荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 ジム・ジャームッシュ

2014-01-30 01:05:41 | 映画
 J.S.バッハは17世紀末に生まれ、18世紀中葉に亡くなっている。つまりバロックの末期=総括期であり、古典派の一端はともかく、ロマン主義の「ロ」の字もまだ芽ばえていない時代である。にもかかわらず、バッハは頑迷な対位法の森の片手間に、なぜあれほどロマンティックなメロディを書くことができたのか?

 たとえば、カンタータ106番の冒頭曲「ソナティーナ」のリコーダー2本の奇跡的なからみ合い。『平均律クラヴィーア第1巻』第1曲ハ短調の少女趣味的テクノ的な反復。
 『マタイ受難曲』のなかから、タルコフスキーが『サクリファイス』で使った第39曲「憐れんでください、神よ」、ブリュノ・デュモンが『ハデヴェイヒ』で使った第42曲「われに返せ、わがイエスをば!」、ゴダールが『こんにちはマリア』で使った終結曲「われらは涙流してひざまずき」。
 あるいは、『2手のバイオリンのためのコンチェルト ニ短調』。『バイオリン、オーボエと通奏低音のためのコンチェルト ハ短調』。管弦楽組曲第3番エール『G線上のアリア』。カンタータ第147番『心と口と行いと生きざまをもって』。タルコフスキーが『惑星ソラリス』で使ったオルガン曲『主よ、私はあなたの名を呼びます』。グレン・グールトでおなじみ『ゴルトベルク変奏曲 アリア』。ウディ・アレンが『ハンナとその姉妹』で使った最も甘くメロディアスなクラヴィーア協奏曲第5番ヘ短調ラルゴ『わが片足は墓穴にありて』。
 そして、この作曲家の最高傑作だと個人的には思っているモテット第118番『おおイエス・キリスト、わが生命の光』の、イタリア的な歪みを活用した混声合唱。

 いささか例を挙げすぎて論点がぼけたが、ようするに私が推理するに、J.S.バッハとは、現代、21世紀のある天才的な作曲家がなんらかの理由で世を忍ばねばならず、秘かに18世紀にタイムスリップして行動した成果の一連だと思うのである。
 たとえばJ.S.バッハはヴァンパイアだったのではないか? ジム・ジャームッシュの最新作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を見て、改めてそう思うのである。この映画のなかの主人公である吸血鬼ミュージシャンを演じたトム・ヒドルストンの「この曲はシューベルトに提供した。せめてアダージョだけでも世に出したかったから」というセリフを聞いたり、老吸血鬼を演じたジョン・ハート(『天国の門』が記憶に新しい!)がクリストファー・マーロウ、ウィリアム・シェイクスピア、バイロン卿など、イギリスの文豪をたったひとりで担当していたなどという人を喰ったいきさつを見ているうちに、ほんとうにそう思わざるを得ないのである。
 そして、そうしたヴァンパイアが人類の創造的活動に貢献した牧歌的な時代がついに終焉を迎える本作は、あまりにも厭世的、メランコリックだと言える。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほかで上映
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廣瀬純 著『絶望論──革命的になることについて』

2014-01-27 09:49:43 | 
 廣瀬純の『絶望論──革命的になることについて』(月曜社)を数ヶ月にわたって読み続け、最近ようやく読み終わった。読了に長くかかったからといって、この本に退屈したわけでも、難渋したわけでもない。決して取っつきのいい本ではないが、むしろ読み手をあらぬ興奮へと煽動しさえする。
 ではなぜ、何ヶ月もかかったかというと、どうでもいい私事で恐縮なのだが、私はどうしても一冊の本を頭から最後まできちんと読破することに集中して、読み終えたら次の本を、ということのできない質である。「浮気読み」と自身では名づけているのだが、同時に何冊もの本を併行して読み進め、読み終えた本が一冊出ると、まだ他に途中の本がたくさん手元にあるのに、別の本を一冊二冊と読み始めたくなるのである。鈴木清順も同じような癖の持ち主であることを語ったことがあったが、案外こんな人は多いのではないか。
 そうした渋滞的な「浮気読み」のなかで、本書は最後まで本妻に収まることなく、みごとに妖艶なる二号さん三号さんを勤め上げてくれた。なぜ本妻でないかというと、この本が単に面白いからである。私と廣瀬純は、かつて存在したカイエ・デュ・シネマ・ジャポンという映画雑誌の編集委員を共に務めていた間柄であり、前にもどこかで書いたが、高校も大学も新宿区内の同じ学校の出身で、だから、彼の資質については多少は知っているつもりである。
 私に言わせれば、彼は「はじめにオモシロさありき」の人間なのだ。彼はまずとにかくオモシロいことを人前で披露してやろうとムキになる。そうして、彼の中のオモシロ虫みたいなものが発動して、それに乗じて論理がついてくる、という順番なのである。まず、突然変異を露呈させておいて、後付けでその進化論が補強されていく。この順番が思想家としての彼の原動力だと私は考え続けてきた。
 したがって、「このクソだらけの世界で創造的に生きるために」と帯にも惹句がしたためられた本書が、マルクス、ゴダール、ドゥルーズ=グァタリをネタに、「デモの無力さ」「革命の不可能性」といったネガティヴなタームをまず屹立させて、そこから「革命的になること」を照射して見せているのは、逆説でもニヒリズムでもない。「デモの無力さ」「革命の不可能性」を彼はまず愉しみ(または絶望し)、そこを起点にメタモルフォーズを、革命的に「なること」を実践的に解き明かしていくのだ。この順番は彼にとって勝手知ったる戦法なのである。
 言うまでもないが、わが同時多発的読書にあって、彼の新著『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(青土社)は『絶望論』を読了したから読み始められるのではない。とっくにそれは始まっているのであり、それは深いディゾルブ、オーバーラップと共にある──『映画史』のゴダールがその技法の名手であることを念頭に置きながら。

