荻野洋一 映画等覚書ブログ

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直枝政広 著『宇宙の柳、たましいの下着』

2007-11-27 03:52:00 | 
 音楽を、特にロックミュージックを私が真剣に聴いたのは、ローティーンからミドルティーンの間のほんの数年に過ぎない。その頃は「Fool's Mate」「ZigZag East」「Rockin' on」など何冊かの音楽雑誌を毎号買って隅から隅まで読んだし、西池袋の「サウンドボックス」という結構揃っている貸しレコード屋に日参して、録音カセットの山を自室に築いた。高校受験の選択を新宿区内にしたのも、放課後に新宿西口の輸入盤屋やブートレグ屋に通いやすいという動機が大きく、音楽批評は、小説よりも漫画よりも私の最大の愛読分野だった。
 ところが高校入学後、いつの頃か自分は音楽とは縁遠い存在だ、リスナーとして失格だという気がしてきたのだ。ちょうどこの倦怠的な気分と、ゴダール、トリュフォー、大島渚らの映画作家との衝撃的な出会いとが相前後したため、“そっちがその気なら、こっちからも願い下げだ”、という偏狭な心を音楽に対して抱いてしまった。
 そして現在、私と音楽との接点は、朝食時のBGMか、地下鉄でのイヤホンから聞こえてくるシャカシャカした音源か、仕事で担当するTV番組などの選曲・音効作業か、その程度になってしまっている。その後も、気になるアーティストの自伝やら伝記やらを時々買ってはみたけれども、最後まで読み通した本は一冊もなく、何人かいる親しい音楽批評家たちの皆さんが上梓した著書も、失礼だがこれといって読んでいない。音楽と無関係だった大学時代、ある友人宅の書棚の一番取りやすい場所にジョン・ケージの『小鳥たちのために』が立て掛けてあるのを発見して、こそばゆいようなまぶしいような気持ちを持ったことを記憶している。

 ところが今、『宇宙の柳、たましいの下着』(直枝政広著 boid刊)という、一冊の出来たてのほやほやの本を手にして、何やらワクワクしている自分を発見してしまった。ページをめくりつつ、いわゆる「ミュージシャン本のつまらなさ」とは完全に一線を画していると直感してしまったのだ。これは凡百のミュージシャン本とは一線を画し、古今の英米ロックについての豊饒なるディスクガイドとなっているのだ。あぁ、これでここ25年くらいすれ違ってきたとしか言いようがないロックミュージックとのリコンシリエーションが、ついに成し得てしまうのだろうか、というほのかにして大袈裟なる期待感が、全身をゆっくりと流れてゆくのを感じている。
 私が生まれて初めて買ったアルバムは、当時日本でもヒットしていたポール・マッカートニー&ウィングスの『London Town』だったのだが(いや実際にはその前に、スーパーカーのイグゾーストノート集みたいな音源アルバムを買ったが)、著者が何の韜晦もなくポールの音楽について、まるでジョン・フォードの西部劇について書くかのごとく慈愛に満ちた筆致で書いているのを読み、つい勇気づけられて同アルバムをiTunes Storeでダウンロードしてしまった。

フェルナンド・フェルナン・ゴメスの死去

2007-11-25 11:36:00 | 映画
 スペインの俳優・監督・脚本家、フェルナンド・フェルナン・ゴメスが21日、入院先のマドリー・ラパス病院で肺炎のため亡くなった。享年86。遺体は、最後の舞台となったマドリー市内のテアトロ・エスパニョールに安置され、数多くのファンが追悼に訪れている。

 フェルナン・ゴメスには25本の監督作品があるとのことだが、俳優としての出演作はキャリア60年間でおよそ180本にのぼり、ヴェネツィア映画祭で男優賞を1度、ベルリン映画祭でも同賞を2度獲得している。

 しかしながら、私たち日本の観客として最も親しみ深いのが、ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』(1973)におけるアナ・トレントの父親・フェルナンド役である。内戦直後、フランコ独裁が敷かれつつある1940年代にあって、おそらくは文壇もしくは思想界から足を洗い、ミツバチの生態研究に没頭する父の姿は、隠棲者の寂寥感が漂っていた。

 忘れるなかれ、『ミツバチのささやき』はフランコ独裁が田舎の隅々にまで敷かれてゆく独裁初期を後景として描いた作品であるが、この作品自体が作られた1973年、まだフランコ独裁体制が終わってはいなかったのだということを…!

