荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『リップヴァンウィンクルの花嫁』 岩井俊二

2016-03-29 14:39:37 | 映画
 これまで岩井俊二には、これと言って評価らしい評価をしたことはなかった。いいとも悪いとも明らかにしなかった。だが、その悪意ある無視が愚行に思えてきた。そろそろ降参しろよ。もう一人の自分が耳元でそう囁いている最中だ。
 私が20代の頃に演出のアシスタントをほそぼそとやりながらシネフィル道を愚直に邁進していたとき、岩井俊二という、少し年上の人が突然出てきて、その上映会がアテネ・フランセでおこなわれた。入口の廊下に電通やら大手メディアから贈られた花束なんかが物々しく飾ってある。なんだ、この岩井というのは。あの峻厳なるシネフィルの礼拝堂たるアテネが、ぽっと出てきた寵児とやらに穢された気がした。
 それからあっという間に、岩井俊二は若手のトップランナーに躍り出た。『Love Letter』(1995)の試写を見た直後の「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集会議で、Aが「『Love Letter』には泣いちゃったけど、泣いたからって良い映画とは限らない」と言った。私は我が意を得て、うなずいた記憶がある。「カイエ」では岩井俊二を大々的には擁護しないことが決定した。
 2002年ワールドカップ日本代表の密着ドキュメント『六月の勝利の歌を忘れない』(2002)が岩井俊二の監督作としてリリースされたことも、複雑な心境を抱かされた。あのドキュメンタリー映像は、私をマネージメントしてくれているプロダクションが製作したのだが、日本代表にずっと密着したディレクターの存在を、私たち内輪の人間は知っている。あれは結局、彼の知名度のなさが招いた悲劇だ。

 『花とアリス』以来(2004)12年ぶりとなる日本での劇映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、大雑把な言い方をすれば、初心に帰ってやり直した映画だ。そして、それがすごい。魔法を使っているのではないかと疑いたくなるほどすごいのだから困ってしまう。『花とアリス』以降、他人の映画のプロデュースとか、ハリウッドへの移住とかいろいろあったが、結局戻ってきたのだ。彼のハリウッド活動って、いったい何だったのだろう。『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、その総括を脇に置いてなされた成果物だ。宿題はまだ残っている。
 何事にも自信がなく、その場限りの取りつくろいでやり過ごしてばかりいるヒロイン(黒木華)は、いわゆる「へたれ」というのかしら、腹立たしいほどにナイーヴな女性である。そこに善意と悪意の入り交じったメフィストフェレス的存在が現れて(綾野剛)、ナイーヴな彼女を騙しに騙し、人生を翻弄してまわる。偶然も折り重なったりして、すべてが綾野剛の差し金ではないにしろ、とにかく流転に次ぐ流転である。受け身の女としての黒木華のおののきぶりを、ひたすら3時間も見続けるという映画体験となる。いろいろと事件は起こるが、いずれもたいしたものではない。なのになぜかすごくて、ラース・フォン・トリアーの大仰な運命劇よろしく、ヒロインと共に私たち受け手を木っぱ舟に乗せ、荒波で悪酔いさせる。
 この映画作家について詳細に分析するのは、不肖私の役目ではない。私はただ目を丸くして「これは岩井魔術だ」などと陳腐な感嘆文を叫びながら、過去20年の非礼に少しばかり恥じ入るという段階にある。


