荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ストリンドベリ作『私のなかの悪魔』(演出 青山真治)

2013-03-29 03:45:40 | 演劇
 東京・東池袋のあうるすぽっとで、スウェーデンの劇作家ストリンドベリの戯曲『債鬼』(1888)を青山真治が翻案・演出した舞台『私のなかの悪魔』が上演されている。

 演劇の演出について、青山真治は「en-taxi」誌2011年冬号のなかで次のように述べていたことが、いま思い出される。
「脚本も書く映画監督として、また多少なりとも小説にも手を染める身として、〈いまここ〉の物語を伝えるための言葉はすでにじゅうぶんすぎるほど書いてきた。そうした者が演劇の世界に身を置くにあたってすべきは、現代の言葉を発することは専門家に任せ、その領域は侵さず、古今東西に残された優れた言葉たちを探し出し、それらを優れた俳優たちの声を介して、現代の観客に届けることだと考える。」
 ここで言われた「優れた言葉たち」はすでに、デヴィッド・マメット、マーシャ・ノーマンとなり、そしてついにアウグスト・ストリンドベリへと至った。そして「優れた俳優たち」──とよた真帆、左戸井けん太、高橋洋の3人──が「優れた言葉たち」を操ることになる。
 そして、本作の上演プログラム上の巻頭言で青山は、次のように述べている。
「放射能と排気ガスだらけで目も当てられない21世紀における、ストリンドベリの有効な活用法とは、これ以外にないのではあるまいか。」
 この「これ」というのが何なのか、実際の上演を見てのお楽しみである。

 上演を見つつ最初に頭に浮かんだのは、ジャック・ドワイヨンの『ラ・ピラート』である。嫉妬に狂った男どもが、ひとりの女(ジェーン・バーキン=とよた真帆)をめぐって乱痴気騒ぎを引き起こし、「ああ言えばこう言う」ディスカッションによって、いつ果てるともなくエントロピーが増大していく。ただし女は、バーキン的な苦悩からは無縁で、フィルム・ノワールにおけるヴァンプ(妖婦)のごとく、しどけなくソファに寝そべり、不敵に笑みを浮かべつつ、しなを作るばかりである。
 ソファに寝そべる大柄で充実した身体の持ち主であるとよた真帆は、まさにキャット・ピープルの子孫だ。ジャック・ターナーのヒロイン(シモーヌ・シモン)の再来だ。キャット・ピープルは、同類との秘やかな関係性しか築かない。人間的家族主義の埒外にある存在である。埒外? いや、そうではない。このゲームにはひっそりと母性の予感も、たしかに漂っているように思える。
 そういえば彼女は、同じくこのあうるすぽっとの舞台でイプセン作『ちっちゃなエイヨルフ』(演出 タニノクロウ)に出演しているが(2009年2月)、あの時もやはり舞台中央のソファのような、身体を横臥させる家具とともに在り、その大柄な身体を横臥させていたのではなかったか? 『私のなかの悪魔』の主題はまずストリンドベリのテクストである。そして、とよた真帆の堂々たる肢体、そしてそれを盗み見しつつ手も足も出ない男たちの焦燥が、破廉恥なまでにあからさまな第二主題を形成する。
 こうした、家具の援用による身体の再測定は、青山演出の前作『おやすみ、かあさん』においても徹底されていた。そして、この新作における性のおおらかな肯定は、ルノワール的な境地に到達しようとしている。やれドワイヨンだジャック・ターナーだと騒いだあげくに、こんどはルノワールか?と呆れられそうだが、映画ファンというのは、こういう連想ゲームで一人遊びをする悪い癖が、どうにも抜けないのである。2013年という、寂寥感しかないようなこんな時代に、ヴァンプの媚態をこれほど肯定する肉感主義は、是が非でも擁護されねばならない。映画作家の名をあれこれ取りざたする愚を犯すのはひとえに、この擁護の身振りをどのようにおこなうべきか、戸惑う受け手の滑稽さでしかないだろうが、かえってそんな滑稽と戯れていたくなる、そんな情動的な笑劇である。笑劇? 原作『債鬼』は未読だが、はたしてこれは笑劇だったのだろうか?

 怪作的傑作『共喰い』が9月に劇場公開されようとしている今年、この演劇作品『私のなかの悪魔』が、わが兇暴なる肉食の欲望を無限に喚起させるのである。


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