『ボーン・アルティメイタム』 ポール・グリーングラス

2007-11-25 02:41:00 | 映画
 東京MovieWalkerなどを覗くと批評家たちから大変高く評価されていた『ボーン・アルティメイタム』を、きょうの午後やっと見る。

 欧州各都市、北アフリカ、NYと小刻みに場を仕切り直しながら、ノンストップアクションが展開される。まさに、男の子たちが喜ぶシリーズ企画で、短いカッティングと訳もなく揺れまくる手持ちカメラが、人工的な高揚感を煽る。群衆の中こそ最高の隠れ家であるという、ヒッチコック的な知恵を駆使したロンドン・ウォータールー駅でのサスペンスが最も秀逸で、逆に、巷で評判をとっているモロッコ・タンジールでの鬼ごっこは、あまりにも他文明の建築文化に対し土足上がり込み的に過ぎていて、少し鼻についた。

 どうも全体の歯切れが悪いのは、主人公(マット・デイモン)の命を狙うCIA本部の司令部連中が、元同僚であり正義を体現している主人公に多少なりとも同情的であるがゆえに、こぞって意気が上がらないためであろう。またそのことが、アメリカの体制そのものの是非を周到に問わないでおくための保険ともなっているわけである。


全国で大規模に公開中
http://bourne-ultimatum.jp/

『レディ・チャタレー』 パスカル・フェラン

2007-11-24 03:30:00 | 映画
 パスカル・フェラン監督の映画はとにかく随分久しぶり、というのが第一印象。あまりにも有名なD・H・ロレンスの遺作小説が、今になって突然甦ったのにも、何か理由のあることであろう。初見ではそれを捕まえることができなかったが、とにかくきわめて美しく撮影されており、ロレンスのハードコア小説に濃厚だったボリシェヴィズム的な側面、産業社会への呪詛といった側面は、後景に追いやられている。

 ここでは、貴族女性の「森」と「森番」との出会いが謳い上げるルノワール的、ピクニック的な側面(いやむしろロメール的なと形容した方が正確か?)ばかりが徹底的に追究されているのだ。原作者ロレンスの死後、彼を識る友人たちから、この小説家に如何ともし難く宿っていたと弾劾されたファシスト性は、フランス人女性監督にとっては、あまり興味を惹かない側面であったようだ。おそらく彼女は、不倫の愛が旧弊社会への反抗・離反となり、やがて純化してゆく過程をこそ描出したのであろうことは、チャタレー夫人と森番パーキンが全裸で雨に打たれて浮かれ騒ぎ、林道で泥だらけになりながらセックスに至る、カタルシス溢れるシーンによって明らかだ。その点で、この作品は、現代映画が提示しうる『近松物語』(溝口健二 1954)といったところであろうか。

 それにしても改めて思うのだが、『恋のエチュード』(フランソワ・トリュフォー 1971)『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン 1984)など、他にもまだ沢山あるだろうが、フランス人が描く英国人というのはいつも、なぜこれほどまでに狂おしくそしてフェティッシュな美しさに満ちているのであろうか? 英国とフランスというのは、伝統的に相容れない関係だとはよく聞く話なのだが、この転倒を、どなたかうまく解析してはくれまいか?



渋谷シネマライズで上映中、以後全国順次公開
http://www.lady-chatterley.jp/

たむらまさき、青山真治 共著『酔眼のまち──ゴールデン街1968~98年』

2007-11-21 23:30:00 | 
 最近出たばかりの『酔眼のまち──ゴールデン街1968~98年』(朝日新書)は、映画カメラマン・たむらまさきの自伝的物語を、二人三脚で作品製作を進めてきた25歳年下の映画作家・青山真治が聞き書き形式で仕上げたものだが、これは単純にすこぶる面白く、たむらまさきの撮影作品に馴染みのない読者をも、一躍この近代日本映画を支えたカメラマンにぐっと近づけるものであろう。

 たむら本人のすばらしいバイオグラフィを回顧するだけでなく、撮影所システム崩壊以後の苦境に立たされた日本映画を現場の視点から生々しく回顧し、さらに話者の根城たる新宿・ゴールデン街の変遷の一端を知ることもでき、風俗史の側面も持っている。映画人や文壇人にとっての神話的空間とさえなっていた観のあるこの一画について、正直、私自身はほとんど思い出はないのだが、ある種の濃密なる生の磁場たり得ていることは間違いない。私自身もまた、これとはまったく形こそ違えど、なにがしかの「磁場」を探し求め、都内各所を朝昼夜深夜早朝と徘徊してはいるが、真の意味での安息地は見つかっていない。その点で、この物語の話者に多大なる嫉妬を感じる次第だ。おそらく「磁場」とは、探して見つけるものではなく、単にあってしまうものであろう。

 青山真治による本書のあとがきで、青山真治とたむらまさきのコラボレーションが、先日公開された『サッド ヴァケイション』を区切りとして休止されるとあり、軽いショックを覚えた。あるいは、これはすでに発表済みの周知の事実であったのだろうか。
 しかしとにかく、たむらまさき、青山真治それぞれの新展開を大いに期待したいところだ。これからも彼らはおのおのどんな作品を、私たちに届けてくれるのだろうか。