3/26(土)よりユーロスペース、新宿バルト9、品川プリンスシネマなど全国で上映
http://rvw-bride.com

『ノック・ノック』 イーライ・ロス

2016-03-26 08:06:46 | 映画
 キアヌ・リーヴスの全盛期は、『スピード』『マトリックス』といった大ヒット超大作ばかりでなく、ガス・ヴァン・サントからスティーヴン・フリアーズ、ウディ・アレン、コッポラ、ベルトルッチといった作家の映画にも積極的に参加した1990年代前後ということになる。リチャード・ギアしかり、ケヴィン・コスナーしかり、ハリウッドの二枚目スターがどういう理由で活躍しなくなってしまうのか、そこのところがもうひとつ分からない。
 ただしキアヌ・リーヴスは、ラッキーなカムバック例となりつつある。ひたすら(単調さを恐れることなく)敵のマフィア組織を殺しまくるだけのB級クライムアクション『ジョン・ウィック』(2014)の評判がすこぶるよく、続編の製作も始まっている。『砂上の法廷』『ノック・ノック』と、日本公開も間髪入れずに続く。そしてそのどれもが90分ちょっとのB級アクションかサスペンスである。キアヌは『スピード』『マトリックス』の成功体験の幻影を追うのではなく、やっぱりB級(ここでは正確な歴史的意味では使用していない)でしか生きられないと腹をくくったのだろう。
 そして今回の『ノック・ノック』だ。舞台はLA郊外の一軒家。美人妻と子どもたちの留守のあいだに、不審者の闖入を許したキアヌ・リーヴスが、闖入者のギャル2人組に拘束されてセックスを強要され、そのまましつこくいたぶられる、という内容である。撮影場所はほぼ一軒家セットのみ。主要キャストは妻や妻の同僚、マッサージのおばさんといった脇役をのぞけば、キアヌと変態ギャル2人組だけ。なんとも簡単な映画である。この変態ギャルの家宅侵入の動機を、私たち観客が詮索してもしょうがない。病理学や犯罪心理学の問題はまったく触れようとさえしないからである。ただただ、若い娘にいじめられて怯え、情けない悲鳴を上げるキアヌを鑑賞する、それだけだ。
 この設定、私が少年時代に見てそれなりに恐怖を感じた『メイクアップ』(1977 ビデオ題『メイクアップ 狂気の3P』)とまったく同じである。あの時の犠牲者はシーモア・カッセルだった。シーモア・カッセルのやられっぷりの無残さが圧巻だった記憶がある。はっきり言って『ノック・ノック』は『メイクアップ』のリメイクだ。もし再映画化の権利料を『メイクアップ』の著作者に払っていなかったら、盗作として訴えられるかもしれない。しかし、盗作まがいのこの図々しさこそ、現在のキアヌの立ち位置を図星に言い当てていて、すばらしい。これぞB級精神である。
 と思ったら、そうではない。プレスシートには掲載されていないが、IMDbで確認すると『メイクアップ』の監督ピーター・S・トレイナーとプロデューサーのラリー・シュピーゲルが、2人揃って今作のエグゼクティヴ・プロデューサーに名を連ねている。まあどうせ、ちょっとした駄賃で名前を貸しただけだろうが。
 オープニングのクレジットでやけにスペイン語のスタッフ名が多いなと思っていたら、エンドクレジットで、監督のイーライ・ロス以外はほぼ全員チリ人だと判明した。そしてなんと、全編チリの首都サンティアゴで撮影されたと堂々とクレジットされていた。冒頭のLA中心街、ハリウッド山、サンタモニカの海岸などを順を追ってとらえた空撮のフッテージが、爽快なまでにシラジラしい。これもキアヌ的マジックということにしておこう。


6/11(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで “全国訪問” ロードショー予定
http://www.knockknock-movie.jp

『無言日記2014』『無言日記2015』 三宅唱

2016-03-23 23:52:19 | 映画
 週刊で電子販売されるウェブメディア「boidマガジン」で随時アップされてきた三宅唱『無言日記』が合冊され、このたび『無言日記2014』『無言日記20115』という2本の「長編」として、東京・渋谷円山町のユーロライブ(旧オーディトリウム渋谷)で上映会が催された。上映後には三宅唱監督×松井宏(映画批評・翻訳家 『playback』プロデューサー)×五所純子(文筆家)の鼎談イベントもあったが、あいにくそちらは見ることができなかった。こちらも缶詰になっているスタジオからいったん抜け出して、ユーロライブにずらかっているだけだったからだ。
 上映されたプリント(?)は、「boidマガジン」でアップされてきた『無言日記』を単純に棒つなぎしたものであり、カットの入れ替えや時系列の変更はしていないそうである。今回あらたに披露された『2015』は、棒つなぎしたのち、少々の尺調整をしていたら『2014』と同尺の66分にたまたまなったため、そのままそれを完成版としたとのことだ。観客とすれば、このどんぶり勘定を堪能するということになる。
 ただ、「boidマガジン」でアップされた際に見るのと大きな違いは、作者によるエッセー、というかキャプション解説を読みながら画面を見るのではなく、テキストによる手助けなしに、映画館でうやうやしく2本立ての映画として鑑賞されるという点だ。画面内に写る登場人物たちはこれといって意味のあるセリフを述べないし、作者によるナレーションもない。iPhoneで日々撮影された断片がぶっきらぼうに流れ続けるのみであり、同時に拾われたノイズだけがこの「作品」のサウンドトラックである。多少のレベル調整はされていても、マルチトラックのダビングも音楽づけもない。作者によるキャプションの文章さえ剥奪された画面は、より抽象度を増して観客の前に投げ出されることだろう。
 意味が剥奪され、類推によって多少のコンテクストを拾い読む形となった観客は、地図をどこかに忘れた外国人旅行者のように、「作品」の細部のなかをあてどなくさまよいだすだろう。「ああ、そうか、あれが樋口泰人らと共に訪れたモンテ・ヘルマンのロッジだったわけだな」などと呟きながら、観客は、半分だけ迷子になりながら66分間の彷徨を体験する。
 物語として回収される一歩手前で逃げ切りながら、短いカットが積み重ねられていく。これ以上見せると、意味という病にかかるというところを巧みに回避していく。しかし、それにしてもそれを棒つなぎしただけなのに、「作品」は「映画」になってしまう。物語として回収されることを拒絶し、細かく断片化してもなお、映画はみずからを「映画」として整形する。タフな「映画」の神のこの現前ぶりに、作者も観客も恐れおののくしかない。そしてこの残酷を、この「映画」は身をもって体現せざるを得ない。今回の上映会は、映画の黒魔術祈祷会であった。ただし、作者は錬金術のレシピを忘れてきたとうそぶいて、あくまでシラを切っている。
 これを言っても、作者は怒るまいから言おう。今回上映に立ち会った観客は、作者の死の瞬間に作者自身の瞼の裏皮をスクリーンにして上映されるであろう、いわゆる「走馬灯」なるものを、あらかじめ試写チェックしたのである。死の手前の一瞬は、一生の長さに伸縮しつつ、ソニマージュ(映像=音)が起ち上がる。作者の死に際し再生されるはずのものが、ここであまりにも早期に、試写会が執りおこなわれたのである。