『おかる勘平』 マキノ雅弘

2014-01-22 22:04:23 | 映画
 自分が単にだらしない懐古趣味の人間ではないかと考えさせられる瞬間がやってくるのは、現代においても際々の現代性を誇示してやまぬ小津安二郎映画を見ている時ではなく、岸井明の150kgの球体じみた巨漢を眺めながら癒やされている時である。
 木村荘十二『純情の都』『三色旗ビルディング』、矢倉茂雄『踊り子日記』、伏水修『唄の世の中』、山本嘉次郎『新婚うらおもて』…と、P.C.L.(東宝の前身)で撮られた1930年代の都会派喜劇で岸井明がどれほど輝いているか、私はいつまでも考えていられる(『踊り子日記』では、単にヒロイン千葉早智子にからむ酔っぱらいだが)。どんなに気分が落ち込んでいても、これらP.C.L.のナンセンス喜劇での岸井明の脱力した、あきらめの中の賑々しさ、150kgの巨漢が醸す癒し効果は、つねに素晴らしい処方箋となってきた。

 そんな岸井明の十八番といえる場面を、このたび初見かなったマキノ雅弘『おかる勘平』(1952)の中に認めた時、私の涙腺は思わず弛んでしまう。
 『おかる勘平』は、帝国劇場(現在の前の建物)を舞台にした、エノケンと越路吹雪ダブル主演のバックステージもの。前年の1951年に帝劇が初演したオペレッタを小国英雄が映画脚本として書き換えた。デビュー間もない岡田茉莉子がバックダンサー役の中に紛れていたりと見どころ多いことこの上なし。
 帝劇の食堂でカツライスを待つ岸井明が「早く早く! 稽古のベルが鳴っちゃうじゃないか」とあせり顔で訴えると、画面左からすっと現れた特大のトンカツ、おひつ1杯分そのままとあるだろうライスがうずたかくそびえている。さあ食べようという時、案の定、稽古開始を告げるアナウンスが鳴り響くのである。「どうせこうなると、分かっていたよ」とでも言いたげにカツライスに背を向けて立ち去るその姿は、岸井明というボードビリアンの魅力を余すことなく示しているのだ。
 結婚引退を発表して劇場を去った越路吹雪がラストシーンで婚約者の許しを得ることに成功、帝劇のバックステージに戻り、スタッフ・キャストの注目の中、階段を下りてくる場面の見開かれた目、いとしの共演者エノケンの名前を連呼する叫びは、「わが人生、ここにあり」と雄弁に語っている。エノケンや岸井明もふくむピエル・ブリアント、笑いの王国と続く1930年代の東京喜劇シーンが、大戦による壊滅をはさんで、ここに残照として映えているのだ。

 また、帝劇の実景カットを見てはじめて知ったが、当時の正面玄関は皇居の方を向いていたのか。おそらく当時の観劇客は旧・都電の「馬場先門」で下車して内堀に沿って劇場に向かったはずである。現在の帝劇の玄関は第一生命の方を向いているが、これは有楽町駅からのアクセスを考慮しての設計であろう。
 それと、暗くてはっきりしないが、GHQに接収されて本部として使用された、お隣の第一生命も写っている。本作が公開された1952年3月からわずか1ヶ月後の4月28日、サンフランシスコ講和条約の締結によってGHQは第一生命ビルから撤収し、「オキュパイド・ジャパン」の時代が終わっている。


