼を受け、覚馬のは京都の勧業政策に邁進していきます。
覚馬とて誇り高き会津藩士、長州者の下で働くことに複雑な思いを抱かなかったと言ったらウソになるでしょう。しかしこの、盲いて自由の利かぬ己が身をもって働けるところがあるなら、国のため公のため、身命を賭して働こうという思いであったに違いなく、それもまた、会津武士の誇り故でありました。
槇村のバックには長州の実力者、かの木戸孝允がついており、木戸と覚馬は後に面会しています。木戸は会津にとって仇敵と言える人物ですが、その頃の覚馬にはそんなこだわりはもはや無かったようです。木戸も覚馬のことを好ましく思ったようで、覚馬という人物の大きさが窺えますね。

覚馬は槇村の下で京都の勧業に尽力します。例えば西陣織の職工をフランスに派遣して最新技術を学ばせ、見事西陣織を復活させるなど、様々な業績を残しています。京都の復活に務めたのが、薩摩人でも長州人でもなく、会津人だったということを知っている人が、一体どれだけいるのでしょうか。

さて、そんな覚馬の消息が会津の八重たちにも伝わり、八重等家族は京都に移ることになりましたが、覚馬の妻・うらは会津に残ることを決意します。実はこの頃、覚馬の傍には、身の回りの世話をする時恵という女性がおり、すでに二人は男女の関係となっていたようです。そのことが影響したのかどうか、詳細が伝わっていないのでわかりませんが、これを機に覚馬とうらは離縁、うらは娘のみねを八重に託し、一人、会津に残ります。その後、覚馬と時恵は結婚します。

明治4年以降、覚馬は毎年のように京都で博覧会を開催し、多くの外国人と接触します。その中にはキリスト教の宣教師も含まれており、彼らを通してキリスト教に触れた覚馬は、その平和主義的な精神にいたく感銘を覚えたようです。そんな折、一人の青年が覚馬のもとを訪ねます。
青年の名は新島襄。元上野国安中藩の藩士で、維新が成る前にアメリカ商船に密航しアメリカの大学で学び、宣教師となって日本に学校を設立すべく帰国した人物でした。
二人は意気投合し学校設立に尽力しますが、これが槇村に気に入られず、ついに覚馬は槇村の下を離れ、襄と共に学校の設立に奔走、明治8年(1875)同志社英学校(後の同志社大学)開校の運びとなるのです。八重はキリスト教の洗礼を受け、襄と結婚します。
新島八重の誕生です。

明治10年(1877)西南戦争勃発。多くの旧会津藩士達が薩軍討伐に参戦します。覚馬はこの戦争によって、「ようやく維新が成る」と冷静な判断を下しますが、一方で西郷隆盛の才を惜しみ、出来れば救い出してやりたいと漏らしたとか。


その後、選挙制度が施行されると、覚馬は京都府議会選に立候補し当選、府議会議長を務めたあと一年で退職すると、その後は京都府商工会議所の会頭を勤めます。思えば藩主・容保に従って京都に上洛して以来、覚馬は一度も会津に帰ることはありませんでした。まさに京都のために、その後半生を捧げ尽くしたと言っていい。

同志社には、多くの会津藩出身者達が、その雷名を頼って入学して来ました。覚馬は彼らの面倒も良く見てやり、自宅に住まわせもしました。時には十名ほども覚馬の家に寄宿していました。
覚馬の家に会津の青年が訪ねてくると、その青年たちに明治維新を語り、時世を論じ、処世術を解き、自宅でも講義を開くほど後進の指導に熱心にあたりました。明日の日本を担う若者を育てる。覚馬の胸の中には、会津藩を救うことが出来なかったという自責の念が、常に渦巻いていたようです。せめてこの若者達には、同じ目に会わせたくはない。同じ思いを、味あわせたくはない。
そんな思いだったかもしれません。

明治25年(1892)12月28日。山本覚馬は母・佐久、妹・八重、娘・久栄(時恵との子)に看取られながら、その波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。享年満64歳。京都の近代化に尽力した功績を称え、明治政府より従五位が贈位されました。

敗者、会津藩士であったが故に、その活躍が表だって知られることはほとんどありませんでしたが、その人生には、間違いなくもう一つの維新の真実があった。

山本覚馬の名を、どうか憶えておいてください。

                      

                      〈晩年の山本覚馬
                       wikiより転載〉




参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫








311に寄せて

2013-03-12 05:15:53 | つぶやき
                       

今日(3月11日)、氏神様を参拝してきました。
この氏神様の御神木は、二股に分かれた杉の木なんです。さらにはその二股杉の前に、まるで二股杉を守るかのように二本の杉の木が屹立している。まことに見事な並びです。

ところが今日、その二股杉の片側が折れていました。おそらくは前日(3月10日)の強風によるものでしょう。

実はこの杉に以前、雷が落ちたことがあったんです。にもかかわらず、折れることなく立っていた。なんと強い杉かと思われていたのですが、おそらくはこの雷によって相当弱っていたものと思われ、それが強風を受けてついに倒れたものでしょう。

311の前日の強風。あれはある種の“祓い”の風だったのかもしれない。この風に乗って、御神木の魂は去って行ったのだろうか。その意味は、善きにつけ悪しきにつけ、新しきことの始まりを告げるもの?

いずれにせよ、

感謝を捧ぐのみ。

来たりて去りゆくすべての魂に、

感謝を。