三宅唱『無言日記』は「boidマガジン」にて連載中
http://boid-mag.publishers.fm/

『人生は小説よりも奇なり』 アイラ・サックス

2016-03-20 07:16:52 | 映画
 数日前、友人Hからメールをもらい、「さすがに良い」と書かれていたのが、アイラ・サックス監督の『人生は小説よりも奇なり』(2014)である。あいにくこちらは不勉強にも、この監督の作品を1本も見ていない。「ニューヨークをパリのように撮る」とHは書いて寄こしたが、なるほどこの目線の取り方が漂わせる人間くささは、『キャロル』のトッド・ヘインズに一歩も引けるところはない。タイトルの相田みつを臭が若干気になるが、そんなつまらない理由でこの佳作を見逃すべきではないだろう。
 なにより、高齢のゲイカップルを演じた2人の男優に快哉を送らねばならない。ジョン・リスゴー(ブライアン・デ・パルマ初期の傑作『愛のメモリー』で主人公のクリフ・ロバートソンをおとしめる共同経営者を演じた人)、そしてアルフレッド・モリーナ(スティーヴン・フリアーズのイギリス映画『プリック・アップ』でもゲイカップルを演じていた)の2人である。長年連れ添ってきた彼らが、ニューヨーク市令の同性婚合法化に伴って正式に婚礼を執りおこなうファーストシーンから、感動的なラストシーンまで、一貫して揺るがぬ愛を貫く。そのストーリー展開には、姑息などんでん返しも、劇的なクライマックスもまったく必要がない。それは彼らの生き方が最初から証明しているものではないだろうか。
 しかし同性婚のニュースを知ったカトリック系ミッションスクールが、アルフレッド・モリーナを音楽教師の職から解雇して以来、事態はいっきに悪化してしまう。2人は新婚早々、しかたなく別々に親類宅の居候の身となる。肩身の狭い居候生活ゆえ、つい又甥(甥っ子の子ども)の非行をちくる形となるジョン・リスゴーの、尊厳が損なわれた表情の、なんという痛ましさだろうか。
 「ニューヨークをパリのように撮る」……カメラの目線ゆえ、それとも車載の横移動が醸し出す既視感ゆえか、楷書の都市像がカメラのまじないによって、行草書で描かれたかのように香りを増す。そして、ラスト。ジョン・リスゴーの又甥ジョーイを演じた子役のチャーリー・ターハンが、映画の総決算をかっさらっていく。アパートメントの階段踊り場での長回しにおける、少年のすばらしさ、そしてそれにつづく午後遅くの逆光が突き刺す、あまりにも美しいラストシーン…。
 全編をフレデリック・ショパンの旋律が彩るけれど、それがいかなるオリジナル・サウンドトラックにも増してすばらしい。


3/12(土)よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開
http://jinseiha.com


『女が眠る時』 王穎(ウェイン・ワン)

