慶応3年(1867)10月14日、徳川家15代将軍慶喜は、大政奉還を上表します。
政権を返上したところで、将軍職まで辞したわけではありません。全国の4分の1を占める領地を持ち、外交権もいまだ徳川家が握っている。全国の大名への影響力はいまだに大きいものがありました。
慶喜は討幕派の論拠である「幕府」を失くすことで、徳川攻撃の口実を失くし、再び政治の実権を徳川家が握るべく、画策したのです。
そうはさせじと、明治天皇の外祖父、中山忠能卿や参与岩倉具視、薩摩の大久保利通らが中心となって「小御所会議」が開かれます。
この会議に慶喜や松平容保、容保の弟で桑名藩主の松平定敬は呼ばれず、欠席裁判のかたちで議事は進行します。大政奉還は認められ、将軍の廃止と、摂政関白の廃止。天皇の下で、公家や諸藩による新たな政権の樹立を宣言する、いわゆる「王政復古の大号令」が出されます。
徳川家には辞官納地(官職、領地をすべて返納)が命じられ、徳川家は実質的な力を削がれてしまいます。こうして慶喜の狙いは水泡に帰してしまいました。
この前日には「討幕の密勅」が出されており、ただしこれは偽勅、つまり天皇の御意志で出されたものではない偽の勅ですが、この勅には徳川慶喜と会津藩主松平容保を朝敵として誅せよと書かれており、これを根拠として薩長中心の新政府側は、武力による旧幕勢力の一掃に力を傾けるのです。
翌慶応4年(1868)正月3日。京都郊外の鳥羽伏見にて、会津桑名両藩を先鋒とする旧幕軍と新政府軍とが激突、3日間の戦いの後、新政府軍が圧倒的な勝利を収めます。
楢山以下南部藩がこのことを知ったのは正月18日のことでした。事態が呑み込めず、藩内に動揺が走ります。
そんな矢先、今度は仙台藩に会津討伐の命が下り、続いて米沢、南部、秋田各藩にも、伊達と協力して会津を討つべしとの命令が下されたのです。
「とにかく情勢を知らねばなるまいが、朝廷から命が下された以上、従う他はあるまい」
複雑な思いを抱えながら佐渡は、出兵の準備をしておくように命じると、自らは京都警備の軍を率いて上洛します。自分の目で、情勢を見極めたかったのでしょう。
京都に入った佐渡は、そこで見た光景に愕然とします。
薩長の軽輩どもがこぞって祇園、島原の花街をわが物顔に徘徊し、傍若無人に振る舞っている。国事を談ずるに、妓楼をもって集会するなど、几帳面で生真面目な佐渡には、およそ考えられないことでした。
「これが畏れ多くも天皇の軍隊を名乗る者達のすることか…?」
佐渡の心に、大きな不信の念が生まれます。
佐渡はある日、西郷隆盛に面会しようと、薩摩藩邸を訪ねます。
その時西郷は部屋の中で、下級武士達と牛肉の鍋を囲み、談論風発していました。そして佐渡を見かけると、一緒にこちらで食わないか?と誘いをかけたとか。
正式な記録が残っているわけではないので、この牛鍋への誘いの話は噂話の域を出ません。しかしこの会見の後、佐渡は憤然とした面持ちで帰り、
「武士の作法も地に墜ちた。あのような軽輩に、天下の政治を行えるものだろうか?」
と、大いに不満と不審を口にしたことは確かなようです。
佐渡の家は代々家老職を務める上級武士の家柄。上級武士は藩政を預かる誇りと責任感とを持つように、幼い頃より英才教育が施されています。佐渡は藩政改革に際し、門閥に関わらない有能な人材を多数登用しましたが、最終的な決定権は常に自分が持ってきました。
それが上級武士の責任だからです。
当時の武士の一般的な価値観では、これが常識でした。
これをもって、佐渡という男の「限界」を指摘するのは容易いでしょう。しかしそういう価値観、そういう世界観の中で育ってきた者としては、致し方の無いことでしたでしょう。従来の秩序を守り、世の安寧を図ろうとするのは、官僚たる上級武士としては、当然の在り方だった、ともいえます。
単純に良い悪いは、言えません。
佐渡は長州の木戸孝允とも、宴席で1、2度合っているようです。後の木戸の述懐では、佐渡はなかなかの人物だったが、どうにも堅苦しくて、気持ちがうまく通じ合えなかった、もっと気楽に接してくれたら、お互い得るところもあったろうに、と、残念がっていたそうです。
如何にも、奥州武士だなと、感じさせます。
佐渡は元々、薩長に敵対する意図などありませんでした。それが「正しく」朝廷の軍であるなら、当然従うべきだと考えていました。
しかし京において情勢を探るうち、薩長は朝廷の命によって動いているわけではなく、薩長自身の意志によって動いていることが見えてきます。
これは「偽り」の官軍ではないか!佐渡の中に、新政府への怒りと憤りの念が湧き上がっていきました。
佐渡は朝廷の意図を知るべく、右府岩倉具視のもとを訪れます。
つづく、で、ありやす。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます