荻野洋一 映画等覚書ブログ

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エリザベス・テイラーのウインク

2020-05-03 01:00:40 | 映画
 蟄居(ちっきょ)が続くなか、キャストが派手に着飾った映画を見てみたくなった。

  映画史を紐解けばいろいろあるだろうが、その選別に頓着したくないという屈託もあって、手近な棚からベルトラン・ボネロ監督の『サンローラン』のDVD-Rを出してきた(冷蔵庫のとなりにDVDの棚があるから、冷えた白ワインと共に)。ところが、主人公のイヴ・サンローランの、なにやら息苦しそうな幽閉感を眺めていると、そこに写っているもののすべては私たちの現況それじたいに過ぎないように思えてきて、大好きな作品ではあったはずなのだが、30分ほどで見るのを中止してしまった。

 その代わりにデッキの中に入れてみたのがジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督の『クレオパトラ』ではあったのだが、これはよく知られているように「映画史上最大の失敗作」ということになっている。20世紀フォックスの社運を傾けさせた『クレオパトラ』の汚名は、なぜか『スパルタカス』とか、『天国の門』とか、どうやら史劇スペクタクルが着せられがちなものだ。そしてその3作を、私はいずれも溺愛している。監督本人の考えとはちがって、キューブリックで最もよい作品は『スパルタカス』だとも思っている。そんな機会はあるわけもないが、私も「映画史上最大の失敗作」と毒づかれる史劇スペクタクルとやらの作り手になって憤死してみたい。
 カエサルとのあいだにできた子カエサリオンをローマ市民にお披露目するためにエジプトから上陸してのパレードシーン、このバカげた絢爛豪華さを私は愛する。そして、その代償として忍びよってくる悲運も。溝口健二の『新平家物語』も、この『クレオパトラ』くらい呪われていたらもっと良かったのに、とよこしまなことを思う。呪われているからこそ、パレードの終わりにカエサルと相対したクレオパトラ──エリザベス・テイラーがクレオパトラを手なずけているのが見ていて頼もしいのだが──のあのウインクが、この上もなくかけがえなきものとして映るのだろう。古代の人間だって、ウインクくらいしたはずだ。むしろ現在の私たちのほうがウインクをしない生き方になった。

有馬稲子、樋口尚文 著『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』についての寸感

2018-07-28 04:31:21 | 映画
 有馬稲子については既刊書として自伝『バラと痛恨の日々』(1995)、そして『のど元過ぎれば 私の履歴書』(2012)があるが、語り下ろしの最新刊『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』がこのたび刊行された(筑摩書房 刊)。この刊行と連動して、先日シネマヴェーラ渋谷で特集上映も催された。ファンならば誰もが、いやファンならずとも手に取りたくなること必至の貴重証言集である。
 日経新聞の連載をまとめた2012年の前著『のど元過ぎれば』は、市川崑監督との不倫愛そして堕胎という衝撃的告白で度肝をぬいたが、今回もその続報というか、補足が述べられている。しかし、全体としては新書のようなスピード感であっという間に読めてしまうことが目指された本で、フィルモグラフィを丁々発止でスキップしていく。『夫婦善哉』のヒロインは淡島千景だが、いったんは有馬稲子で決まっていた時期もあったそうだ。有馬稲子の『夫婦善哉』ならどんなだったろう。

 聞き手をつとめた樋口尚文さんはベテランらしい巧みさでスターから言葉を引き出している。5年前に銀座シネパトスが閉館するに際し、同館にオマージュを捧げた氏の監督作品『インターミッション』(2013)は、良く言えば珍品、悪くすると茶番と言ってしまいたいもので、当惑ついでに同年の「映画芸術」誌ベストテン&ワーストテン選考でワースト10位に選んでしまった。
 しかし、映画評論家あるいはインタビューアーとしては定評ある大先輩で(大学の学部でも先輩にあたり、私が新入生の時に氏はたぶん4年生だったと記憶する)、赤入れで読みやすく工夫しただけかもしれないが、監督や脚本家にインタビューするのとは勝手が異なり、役者に対してはまったく別のノウハウが必要であることを心得ていらっしゃっていて勉強になる。以前、映画学系の人たちが作ったある役者インタビュー本がひどく生硬な質問でノッキングを起こし、ストレスを感じたことがあった。本書はそんなストレスとは無縁にスターの言葉に集中できる。

 有馬稲子という人の歯に衣着せぬ物言いは、いい意味で当惑を感じるほど。彼女の出演作で私の好きな作品も、彼女の物差しでいうと印象の薄い作品として片付けられてしまうこともしばしばだ。木下惠介の『惜春鳥』(1959)や田坂具隆の『はだかっ子』(1961)といったあたりがそれに該当する。『惜春鳥』は彼女と佐田啓二が会津の飯盛山で心中する展開なのに、肝心の心中シーンが省略されていることに「物足りない」と言っている。夭折した映画評論家、石原郁子さんが著した渾身のモノグラフィー『異才の人 木下恵介 ──弱い男たちの美しさを中心に』(1999)で著者が万感の思いをこめて『惜春鳥』のスチール写真を表紙に使用していたのとは好対照の素っ気なさである。