2016-03-15 23:35:04 | 映画
 予告を見てだれの目にも分かるのは、この『女が眠る時』が、アメリカで言えば昨年の『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』とか、日本だと宮沢りえ主演の『ゼラチンシルバーLOVE』といった、どちらかというと女性観客層を市場とするファッショナブルな官能ラブロマンスを狙っているらしいことだ。一般観客はどうか知らないが、マニア層にはもっとも斥けられる分野だ。
 監督をウェイン・ワン(王穎)がつとめている。アメリカに比重を置いた活動で一定のキャリアを築いてきた香港出身のウェイン・ワンだが、どういう映画作家なのかいまだに摑みどころがない。今回の『女が眠る時』も、4人の男女の心理的駆け引き、狂気と倒錯、危険な情事ということだと思うが、じつに曖昧模糊とした作りである。ただ、曖昧にしたいという作り手の意図は分かるから、その曖昧さをもって批判したところでしかたがない。東映はなぜ最近、行定勲『真夜中の五分前』(2014)といい、国際的合作でこういう、いかようにも解釈できる難解な心理的サスペンスを作ろうとするのだろうか。興味深い路線ではあるけれど、私たち観客の勝手なイメージでは、東映のカラーからだいぶかけ離れているように思える。
 情事を覗き見する西島秀俊、覗かれていることを承知でみずからの狂気を小出しに見せびらかすビートたけし。この2人の男優は悪くないが、もうひとつ弱いのが、ヒロインにして「欲望の曖昧な対象」たる忽那汐里である。直近の出演作は『黒衣の刺客』『海難1890』だが、『黒衣の刺客』の彼女の出演シーンは蛇足に思えた。以前はもっとよかったのだが、現在もっと彼女を生かす方法があるはずだ。どうすれば生かし切れるのかと、『海難1890』を見終えた直後に考え込んでしまった(私が考え込んだところで、なんの役にも立たない)。狙っている線は水原希子あたりだと思うけれど、水原の域に達するには修行が足りない。
 眠っている忽那汐里の肢体を、あたかもバルテュスのごとき少女視姦図的な陰鬱な光のもとにとらえた鍋島淳裕の撮影がすばらしくて、ただし、それが無償のクオリティになってしまっている。原作者はスペインの小説家ハビエル・マリアスという人で、この人はなんとジェス・フランコ(正しい表記はヘスース・フランコ)の甥っ子なのだそうだ。十代の頃にヘスース・フランコの『ドラキュラ 吸血のデアボリカ』(1970)のシナリオ翻訳を手伝ったのが、文芸の道の第一歩だったという。ならばウェイン・ワンには、ヘスース・フランコゆかりのこの変態的な秘儀を日本で撮るというせっかくの機会を、もっともっと突きつめてほしかった気がする。

 ついでにウェイン・ワン(王穎)についての思い出を少し──。この人は有名原作の映画化が好きらしく、代表作はエイミー・タン原作の『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)と、ポール・オースター原作の『スモーク』(1995)だろう。私たちの世代にとっては、『アマデウス』でモーツァルト役だったトム・ハルスを主演に迎えたフィルム・ノワール『スラムダンス』(1987)が、蓮實重彦の映画雑誌「リュミエール」の表紙を飾ってビックリさせた以上のことを、ウェイン・ワンはしていない。
 私はその後、卒業記念旅行(?)で香港の街を徘徊したとき、まだ日本では未公開だった『一碗茶』(1989 その後の邦題は『夜明けのスローボート』)を、モンコック(旺角)地区の映画館で見て、『スラムダンス』同様、イラン出身の撮影監督アミール・モクリはやっぱりいいなという感想を持ったことを覚えている。最近はそのアミール・モクリも、『ピクセル』だの、あの腹立たしい『トランスフォーマー ロストエイジ』だのといった、どうしようもない大味な凡作ばかりやっているが。
 この『一碗茶(夜明けのスローボート)』の主演女優がコラ・ミャオ(繆騫人)で、現在のウェイン・ワン夫人である。その次の『命は安く、トイレットペーパーは高い』(1989)にも出ているが、あいにくそちらは見そびれている。このコラ・ミャオという人、昨年リバイバル公開されたエドワード・ヤンの傑作『恐怖分子』(1986)で、主人公を裏切る不倫妻を演じた人だと言えば、今の若い人たちにも分かってもらえると思う。今回の『女が眠る時』のエンドクレジットで、コラ・ミャオの名前をプロデュース陣のなかに発見したとき、「たぶん彼女は、夫に『恐怖分子』みたいな、不可解なのに強烈な印象を残すラブサスペンスを撮ってほしかったんだろうな」と、なんとなく合点がいった。


全国東映系で公開
http://www.onna-nemuru.jp