神保町シアター(東京・神田神保町)で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

『エンダーのゲーム』 ギャヴィン・フッド

2014-01-19 08:04:23 | 映画
 オースン・スコット・カードの同名原作『エンダーのゲーム』(1985)をウォルト・ディズニー社が映画化した本作は、映画狂が陥る『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)的シニシズムへの呵責なき批判として在るのではないか。
 若い主人公たちが、侵略してきた虫けらの大群を敵にまわし、軍事教練を受ける経緯については、両作品ともたいして違いはない。米軍キャンプをパロディ化した教練シーンは、ユーモアととともに語られる。だが、これをユーモアと解することに問題が生じていることを、観客である私たちは自覚しなくてはならないだろう。「日本の戦争映画は鈍重すぎる、もっと活劇的な戦争映画を作れないものか」というようなシネフィリックな発言を、私たちは安易に呟いてしまうからである。
 この『エンダーのゲーム』の主題もまさに、この呟きの中にある。タイトルに「ゲーム」と冠しているように、この映画はあくまで演習しか描かれない。虫けら軍との実戦は、教練の初日に映写される半世紀前の英雄的戦闘の映像アーカイヴとしてしか存在しない。すべてはゲーム、私やあなたの今も、人類の運命もすべてはゲームのなかにしかないと本作は言う。救いは、この映画の主人公である天才プレーヤーのエンダー少年(エイサ・バターフィールド)が、この物語そのものに疑念を抱き、いつどうやって逸脱してみせようか、つねに考えあぐねている点である。裏切りによってみずからの誠実を証明してみせようという、逆説の応酬のようなゲームに入り込んでいかなければならない。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほかで上映
http://disney-studio.jp/movies/ender/

『マイヤーリング』 アナトール・リトヴァク

2014-01-16 02:30:52 | 映画
 “マイヤーリング” とは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇室狩猟場のあった村の名前で、すぐに思い出すべきなのは、本作『マイヤーリング』(1957)ではなく、有楽町朝日ホール〈フランス映画の秘宝〉での上映も記憶に新しい『マイエルリンクからサラエヴォへ』(1939)だろう(ただし、マイエルリンクというのはちょっと知ったかぶりの発音法で、実際はマイヤーリングという発音のほうが適切)。
 マックス・オフュルスによるこの美麗なるフィルム体験には比べるべくもない、ごく標準的なメロドラマ体験としてアナトール・リトヴァクの『うたかたの恋』(1935)という作品があって、これはDVDやテレビ放映でいつでも見られる、いわゆる名作。題材からすると両者は双子のような作品だ。『うたかたの恋』は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実子であるルドルフ皇太子が、男爵令嬢と心中するまでの悲恋メロドラマ。『マイエルリンクからサラエヴォへ』では、ルドルフ皇太子の死後に皇位継承者に指名されたフランツ・フェルディナント大公が女伯爵と恋に落ちる。フランツ・フェルディナント大公がサラエヴォでセルビアの愛国青年に暗殺されたことで、第一次世界大戦が勃発したのは、教科書の知識だ。
 皇位継承者が傾城の恋に身をやつし、破滅する点ではきれいに相似形を描いている。またこれは、ハプスブルク皇室の落日が、このようなメランコリアの反復運動をへながら進行していったことを如実に示す。

 ウクライナ系ユダヤ人監督アナトール・リトヴァクは、たとえば蓮實氏からはオフュルスの偉大さを強調するために、ごく標準的な説話行為に収める凡庸な監督として名が挙がる程度の人だが、もちろん全然ダメではないというのは前提となる。事実、ジェームズ・キャグニー主演のボクシング映画『栄光の都』(1940)などは、ラオール・ウォルシュもかくやという香しさを湛えていたものである。
 ところで今回初公開となる幻の作品『マイヤーリング』は、じつは単発もののテレビドラマで、『うたかたの恋』の同一監督による22年ぶりリメイクである(『うたかたの恋』も原題は『Mayerling』)。日本でもそうだが、当時の技術的限界としてVTRへの録画と編集が不可能だったため、テレビドラマは一発本番の生中継だった。したがって作品は現存していないと思われたが、キネトスコープという、言わば生中継のモニターを再撮影するキネコ技術を駆使して、フィルムの形で保管されていたのだそうだ。ただしオンエア時はカラー放送だったが、残されたのはモノクロフィルムである。生中継ドラマという未熟なメディアに挑むにあたって、リトヴァクとしては、勝手知ったる『うたかたの恋』のリメイクという安全牌を選択したのにちがいない。

 格という点でオードリー・ハプバーンより偉大な女優あまたいるけれども、彼女ほど商品価値の衰えぬ人はいないというのは、すこし不思議な感じもする。この『マイヤーリング』の奇跡の復刻も、オードリーをもっと見たいという汎地球的欲望のなせる業だろう。これは、『ローマの休日』から4年後の彼女である。私にとってはむしろ、メル・ファーラーの苦悶にやつれた顔貌を「ひとつの新作」として見られたのは、僥倖であった。


1/4(土)よりTOHOシネマズ六本木ヒルズ、新宿シネマカリテほかで上映
http://www.mayerling.jp