『月と雷』 安藤尋

2017-11-11 18:52:29 | 映画
 ペットなんかをスマホで撮影したら、誰にでも可愛らしく撮れてしまうだろうが、映画はまったく別次元である。映画作家も動物を撮れたら一流だとよく言われる。なかなかそういう人は出てこないのだけれど。動物同様に才能が要求されるのは、火、水、風、光、土だろう。そして何と言っても気象である。晴天を晴天として撮れる人、曇天を曇天として、雨天を雨天として、嵐を嵐として撮れる人を、私は尊敬してやまない。青山真治を以前から変わらず「現代では稀少なグリフィス的映画作家」として敬ってきたのはそういうことであるし、『愚行録』で急に登場した石川慶監督に期待するのもそうなのである。
 安藤尋監督の新作『月と雷』を見た。茨城のさびれた農村の一軒家を、じつに表情豊かに画面に収めている。「表情豊か」などと陳腐な表現しかできない自分がもどかしいが、言いたいのは、場面ごとにその家が変化するということだ。安藤尋は、原作と脚本のプレテクストに恵まれている映画作家だけど、映画それじたいのありように一作一作、安藤の色が濃厚に出てきていて、今回私は作品のなかをどっぷりと徘徊してしまった。一軒家に誰かが一人取り残されたと思ったら、こんどは親類のようで他人のような人々が集まりだして、妙に賑やかになる。でもそれがかりそめの賑やかさであることは、誰もが承知している。
 安藤映画は、ここぞという時の火、光に力を感じる。『海を感じる時』(2014)終盤の市川由衣と池松壮亮の頭上で街灯がパンと割れるシーンが、いまだに脳裏に残っていて、今回の『月と雷』も、高良健吾の足元で燃える炎が素晴らしかった。火という移ろいゆくものの中に過去の証拠物を投入して、移ろいの風に乗せていく。
 安藤映画の光、炎はどこかしら人間忌避を示しているのかもしれない。決して冷たい映画ではなく、むしろ人間臭くすらある安藤映画だけれども、どこかしら否定の意志が働いているように思う。そして否定のあとにくる諦念を引き受けた上で、なおも元気でいる。近作のヒロインたちの強さを、私はそんなふうに解釈している。


横浜シネマジャック/ベティ、シネマテークたかさきなど、各地で続映中
http://tsukitokaminari.com

『ザ・ダンサー』 ステファニー・ディ・ジュースト

2017-06-13 01:02:58 | 映画
 現在公開されている作品のなかで、個人的に非常に気に入っている作品がある。「キネマ旬報」の星取りレビューでも絶讃の短評を書いたのだが、あまり読まれていない可能性もあるので、ここでもう一回触れておきたい。フランスの女性監督ステファニー・ディ・ジューストの長編デビュー作『ザ・ダンサー』である。
 19世紀末、ベルエポックのパリで活躍した女性舞踏家ロイ・フラー(1862-1928)のことはじつはまったく知らなくて、映画で初めて知った次第だ。アメリカ中西部のフランス系移民の娘である彼女は、田舎でくすぶっていたが、父親の死をきっかけにニューヨークに出て、夢である舞台女優をめざす。芝居の幕間で余興で踊ってみせたところ、そこそこ喝采を浴びたことから、ダンサーに転身する。
 ロイ・フラーを演じたミュージシャン兼女優のソコが、非常に素晴らしい。通常、中性的という言葉はどちらかというと女性性を併せ持つ男性に使われるケースが多いが、ソコは逆で、ある種の男性的な顔貌も兼ね備えた女性である。それほど美貌に生まれついたわけではなかったロイ・フラーは、羽を広げた白鳥のような絹の衣裳と、強烈な照明効果を活用しつつ、肉体の酷使によってオリジナリティを見出す。ひとりのアーティストの半生記という意味では、いわゆる「芸道もの」というジャンルに属する映画である。しかしこれほどフィジカルの強調された「芸道もの」は、パウエル=プレスバーガーの『赤い靴』(1948)以来あっただろうか。「スポ根もの」のような「芸道もの」である。
 まだ時代はコルセットの時代だった。そこに彼女はみずからの肉体によってアール・ヌーヴォーを体現した。初期のシネマトグラフにも踊る彼女がいる。そういう端境にいる感覚が、この作品から伝わってくる。美と悲惨がない交ぜとなってゴロゴロと転がっていく世紀の始まりとは、こういう火のような舞いによって印をつけられた。絵画においてジャポニスムが興ったのと同様に、ロイ・フラーが川上音二郎一座を招聘して、パリで川上貞奴ブームを生み出したのは面白い。映画においても、ロイ・フラーの日本舞踊へのリスペクトの念は印象的だ。上写真は、ロートレックが彼女の舞踏公演を描いた絵である。
 最後にひとつ。本作のシナリオは監督のステファニー・ディ・ジューストとトマ・ビドガンの共同によるものである。ホワイ・ノット・プロダクションの制作担当だったトマ・ビドガンはやがて脚本にも着手するようになり、ベルトラン・ボネロの『サンローラン』(2014)も書いている。『サンローラン』は私の偏愛する作品であり、今回の『ザ・ダンサー』も含め、私はこのトマ・ビドガンというライターが好みのようである。


6/3(土)より新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座、Bunkamuraル・シネマほか全国公開中
http://www.thedancer.jp