試写にて、松本貴子の劇場用第1作『≒草間彌生 わたし大好き』。松本貴子はフリーランスのドキュメンタリー演出家で、私がレギュラー的に仕事をもらっているエンジンネットワークにも時々顔を出して、TBSの『情熱大陸』とかそういうのを演出したりしている。
旧知の間柄で生き様に衝撃を受けてきた前衛画家・草間彌生を主人公にして、いつか映画を撮りたかったのだそうだ。それが今回まさに実現の運びとなったわけだが、旧知の仲だからこその難しさもある。
樋口泰人が『Invitation』2月号で本作に触れて次のように書いている。「足の悪い彼女(草間)が、自分が車椅子に乗ってしまうことの意味をカメラに向かってふと説明するとき、私たちは彼女が今カメラに向かっている姿もまた、彼女の作品であることを理解する。」
だが、この樋口批評の意味するところは、《芸術家はただ「そこにいる」だけで作品になる》型の、先天的でうるわしい恩寵のことを述べているのではない。作品を成そうとする、あるいは作品そのものであろうとする強靱な意志がマネージメントし、エクスポーズする発酵作用によって初めて、作品たり得る契機が出てくるということを述べているのだ。
この発酵作用は、撮り手である松本にも当然共有されている。この作品で作者は、信頼に足る記録者としての立場を順守しようとはしない。おずおずとながらミステイクとも取れるぶしつけな質問を投げかけ、主人公から「あなたの存在が私とバッティングする」からと、時として撮影や会話が拒否される。目ざわりな闖入者であることを選び、空気か酸素のようなカメラが保証するナチュラルさは、あくまで不必要とされる。その姿勢は、画家に居心地の良い創作環境を整えようとするエージェントのスタッフたちの、我慢強く微笑をたたえつつ画家の発言に逐次調子を合わせる姿勢とは、正反対である。
映画の中盤以降、撮り手と被写体が慣れ親しんだかに見えるが、終盤でバッティング状態を蒸し返すのは、世界に名を轟かせる挑発者・草間彌生ではなく、老獪なる闖入者としての映画作家の方なのである。
TVドキュメンタリー畑で磨かれた技術ゆえにか、異常に見やすくフレンドリーな仕上がりに見えるが、表面の下からはドロドロとしたマグマが湧出しようとしている。
2月2日(土)よりシネマライズ渋谷で公開、以後全国順次公開
http://www.kusama-loveforever.com/
旧知の間柄で生き様に衝撃を受けてきた前衛画家・草間彌生を主人公にして、いつか映画を撮りたかったのだそうだ。それが今回まさに実現の運びとなったわけだが、旧知の仲だからこその難しさもある。
樋口泰人が『Invitation』2月号で本作に触れて次のように書いている。「足の悪い彼女(草間)が、自分が車椅子に乗ってしまうことの意味をカメラに向かってふと説明するとき、私たちは彼女が今カメラに向かっている姿もまた、彼女の作品であることを理解する。」
だが、この樋口批評の意味するところは、《芸術家はただ「そこにいる」だけで作品になる》型の、先天的でうるわしい恩寵のことを述べているのではない。作品を成そうとする、あるいは作品そのものであろうとする強靱な意志がマネージメントし、エクスポーズする発酵作用によって初めて、作品たり得る契機が出てくるということを述べているのだ。
この発酵作用は、撮り手である松本にも当然共有されている。この作品で作者は、信頼に足る記録者としての立場を順守しようとはしない。おずおずとながらミステイクとも取れるぶしつけな質問を投げかけ、主人公から「あなたの存在が私とバッティングする」からと、時として撮影や会話が拒否される。目ざわりな闖入者であることを選び、空気か酸素のようなカメラが保証するナチュラルさは、あくまで不必要とされる。その姿勢は、画家に居心地の良い創作環境を整えようとするエージェントのスタッフたちの、我慢強く微笑をたたえつつ画家の発言に逐次調子を合わせる姿勢とは、正反対である。
映画の中盤以降、撮り手と被写体が慣れ親しんだかに見えるが、終盤でバッティング状態を蒸し返すのは、世界に名を轟かせる挑発者・草間彌生ではなく、老獪なる闖入者としての映画作家の方なのである。
TVドキュメンタリー畑で磨かれた技術ゆえにか、異常に見やすくフレンドリーな仕上がりに見えるが、表面の下からはドロドロとしたマグマが湧出しようとしている。
2月2日(土)よりシネマライズ渋谷で公開、以後全国順次公開
http://www.kusama-loveforever.com/